奇跡のコースの学習から、しばらく逸れ、
ルパート・スパイラさんの非二元を集中的に学んで、
私が得られた成果として、まずあげられるのは、
「今、ここ」から、心がはみ出してる部分を、徹底して、切り捨てていくことでした。
もちろん実用的なこと、物理的に必要なことに関して、未来を配慮するというのは、必要だし、止める必要もないと思うのですが、
ただ、そこに自分の幸せや救いがかかってることに関しては、
「今、ここ」から、絶対に動かないようにする必要があります。
だって、そこにしか、求めるものはないのですから!
コースでも、同じことが語られています。
人でも、モノでも、とにかく「形」あるもの、「特別」なものに
自分の救いがかかっていると思うのは、
「偶像」と呼ばれ、手放しの対象とされています
でも、油断すると、
聖霊
聖霊とともにあること
ゆるしがすすむこと
目覚めること自体を、
それが、未来のいつか、どこかで達成される出来事だと思ったりして、
また一つの偶像にしてしまうおそれがあります。
私は、知らず知らずのうちに、そうしてました。それが、罠だったんですね。
「いつかどこか」にある。それを手に入れるために、今はただ準備しようという気持ちがどこかにありました。
コース自体、聖なる瞬間は、今、この瞬間だけ。聖霊がいるのも、今、この瞬間だけ。未来、過去は、エゴの領域だと、語っています。
聖なる瞬間は、準備できない。なぜなら未来にあるわけじゃないから。あくまで、今、今、今にしかない。ディヴィッド・ホーフマイスターさんも言うように、Now or never! の覚悟がいります。
それと同じことを、本当に日常生活に落とし込んでいくのに、
私は、ルパートさんの非二元のウェビナーに出続けたりしたこと、役に立ちました。
たとえば、そこで、ある週に出た宿題は、
何をするにせよ、何を考えるにせよ、
その前に立ち止まり、
「そうしさえすれば、幸せになれる、これさえ獲得できれば、幸せになれる。「今、ここ」自分の惨めな状態から出れる・・・・」
って思っていないかチェックするようにというものでいた。
そこに幸せがかかってるって、思っていなかったら、そのまま続けていいんですよね。
そうやって、「今、ここ」から、心が少しでもはみ出してるって思ったら、それに気づく癖を徹底してつけるように、すすめられます。
実際、心が、はみ出していて、
「今、ここ」でやろうとしていること、手に入れようとしていることで、
幸せになろう、惨めな状態から抜け出そうって、少しでも思っているのに気づいたら、どうするかですが、まずは、
幸せは、今、この瞬間の、しかも自分の中にしかないこと、
これさえすれば、これさえあれば幸せになれると思うのは、間違った場所にそれを求めていることを、しっかり理解するようにすすめられます。
抵抗も抜く
とはいえ、そこで、「しまった」とか「またやってしまった」とか、「そんな私はだめだ」と思わないこともポイントです。ありのままの自分に抵抗しない、ありのままの自分をジャッジしない、裁かないというのも、徹底する必要があるからです。
やろうとしていたことを、中断させられて、
その背後にある動機を直視させられて、とても不快に感じているかもしれませんが、
そのありのままを、素直にそのまま、感じます。
いわば、「今、ここ」に対する抵抗そのものを、「今、ここ」で感じるわけですね。
こうすることで、「今、ここ」からはみ出した心を、ひとまず、「今、ここ」に戻すことできるというわけです
ゆるし は失敗しようがない
これさえやれば、これさえあれば、幸せになれる。惨めな状態から脱出できると思っていたものを探すのを中断して、そこにある動機を直視したときに、感じるのは、欠如の信念ですね。
苦々しさや痛みが感じられるかもしれません。
次に必要な作業は、その全てが、ありのままであるのを、ゆるしながら、
それにただ、気づいていること。
ここで、「気づかれている」体験内容は、良いもののように思えたり、悪いもののように思えたり、そのどちらでもないように感じられるかもしれません。
でもそうした全ての体験に「気づいている」側にいるあなたの方はどうでしょう?
この「気づいている」側にいるあなたに気づいてみましょう。
しばらくこのままでいてみてください。
体験内容はひたすら、ありのままであることを、ゆるしながら、
それらをありのままに、気づいているあなたに気づいています。
そうする中で、痛みや悲しみやいらだちなどが感じられてくるかもしれません。
その瞬間、それを、「気づかれた」体験内容の方に入れてください。
実際、そちらに属してるのですから!
あなたはあくまでそれをすっぽり包みこみながらも、それに「気づいている」側にいます。
ただ、気づいているあなたに気づいていてください。
*
そうして、体験内容が、そのままであることをゆるし、
かつそれにぴったり寄り添いながら、
ぶれずに、それと自分を混同せず、
ただただ、気づく側の自分に気づいていてください。
しばらくすると、安らぎが感じられてきませんか?
