非二元のエッセンス

エゴを目の敵にすると、逆に実体化してしまう罠 コース学習者としての私が、非二元に学んだこと その3 

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もう一つ、ルパートさんの非二元に助けられたことがあります

分離した自己、つまりエゴを目の敵にすること、そのものがエゴを助長するジレンマから出れたことです!

彼がよく言うのは、
エゴは活動性 activityであり、実体 entity ではない。
エゴが問題になるのは、エゴを実体として捉えたとき、
またその実体を「本当の自分だ」と思った時だけなんだってこと。

どういうことかというと、例えば、ここに、堀田真紀子というエゴがいます。これまでの経歴や教育などからたくさん条件づけられていて、たとえば、注意力散漫でおっちょこちょいだったりします。近視がひどいせいもあり、あまり観察力がありません。

本当の私は気づき、スピリットとして無限性だってことを、はっきり知りながら、
たまたま、この堀田真紀子というエゴを通して、この世界を体験してる。
近視であることも、おっちょこちょいであることも、ちょっとした障害や制約になるけれど、
「今日はちょっと着心地の悪い服を着てでかけてしまったな。でも、それなりに、1日楽しもう」くらいのことに過ぎません。あるいは、
「この障害があってこそ、見える世界があるだろう」と、ポジティブに受け止めることすらできるかもしれません。
いずれにしろ、だからといって、心理的苦悩の原因になったりはしませんよね。
たとえば瞑想したりすれば、いつでも、この服を脱いで、スピリット、愛、気づきの無限性に戻り、のびのび休んだり、憩うことができるのも、わかってるし。

これが、活動性 activity として見られたエゴです。

でもたとえば、誰かが、近視だったり、おっちょこちょいだったり、あるいはそのせいで、たまたまその時やってる仕事に関して無能であることで、私を侮辱したとします。

その時に、もし私が、カリッときて、売られた喧嘩を買おうとしたりすると、どうなるでしょう? 

そこで、反応したってことは、「近視でおっちょこちょいな堀田真紀子のエゴ」が、実体として存在していること、それが私自身であることを前提にしてます。

「近視でおっちょこちょいな堀田真紀子のエゴ」を活動性として、つまり、たまたま、今、これを通して世界を体験している役柄演技にすぎず、たまたま今、身につけている服や、使ってる道具のようなものに過ぎないと思っていたら、ここで、カリッときたりして、反応することはありません!

何らかの形で、自分の分離した心身、エゴを守ろう、防衛しよう、弁護しようとするあらゆる行為や思いには、

エゴは実体であり、それが本当の自分である

ということが前提にされています。
エゴに関して、問題なのは実はこれだけなんです。

ついでにいえば、エゴを目の敵にして、否定しようとする態度にも、

エゴは実体であり、それが本当の自分である

ということが前提とされています。これが、私が長いこと落ち込んでいた罠でした!

長年かけて条件付けられてきた性格、気質などなどを、直すのは、不可能ではないかもしれませんが、大変です。

もし、スピリット、気づき、愛そのものとしての本当の自分と合流するためにそうしているのだとすれば、ずいぶん、的外れな努力でもあります。

だって、そのためには、ただ、エゴと自分を同一視するのをやめて、さっとそれを脱ぐことさえできればいいわけですから!

要するに、エゴを否定することではなく、
ただ、着脱可能な、軽やかな関係をエゴと結ぶことだけが求められているわけです。

例えば私の場合、おっちょこちょいであることで、家族からダメ出しをされたときの重要なチェック項目は、

それで傷ついたり、言い返したり、自己弁護しようとしたりしていないかどうか?

ということだけです。もしそうしようとしていたら、

エゴは実体であり、それは本当の私である

ということを、暗黙の前提にして生きているってことですから。
もしそうしていたら、すぐに本当の私と合流して、エゴは着脱可能な活動性にすぎないことを、改めて確認します。

おっちょこちょいであることも、直ればいいに越したことはありませんが、それは、このチェック項目の重要性と比べたら、二の次、三の次だと思います。

写真は、雪の日のうちの猫のおたま いつも、かなり癖の強いエゴの活動を示していて、私を鏡写しにしてくれます!

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