奇跡のコース

一発セルフ・ヒーリング

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セルフ・ヒーリングのやり方は色々あるようだけど、面倒くさがり屋の私は、食べ物や生活習慣など細かいところに気遣うのは苦手。根本に働きかけて、どんな不調も一発で治るようなシンプルな方法ってないのかしら・・・とかねがね思っていました。

『奇跡のコース』はそんなときの私の知恵袋。これによると、私たちの身体は、毎瞬毎瞬、神に継続的に創造されてる。「神」というと、宗教っぽくて胡散臭区思ったり、縁遠く感じる人もいるかもしれません。

でも、自分の体を自力ですべて管理してるって自信持って言える人って、たぶんいないはず。「自分の身体のシステムを自分の意思と注意と知恵でコントロールしたいと思っても、それはできない相談です。自分の意思で毎日数ミリずつ神や爪を伸ばすなど不可能だし、意識を向けなければ呼吸ができないとしたら、一体どうやって生きていけるというのでしょう。各種ホルモンの分泌量、血液のバランスの良い成分を自分で管理しなさいと言われたらお手上げです。自分のコントロールをはるかに超えた力は、地球の生態系にも自分の身体にもあり、その力が私たちを育み、調和させ、生命の力を謳歌できるように支えてくれているのです」(『知覚の扉を開けて』香咲弥須子)。

自分のコントロールをはるかに超えたその力は、狂いなく調和していて、疲れ知らず。24時間、休むことなく稼働中。だから私たちは、生きてられるし、この力に、安心して、くつろいで身を任せていられる。その総体を、「神」と呼ぶだけのこと。

その「神」による創造が継続されていることで、私たちの身体も維持されている−−それは、例えば心臓が脈を打ち続け、ホルモンやリンパ液や血液、血圧や血糖値などもホメオスタシスで、バランス値に保たれている。私の意識のあずかり知らぬそんなありがたい力で生かされているからこそ、私たちも生かされているということを違った言葉であらわしてるに過ぎないのです。

ところで、私たちの身体を維持するこの継続的な創造行為を、そんな「神」がなすままに任せておけば、問題はありません。なのに、変にそこをねじくるような情報を、人間がそこにさしはさむもんだから、様々な病気になる。ではヒーリングのために必要なことは、人間が勝手にそこに持ち込んだ、ねじくれた情報を一切合切、消去すること。そして、この継続的創造のプログラムを、まっさらな初期設定の状態に戻すという、たった一つだけのことなんだって、わかります。この初期設定の状態では、「神」による、自然治癒・再生力がただみなぎっているばかりなので、治癒は時間の問題ということになります。

それだけですべての難病や、明らかに外に原因がある怪我までが解決するかどうかは、正直私も疑問だし、わからないところ。ただ、どんなケースでも、自然治癒・再生力を高めること自体、悪いことにはならないと思います。

何よりこの方法のシンプルさが、私はとても気に入っています。特別の健康法や健康食品など一切、いらないし、手間もお金もかからない。

でも、病気をどんどん再生産する「ねじくれた情報」を一挙に消去するリセット・ボタンを押すって、具体的にどうすればいいのでしょう? 

何だか大変そうに聞こえますが、「大変そう」という思考も、この「ねじくれた情報」の最たるものの一つのようです。ヒーリングの実際は、「大変」の正反対で、あらゆる「頑張り」の放棄ができたときに、やっとはじまるものなのだそう。

「病を撃退するぞ!」と息巻くのもよくない。とにかく、力を抜いて、信頼して、身体を自分よりずっと大きなものに、あずけきることが、コツなようです。徹底して、小さなエゴとしての「私」にできることなど、何にもない、と降参してしまう。

なぜかというと、香咲さんも言われるように病につながる思考には全て、小さなエゴとしての「私」にしがみつくことが絡んでる「どうせ悪いのは私」といった罪悪感から始まり、「私はこんなに苦しんでるのよ、それを見て」と、「可哀想な私、苦しんでいる私」を誇示して何とか周りの注意を引くことまでして、「私は愛されている」と感じたい絶望的な努力、それが長じると、「私がこんなに苦しんでるのも、愛してくれないあなたのせいなのよ」と、相手を責める攻撃になることもある。その手の自己否定的、他者否定的な思考が、本来すこやかになされるはずの身体の継続的創造過程に絡まりこんで、阻害してる。その結果が病になって現れるというのです。

今、自分が苦しんでる心身の不調が、この手のネガティブな思考のどんなバージョンと結びついて起こっているのか、突き止めるのも、面白い作業かもしれません。無意識下に潜伏していること、抑圧されていることも多いので困難な作業になることも多いそうです。

でも、一つ一つ突き止めなくても、全てひとまとめにして、一挙にゴミ袋に入れる方法があります。これらの思考の全てに、「私」が付いているところに目をつけて、「私」がそこに存在しえない状況を作ってしまうのです。すると、「私」にまつわる思考は、身体から自動的に抜けていきます。

