奇跡のコース

ヴェーダンダ的アプローチと、タントラ的アプローチのバランスをとる コース学習者の私が、非二元に学んだこと その2

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結局スゥイーツを口にしながら、
そこに、形を超えた無限性を見る。
体験の只中で、体験を超えたものを見るというのが、
ルパートさんのいうタントラの道です。

無限の愛だけが存在する。形あるあらゆるものは幻想だと思うと、
世界に対して、だんだん興味がなくなっていきます。
すべてどうでもいい、ってことですから。

そうやって、世捨て人っぽくなりそうだった私を、
このタントラの道の実践が救ってくれ、
バランスとるのを助けてくれた気がします。

タントラの道は、他の道とどう違うのでしょう?

ルパートさんによると、形ある世界が幻想で、実在するのは、気づき、愛しかないのを、明らかにするのは、大きく分けて二つのアプローチがあります。

一つ目は、瞑想などの手段によって、純粋な気づき、愛の側に立って、
そこから再び、形ある世界を眺めること。

彼がよく使うスクリーン(純粋な気づき、愛、そこに本当に実在する素材)と、映画(形ある世界のすべて)の比喩を使えば、映画のスイッチを、一時的であれ、切る感じです。そして、ここに本当に実在するのは、スクリーンだけだったと確かめるわけですね。

これで、形ある世界に対して、何か期待したり、執着したり、自己同一化(例えば役柄やセルフイメージ、身体こそ自分だと思ったり)することが、一気になくなります。
とても手っ取り早い方法です。

ただ、このアプローチの危険として、「すべて、幻想」「だから、どうでもいい」、世捨て人っぽくなる罠に落ちやすいことがあります。私も何度も落ちました(笑)。

この罠に落ちた瞬間、
幻想じゃない、形のない、無限の気づきとしての自分とと、
形ある幻想としての世界
が二分されて、
概念の世界に閉じこめられてしまうのです。
形ある世界に対する態度が冷たくなり、
幸福感が失われるので、この罠に落ちたら、すぐにわかります。

でも、形ある世界が、すべて幻想に見えるのは、そもそもそこに愛、一体性しかないからですよね。
つまり、
「形は幻想。だからどうでもいい」というよりむしろ、
「形はどうでもよくなるほど、愛してる!」ってことだと思います。

例えば、誰かを本当に好きになると、あばたもエクボに見えてくるように、
可愛い我が子だと、 どう見ても欠点に見えるところも、だからこそ、そこが可愛いって思えてくるように! 真正の愛の無条件さには、「形」を超えていくところがあります。

人をそっくりに描く肖像画の名人も、自分が本当に愛してる人は、上手く描けないと聞いたことがあります。愛には、形を溶かしていく力があるんですね。

同じ「どうでもいい」でも、背後にこうした愛の過剰を背負っている場合と、そうでない場合は、雲泥の差があるというわけです。

ここのところのバランスをとって、背後に溢れる愛を失わないでいるために、
タントラの道は、とても助けてくれます。

というのも、タントラの道は、
まさに、目の前にあるものに対して、デタッチどころか、深く深く関わり、
「形はどうでもよくなるほど、愛してる!」と思いながら、
形を超えていく道だからです。

あらゆる「形」は、過去の体験からきます。
過去のように、未来が繰り返されるよう暗黙のうちに、期待したり執着することが、「形」の世界を、守っています。

ということは、
過去のことも忘れ、未来に対して不安な期待を抱くのも一切やめて、
ただただ、今、この瞬間の幸福に没頭する刹那的な生き方をするときは、
「形」が消えるってことですね。

実際、本当に幸福な時って、私たち、細かいことなど、どうでもよくなってる。ジャッジメントの働きが停止していて、ものがあるべき形にあるかなど、念頭から消えて、時間の外に出てます。
これもすごくタントラ的な生き方です!

