非二元のエッセンス

「今」に対する抵抗解除の切り札は「休む」こと

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気づきや愛の海に近づくにつれ、
そこから、抗いがたい魅力、まるで掃除機で吸い込まれるような、何とも言えない吸引力が発しているのを、感じるようになります。

そこには、真理への愛や、一体へのあこがれというかたちをとることもありますが、
やっと、心底安らげるところ、本当の我が家に戻れる感じ、
真冬の寒い日に露天風呂に入るような安らぎの感覚からの吸引力が、
私には決定的でした。

ルパートさんの気づきの定義の3つ目は、
全てがそれからできている素材
でした。全ては、気づきからできているってことです。
『奇跡のコース』流に言えば、全ては愛からできている、と言っても同じことですが、

安らぎたい、心底安らぎたい・・・というこの吸引力は、
全ての素材、気づきや愛に戻り、全てと一つに溶け合いながら憩いたいという衝動なんですね。

平安からのこの吸引力で、本当にありがたいなって私がつくづく思うのは、
根深く習慣として染みついている、欠如の信念

今、ここのありのままには不十分なところがある(抵抗)
いつかどこかに理想状態がある(探索)

を根底から崩していく切り札であることです。

心底安らぎたいという、愛の海からのこの吸引力を感じ始めるにつれ、
たとえば、セルフイメージを維持するためにこれまで傾けてきた努力をやめたくなってきます。
意地を張って頑固にポリシーを守ったり、
競争したり、人の思惑を気にしたりしてこれまでやってたことが、
だんだん馬鹿馬鹿しくなってきます。
こんな疲れること、やめた・・・って感じです。
特別性の自己愛の拠点はそれで崩れていきます。

それは、比較的に、始めに起こることではないかと思います。
でも、その後も、抵抗・探索癖は、執拗につきまといます。

この平安の切り札の活躍のめざましさを、わかっていただくためにも、
まずは、この抵抗・探索癖の根深さについて、まずは、少し、お話しさせてください。

私の場合は、能力、仕事、キャリアで、自分を特別にしたいという気持ちの中に潜む
今、ここのありのままには不十分なところがある(抵抗)
いつかどこかに理想状態がある(探索)
という思いは、比較的早く失せました。
で、仕事も早期退職して、田舎暮らしをはじめたりしたのですが、

すると今度は、もっとスピリチュアルになりたいという気持ちの中に、
同じ思考パターン、抵抗・探索の癖がそれが忍び込むようになりました。

もちろん、スピリチュアルなものへ憧れる気持ちの中には、
気づきや愛の海そのものから発する、今、お話しした吸引力も働いています。
それを感じて、それに身を任せるのは、大切なことだと思います。

でも、それが、現状に対する抵抗をともなうとき、たとえば、
このままじゃだめだ、どうにかしたい! より良い心の状態になりたい! そのための方法を教えてくれる人や本や修行方法を知りたい! そのための究極の秘伝、テクニックを知りたい!
というのは、抵抗と探索そのものですよね(笑)

そもそも、スピリチュアルな達成、たとえば悟りや覚醒と呼ばれているものを、
とても稀で、恩寵的な「体験」だと考えたり、
人生のある時期に訪れる、「出来事」だと考えたり、
達成すべき特別な「精神状態」だと思う限り、

そこにはこのままじゃだめだと現状に「抵抗」し、
今、ここにはない、より良い状態を求める「探索」が、微かであれ、含まれています。

そして、その癖自体が、求める当のものから、私たちを遠ざけるように作用してしまうのです。
ほとんどこの癖だけが、私たちをそこから遠ざけてると言ってもいいくらいです。

時折、たまたま好条件にめぐまれて、
「抵抗」「探索」癖がゆるむことがあり、
それに伴い、深い神秘体験があったりすると、
今度は、その後、普段の状態に戻った時に感じられる落差にますます悩まされるようになり、
現状にますます「抵抗」して、
「特別な精神状態」の再来を求めて、
まるで、麻薬中毒患者のように彷徨う「探索」が始まりかねません。