自由な解放された感じ、あたたかさ、やさしさ、愛に満たされてくるかもしれません。
「今、ここ」の宝箱の中身がだんだん滲み出てきました。
*
そうやって、気づきの側にいる、気づきとしてのあなたが、はっきりと気づかれてきたら、
自分に問うてみてください。
「気づきの側にいる私は、体験内容に、心乱されることがあるだろうか? そもそも、影響を受けることがあるだろうか?」
逆に、影響を受けたくても受けられないことに気づくかもしれません!
ただただ、気づく側にいるあなた、純粋な気づきとしてのあなたは、
体験内容に気づく存在なので、それと密接に関わっています。
でも、本人は、その内容に、全然、影響をうけないのです。
地震が起こっても、空に飛び立つと、影響を受けないのと同じです。
上空に出ると、地上で起こっていることの全体像は、地上でいるときよりもはっきり見えます。でも、見てるあなたは、そこで起こっている一部始終に、一切、影響を受けません。
純粋な気づきと体験内容の関係もこれに似ています。
あなたの中には、すべてにはっきり気づいていながら、
気づかれる体験内容の側からは、
影響を受けたくても、影響を受けようがない(笑)!
そんな部分が存在するのです!
その部分、この純粋な気づきに、ぶれずに、意識をぴったり合わせることができたら、
どんなものであれ、体験内容に動揺することがなくなるし、
これだけはゆるせないと思う人や出来事も一切、なくなります。
このあなた、純粋な気づきとしてのあなたは、
逆にゆるさずにいることが、できないのです。
どんなに凄まじいアクションムービーを映しても、
スクリーンが弾丸や血の跡で汚れないのと同じです。
克己的な努力のあげくの果てに、やっと誰かを、何かを、受け入れることができた、ゆるせた・・・という感じではなく、
何の努力もいらず、自然に、気づいた時には安らぎ、ゆるせてる感じです。
唯一必要なのは、体験内容と自分を自己同一視するのを、完全にやめて、
意識の焦点を、純粋な気づきに合わせるだけです。
*
何より、そうしていることで、静かな幸福を感じ続けることができます。
ここから感じられる幸福感は、
ある時は感じられる、他の時は感じられないといった、当てにならない代物ではなく、
24時間、どんな条件下でも(体験内容がどうであれ)、感じることができる、揺るぎないものです。
たまたま、その時、条件が整ったから感じられる、一精神状態なのではなく、
あなた自身の本性だからです。
コースで、聖霊は、いつもいつも私たちと共にいると言われるのと、同じことだと思います。
ただ、だからこそ、ゆるしは失敗のしようがないことを、本当に腑に落としていくのに、
体験内容から、気づきを抽出し、純粋な気づきに至るアプローチは私の役に立ちました。
それは、体験内容の雲の上にいつも輝いている太陽のようなものです!
ここから感じられる幸福感の揺るぎなさ、
もしものことがあったら、いつか失われることがあったら・・・といった喪失の不安に翳ることが、決してない、この充足感を知ると、
私たちが見かけ上、外の世界の「いつか、どこか」、形あるものの中に求める幸福の約束のはかなさ、もろさも見抜けるようになります。
だとしたら、そこに幸福や自己肯定感の拠り所を求めるのは、もうやめようって、心から思えるようになります。
いつかどこかの何かや、誰かに、自分を幸福にしてもらおうと、はかない望みをかけたり、
それをめざして努力したり、
一度、自分を幸福にしてくれた何かに、これからも幸福にしてもらおうとしがみつくのは、
とても危険な投資、はじめから破綻するってわかってるプロジェクトを始めているように、感じられてきます。
「今、ここ」に、いつもある宝箱を開けて、
純粋な気づきとしてあることからくる揺るぎない幸福のみを、求めることにしたいと思います。
すべてが祝福の表現になる
話を戻しましょう。「これさえすれば」「これさえあれ」ば、幸福になれる、惨めな状態から脱出できると思って始めようとしたことは、結局どうなるのでしょうか?
ケースバイケースだと思います。欠如の信念が消え、ゆるされたあと、あなたがどう感じるか次第です。もうその気持ちが全くなくなっているかもしれません。あるいは、そもそも何をしたかったのか、何をしようとしていたのかさえ忘れてしまっているかもしれません(笑)。
あるいは、まだやりたい気持ちがあるかもしれません。そういうときは、ぜひやってください! でも、体験の質は、全然異なってくると思います。
同じスゥイーツを食べるにしても、何か足らない、このままじゃいけない・・・そんな不安をまぎらわすために口にほうばるのと、
そうした気持ちが癒された後、ただ、人生を楽しみ、祝福するために口にするのは、全然ちがいますよね。
味わいは、消えたり、薄らぐどころか、深まります。
一口一口が、「ああ、幸せ!」という体験になります。
気づきはどこを見ても気づきを見るから。
日常的な何気ない出来事も含め、あらゆることのうちに、しっとりした、落ち着き、幸せ、一種の無限性を感じるようになるからです。
ルパートさんが「タントラの道」とか、世界に「祝福」を与えると呼ぶのは、この種の体験です
自分の外にあるものに幸福を求めるのを避けよと言われているのは、禁欲主義のすすめではないんですね。逆に、とても耽美的な生き方。ただ、執着しないというだけなんですね。