タントラの道は、形ある世界と逆に積極的に関わり、肉薄していきます
まさに、それによって、そこに形あるものは、本当は実在しないこと、
本当にそこにあるのは、「形」のように見えるものを通して、輝き出る
愛、純粋な気づきだけだったということを、見とどけていく道です。

映画のメタファーで言えば、映画はつけたまま。進行し続けます。形ある世界は見えてる。でも、その形をよく見ると、形を通して、それを透かして、スクリーンの輝きが、輝きでているのを感じる。そして、その輝きは、それを見ている気づきとしての私の輝きと同じものだって気づくことです。

スクリーン側からの輝き、私の側からの気づきの両方から照らされ、形の世界はだんだん助けて見えなくなっていきます。

映画の光源があまりに明るくなると、フィルムを通過しても、明度が上がりすぎ、光しか見えなくなりますよね。それに似ています。
でもこの場合は、スクリーンの方も光を放っているところが違うかな?

スクリーン(愛されるものを通して輝く愛)と、
撮影機(愛する私から輝く愛)の両方が、
同じ光を放って、一つの光に溶け合う感じです。
その分、とてもパワフルに、速やかに、
形ある世界が、透けて見えなくしていきます。

ついには、そこにあるのは、
気づきが気づきを見てる、
愛が愛を見てる・・・
たった一つのいとなみがあるばかりだったということがわかるというわけです。

コース的に見れば、ヴェーダンダの道でも、タントラの道でも、どちらも「ゆるし」と呼ばれてると思います。

「戦場を上空から見る」といった表現は、とてもヴェーダンダ的ですし、
逆に、目の前の人に「キリストのヴィジョンを見る」とか、野の草にさえ、「サンシップ(神の子の一体性)」を見ると言われる時は、とてもタントラ的だと思います。

でも、私は気質柄からくるものか、コースをやりながら、圧倒的にヴェーダンダ的なアプローチを続けていて、先ほどお話ししたヴェーダンダの道特有の罠に陥りがちでした。

今は、その矯正のために、どちらかというとタントラ寄りですが、
基本的に両方とも使い分けてます。

たとえば、エゴの感情の嵐にさらわれそうな緊急事態には、ヴェーダンダ的アプローチが一番です。たとえば、体験内容から、それに気づく側の意識を分離させ、純粋な気づきの側に立ち、そこから全てを眺め直すことで、一瞬で嵐の外に出れます!

タントラ的なアプローチは、逆に、エゴにさらわれているように見える人を前にした時、力を発揮する気がします。
例えば、どう考えても、どうでもよく見える小さなことで、クヨクヨしたり、動揺したり、怒ってる人がいるとして、その人にいきなり、「それはすべて幻想です。手放しなさい」といっても、助けになりませんよね。先程のヴェーダンダの罠に陥った愛のない、冷たい態度です。

そうではなくて、その人のことを、自分のことだと思い(コースの投影理論からみてもそうですね)、同じ立場に立ちながら、
それでも、その拘束、その覆いを通して、背後から輝き出ている愛そのものに至ろう、それだけを見ようとすることで、人を助け、自分を助けることができます。これはタントラ的ですね。

あと、タントラの道を意識して実践するようになってから、
世界に対する見方がかなり変わってきました。

世界は、その見かけ上の覆い、形の世界のヴェールを剥がして、
愛として、純粋な気づきとして見出されるのを待ってる。
それは、石ころや虫けらなど、何を通しても、できることなんだ
ってことです。

何を通しても、愛が、気づきがそこにあるのを、あらわにしていける以上、
この世には無駄な体験は何もないんだな・・・とか。
私にはこんな世俗的なくだらないことをしてる時間はないんだ!などと思いそうになったら、
「まさにここに、愛がある! それを見とどけよう」と思うようになることです。

そもそも、ジャッジメントすることが、かなり減ってきました。たとえば、今朝、私がいつも座っている机に接してる窓際に、家に迷い込んで出れなくなったらしい、虫の死骸が二つころがっていました。

「そんなの縁起が悪いし、エネルギー状態も悪いので、片付けよう」と、まずは思ったのですが、
すぐに、「これを通しても愛が輝いているのを見とどけたい」と思って、そのままにしておきました。

それから、何時間か経過しましたが、今は、それが見とどけられます。今朝は一目見て、ぎょっとした虫の死骸を見ながら、こんなに美しいものはないと思うし、そこから静けさが放射されているのも感じます。これから庭に「葬り」に行くのですが、いいお葬式になるワークだったと思います(笑)。


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