これほど根深い、私たちの抵抗・探索癖ですが、それでも、

あらゆるもの(今、自分が抵抗している嫌な現状も含め)が、
気づきで、愛でできている
だから、今の自分のありのままの体験を、そのまま素材に戻せばいい

ということが本当に理解できると、
根本から解除することができます。

この点で私を一番助けてくれたのは、イギリスの非二元の教師、ルパートさんでした。
彼が抵抗・探索癖を追い詰めていくやり方は、本当に徹底していて、
何か形あるものに、自分の不十分さを補い、充足させてくれるもの
自分を幸せにしてくれるものを求め、
そこへと向かおうとしていないか、絶えずチェックするようにとまずは言われます。

でも、それに気づいた時(私など、しょっちゅうですが)、何をすべきかについて、
彼がすすめることは、ちょっと変わってます。

普通だと、「またやってしまった、私ってダメだなあ」と、
抵抗する自分に対してまた抵抗してしまいますよね。

ルパートさんのアドヴァイスはこれに対して、

求める方向だけ改めなさい

というものです。

つまり、今、そちらへ向かって進もうとしてる方向ではなく、
自分がそこから出てきたところに戻れってことです。

私自身、字幕を付けさせていただいた、『全ての期待の終焉』というビデオ

の彼の言葉をそのまま引用すると、

心の精髄をなす不変の本性は、
期待の「対象」として見出されることはなく、
期待の「源泉」にあたる部分に存在します
期待はそこから生じますが、そこへ向かうことはできません
(13:49)あたりにあります。

ここで「期待」と言われているのは、
「これさえあれば、自分は幸せになれる」
という思いの全てです。
「これさえあれば」と、何かに向かっているわけですが、
幸せは、その「何か」にではなくて、
自分がそこから出てきた場所、「源泉」の側にあるってことです。

話が難しくなったかもしれませんが、要するに、言いたかったのは、
自分が抵抗・探索をして、「これさえあれば」と、何かに期待を託して追いかけてるのに気づいたら、
来た道をそのまま逆戻りするしかないということです!
後ろ向きに、とことこあるきながら(笑)!
というのも、振り返ってしまうと、目的地が目の前に見え、客体化されてしまうからです。

でも、後ろ向きに歩くのって、不安ですよね。
進む先が見えないわけですから。
でもそれこそが、道から逸れていない、証拠なのです!
客体を見ていないということですから

私たちが、物を見たり、聞いたり、考えたりするたびに、
そこから外へ、緊張して身を乗り出している
源泉は、それ自体、客体ではないので、
見ることも、捉えることもできません。

見えないのに、なぜ、道を間違えず、
目的地、つまり自分の源泉に向かっているかがわかるかというと、
安らぎが、どんどん増していくからです。
これが、冒頭でお話しした、平安の吸引力です!

抵抗・探索がやめられず、ありのままの自分に対してダメ出しばかりしていても、大丈夫。
それがやめられない、まさにそのきついところ、辛さところの「ありのまま」を、まるごと、しっかり感じて、つかんでから、
後ろ向きに、源泉へ向かってとことこ戻っていけばいいのです。
源泉に近づくにつれ、
するとそのきつさ、辛さが、
緩み緩んで、ゆっくりと溶けていき、
愛という全てのものの素材に戻りはじめ、
どんどん優しく、甘美なものへと変容しながら、
道案内人を引き受けてくれます。

あたたかさ、やさしさが、どんどん増していくのが、
正しい道を歩んでいる証拠です。

そして、このとてもなつかしい、安らぎそのもののありか、
そこには何も、形あるもの、つかめるものがないので、
見ることも、捉えることもできず、未知のものに感じられるけれど、
抗いがたい魅力と、吸引力を放つ
愛という素材だけでできているこの海へ、
意を決し、勇気を振るいおこして、
どすんと、そのまま後ろ向きに倒れ、身体の重みをすべてあずけるように、落ちこんで・・・自分自身の中に休らいます。

辛さはそれでも、しばらく残るかもしれません。そういうときには、そのまま、気づきの、愛の海に安らわせてください。

この瞬間の甘美さを味わったら、
これまで、「今、ここ」のありのままの状態をひたすら無視したり、拒絶して、
「いつか、どこか」に、愛であれ、安らぎであれ、悟りであれ、何かいいものがあると追いかけてばかりいたのは、本当に馬鹿だったなと思うようになります。

だってこれこそが、目指す場所への、道案内人だったのですから!
だから、どんなに惨めで不完全に見えても、
「今、ここ」の、ありのままを手離してはいけません。
これをがっしり掴んではなさないことが、まずはポイントだと思います。

「今、ここ」のありのままに対する抵抗がやめられなくても、大丈夫。
そうやって抵抗してやまない自分のありのまま、
そこにある辛さや緊張を、感じればいいだけですから!