それが、先ほども話した、あらゆる「頑張り」の放棄して、力を抜いて、信頼して、身体を自分よりずっと大きなものに、あずけきることだと思うのです。

この感覚をわたしが意識するようになったのは、持病のアレルギーを、気功をはじめとした代替療法だけで治したときでした。定期的に、原因不明の目の充血や目やに悩まされていて、その度に目薬(後で知ったのは、それらがすべてステロイド系だったこと)で症状を止めていたら、だんだん効く目薬がなくなって、どんどん強い目薬を処方されていたのですね。だからそれに伴って、症状もだんだん悪化して、3年ほど前にそのピークがきました。目の充血だけでなくて、目の周りが腫れてお岩さんのような顔になり、眼痛と頭痛で、じっとしていられないほどの発作がときどき襲ってくるほどに悪化したのです。渡米中に駆け込んだ眼科医をやっている親戚に、「これは目が悪いのではなくて、ホルモンバランスか免疫系なので、全身の問題。目医者に言っても仕方がないよ。僕はヨガをやってるけど、そういったものをやったほうが、効くと思う」という本音のアドヴァイスを受けることができたのをきっかけに、治療方向を転換。たまたま通っていたクリニックで教えていた気功教室に出たところ、涙が出て止まらなくなるのに気付きました。

そのとき。「あなたの体、とにかくものすごく緊張してる。ふっとゆるめてリラックスすればするほど、気のエネルギーが入ってきて、自然治癒力が活性するよ・・・と教えてくれた先生には本当に感謝。

とにかくあらゆる方法(うんと緊張させてさっと力を抜くとか、吐く息と一緒に、身体が液体になって沈み込んでいくのをイメージするとか)で、いつでもどこでも身体から力を抜くように心がけると、ますます涙、鼻水というふうに、あらゆる形でのデトックスがはじまり、はじめて半年経つ頃には、根強い目の充血も、片時も痛み止めを手放せなかったほどの眼精疲労からくる頭痛も、次第に嘘のように消えてしまいました。

「治ろう」と躍起になって身体をコントロールし続けようとする限り、病は消えなかったのに、コントロールを一切やめて、手放すと、かえって治ってしまうという、それはそれは、不思議なプロセスでした。

アインシュタインは、「問題が生じたレベルで、問題を解決することはできない」と言っていますが、まさに、そうだと思います。

また、アルコール匿名者の会が、アルコール中毒にアプローチするやり方とも共通点があると思います。そこでは、「お酒をやめるぞ」と自分で自分をコントロールしようとする限り、お酒はやめられない。そもそもこの「コントロールするぞ!」という態度の中に、「お酒がやめられない」原因が含まれているから、どうどうめぐりを繰り返してしまうと考えるそうです。この悪循環を断ち切るために、「私の力では、どうすることもできません」と降参して、自分よりも大きな力に自分をすっかり明け渡し、ゆだねてしまうと、逆に中毒からの打開の道が開けるのだそうです。

今でも、「私は違う!」というふうに、エゴとしての自分を周りから切り離し防衛体制に入ったり、時間がない、お金がない、誰にも構ってもらえない・・・と心配モードに入ると、体がみるみるキュッと緊張してくるのを感じます。これを放置していたら、また、アレルギーがぶり返すだろうなとも思います。

でも、昔と違うのは、それを意識できるし、どっちで生きるか、自分でちゃんと選択できること。ようするに、キュッと身体が緊張して縮んできたなと思ったら、フーッと深呼吸、脱力して、「おまかせ」モードに意識的に切り替える。私は、自分より大きな力に、自分をゆだねて生きてるだけ・・・・ということを思い起こすのです。その時、内側から、あたたかく、ゆったり、身体の境界を超え、風船のようにどんどん膨らんでいく膨張性の力が感じられてくると大丈夫。それに包まれて、心底安心して、ふたたび、「今、ここ」にくつろぐことができるようになれます。

自然治癒力が身体にみなぎってきて病気が治るだけじゃない。心の殻もとれて、対人恐怖の防衛感がなくなっていくので、人間関係もよくなってきます。人生のドラマ全体を一歩引いて外から眺めるような余裕もできるので、視野も広がり、ものの判断も間違うことがずっと少なくなって生きます。

時々、今、自分がやっていることが、宇宙の中の自分の役割にのっとったことなんだろうか、正しい選択をしているんだろうかって疑問に思うことがあります。そんな時、確かめるのは、それをやっている「今、ここ」の自分の状態に、身を預けても大丈夫。安心して身をゆだねられるかということ。高いところから飛び降りるように、そこにまっさかさまに落ち込んだとしても、安全に、愛情深く受け止めてくれるゆるぎなく、ふわふわ膨張感のあるものを感じられるかということ。それさえ感じられれば、いつ、どこにいても、そこが、くつろげる我が家のように思えてきて、気持ちのいい、ふわふわのソファに身を埋めることができるような心地がすれば、大丈夫。そこで私を受け止めてくれているものこそ、「神」だから。いつもいつも、この感触と一緒に生きること、そこで頭に閃いたことをすること。すると、本当に、らく〜に生きていけます。

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