どんな悪感情も、それ自体が、気づき、愛からできているので、もと来たところ、それがそこから生まれた源泉に戻って、素材に戻せる。そう固く信じて、まずは安心してください。

説明がまた長くなってしまったので、一瞬でできる実験ご紹介します。

実験

今、この瞬間のあなたの体験が、すべて、ありのままであることをゆるします。

自分に対してダメだしする声がやまないときは、まさにそういうところがいいんだ、と、無条件の愛を注いであげてください。それもできない場合も大丈夫、それができないところがまたいい、そのままでいい、愛してる・・・

こころがゆるんで、体験の全体を、そっくり丸ごと抱擁できたと思ったら、

そうしてる自分に気づいてください!

気づくといっても、ピーンと緊張しながら気づく感じの気づきではなく、気づけば気づくほどリラックスして安らいでいく気づき。全てがありのままであるのをゆるしながら、光の中にそっくり丸ごと渡して、ただ、自分自身に気づいていてください。

そして、ただ、自分自身に気づいていることの中で安らいでください。これこそ、あなたの本性そのものです。「稀にしか体験されない特別な意識状態」でも何でもない、どこにも行くことはない、24時間稼働中のものです。

というわけで、あくまで出発点は、今この瞬間の自分のありのままに敬意を表し、
それを抑圧したり、無視したり、こらしめようとせずに、しっかり感じることです。

無理しているな、不自然なことをしているな、緊張しているな、疲れているな・・・・

と感じれば感じるほど、それを緩め、安らわせる方向へと、自分の源泉へと、後戻りして戻っていく推進力になります。

どこか新しい場所に行くのではなく(そうすると、また抵抗と探索がはじまります)、

あくまで、自分がもと来た道をそっくりそのまま戻り、
本来の自分の自然な状態を取り戻すだけなんだってことから、逸れないためにも、

今の自分がどれほど無理をしているか、疲れることをやっているかを、痛感して、それを、ただ、ゆるめて、休むだけなんだっていうところが、ポイントです!

解放されるには、まずは自分が縛られていることに気づく必要があるのに似ています。

そうしないと、いつか述べたように、自分が縄で縛られていることに気づかず、
解放感を与えてくれる状態を、いつかどこかに求めて、世界をさすらいながら、
例えば、グランドキャニオンのような広大な光景を前にしても、
「変だな、窮屈な感じが、抜けないな」って思うことになります。

「今、ここ」の自分のありのままを見ないで、いつも忙しく、「いつかどこか」の幸せのために投資し続けるっていうのは、そういうことなんですね。

あるいは、雲から抜けて、太陽に至る道は、雲の真っ只中を通る必要があるのにも似ています。

たとえば、手を長いことギュッと握りしめたままでいると、そのポーズが癖になり、握りしめたままで手が固まってしまい、掌を開くのが苦痛だったり、努力がいったりしますよね。

分離した心身こそ自分だと思いこんでいる私たち、エゴとしての私も、
もそれと同じような不自然な拘束を、
気づきとしての、愛としての私たちの心の本来の広がりに対して押し付けてるって言うこともできるかもしれません。

たとえば、先ほどもお話ししたように、セルフイメージを維持する努力は、大変なものです。
そもそも、ありのままに「抵抗」し、より良いものを「探索」するのも、疲れることだし、
それ以前に、形ある何かに向かって注意をするだけでも、
心をぴーんと張り詰め、緊張させていることにも、気づくようになるかもしれません。
注意、アテンションという言葉の中に、テンション、緊張という語が含まれているように!

(「集中」しているときの、このぴーんと張り詰めた気づきを、緩めて、元来たところ、源泉に戻していくように、誘導してくれる、ルパートさんの素晴らしい誘導瞑想のビデオがあります。長いビデオですが、最初の20分程度の瞑想が、それにあたります)

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