非二元のエッセンス

ルパートさんのビデオ Reality is not Two の解説

  • LINEで送る

愛はどこをみても、愛を見る、
気づきはどこをみても気づきを見る

自分が自分を見る、たった一つの営みがあるだけ

このビデオにある瞑想のテーマを一言で言えば、そういうことになるでしょうか?

そのことを、私たちが考えている思い、聞いている聴覚、そして最後に、身体感覚で順々に確認していきます。

ただ、もし、気づきとしての私たちがどこをみても、気づきしか見えない
愛としての私たちがどこをみても愛しか見ないとすれば、
世界は、そこに映った夢ってことになりますよね

世界は存在しないというと、抵抗を感じる人多いようです。ニヒリズムだって
私はそうは言わず、むしろ、
愛しか存在しない、安らぎしか存在しない、光しか存在しない、
つまり、天国があるだけだっていいたいです。

愛、安らぎ、気づきの光だけでできたこの天国に、
いろんな映像が映っていて、
それが世界として体験されているだけなんですね。

それを知りながら、夢と関わるのは、実際にはとても楽しいことです。
重苦しい世界の夢を見ながら、
その映像を気づきの光で透明に透かし見て、
やっぱりここにも愛しかなかったことを確認しながら、
ああこれも夢にすぎないんだってことに気づいていくのが、癒しです。

このビデオの瞑想は、世界という夢の中にいながら、
そこに、夢の外にある、本当に実在するもの、気づきの光、愛、天国・・・を透かし見て、そこに至るためのものです。

でも、ちょっと特殊な言葉遣い、しますよね。たとえば、
思考 thoughtではなく、思考することthinking
音 soundではなく、聞くこと hearing
視覚 sight ではなく、見ること seeing
と彼が言うのはなぜでしょう?

リアルな夢を見たことありますか? 夢を見ている時はこれは絶対現実だと思ってる。ものにも手応えがある。物質として実在してる、人も実在するとしか、感じられない。
でも、朝目覚めると、全て消えてしまいますね。

私たちが今、生きている世界もそれと同じように、単なる超リアルな夢だとするとどうでしょう?

すると、たとえば、ここにあるコップ、これが客体として、本当に実在するとはいえませんよね。
ただ、コップを「見ていること」があるだけ。
今、鳥の声が聞こえるのですが、鳥が客体として、本当に実在するとは言えない。
鳥の声を「聞いていること」があるだけ。
軽い頭痛があるとします。頭が客体として実在していて、それが不具合をきたしているというより、
頭のように感じられるものが、痛んでいるという、「感じていること」があるだけ。

ルパートさんが、「見ていること」、「聞いていること」、「感じていること」
というときは、そんなふうに、
そこに本当に、見たり、聞いたり、感じている対象が、客体として、実在するかは疑わしいけれど、
でも、それらを見たり、聞いたり、感じたりはしてることは確かだね・・・という意味です。

映画を見ているときのことを想像されてもいいと思います。
映画に出てくるものは、のめりこむと、実にリアルに感じられますよね。

でも、その登場人物が見聞きしたり、体験していることが、あなたの世界に実在しているとは、思っていませんよね。そこにあるのが、「見ていること」、「聞いていること」、「感じていること」です。

そんなふうに、
ただ、「見ていること」、「聞いていること」、「感じていること」だけがあると思うと、
気づきのフィールドの中で見やすくなります。

試してみましょう。

今聞こえている音を、そこに客体があるという前提の上、
たとえば、そこに車があって、その車が音を立ててる
鳥がいて、それが鳴いてる
と思いながら、聞いてみてください。

そして聞いてる自分に気づいていてください。

なかなか、音源の方に注意がむいて、ピーンと緊張した感じ、とれないですよね。
車の騒音うるさいな、鳥の声は心地よいなといった、ジャッジメントもとれませんよね。

今度は、そこに客体、つまり車や鳥がいるという前提を立てないで、なんか聞こえてるな〜って感じで聞いてみてください。

そこに本当に何かがあるのか、そこにあるのが、何なのか、私は知らない。
でも、何か聞こえてる。この聞こえていることが、ありのままであること、そのままであること、名前も持たないでいるのをゆるしながら、気づいていよう

そうやって聞いていると、だんだん、この聞いている体験が、先ほどの「今日はお天気がいいな」という思考と同じように、気づきのフィールドにすっぽり包まれているように
そことの境界線もぼけて、今にも溶け込みそうに感じられてきませんか

夢が、夢の素材、夢見る意識へと戻っているのです。

実在論的な科学や哲学では、真に実在するものを探すとき、
「見ていること」と、「聞いていること」、「感じていること」の対象が、物質として、客観的に実在するかどうかを問います。

でもこのビデオのルパートさんは、そちらには行きません。
というのも、気づきの中に現れる思考、知覚、感覚は、静止した客体としてではなく、動的なプロセス、流れとして現れるからです。流れに手を入れて、掴もうとしても、捕らえられないですよね。でも、そこに流れがあると、気づいていること、知っていることだったらできる。

それとちょうど同じように、見ていたり、聞いていたり、感じていたりする時、その対象となる客体は、無視して、
私たちは、自分がそうしていることを、
自覚していること、知っていることもできることに注目するんですね。

つまり、単に漫然と「見ている」のではなくて、見ていることを「現に知っている」knowing
「現に知っている」という言葉、ビデオの中で頻発しますが、これは、
「気づいている」、「自覚している」・・・というともっとわかりやすいかもしれません。

そうやってひたすらそれを「現に知りながら」、つまり自覚しながら、見たり聞いたり感じていると、
見たり聞いたり感じたりすることが、気づきからできているのに気づくというわけです。

つまり、そうしていることに気づいていること、
「現に知っていること」knowing
を素材にして、それからできていることがわかります。

この素材を、気づきの光、愛、平安と言ってもいいと思いますが、
ルパートさんにとっては、これこそが、真に実在するものです。

つまり、この自覚、「現に知っていること」こそが、
世界という夢全体を
私たちに夢見させている意識だということです。

朝目覚めて、夢見る意識が消えると、夢の内容も、消えますよね。
ということは、夢の内容(そこにあるものを、「見ていること」「聞いていること」「感じていること」と言った営みすべて)は、この夢見る意識から出来ていたってことです。

それと同じように、「現に知っていること」が消えると、「見ていること」「聞いていること」「感じていること」全ても、消えるというわけです。

説明すると、難しく感じられるかもしれませんが、
実際に体験すると、心が文字通りとろけていきます。

見たり聞いたり感じたりしていることに伴うこの自覚、「現に知っていること」は気づきの光であり、愛であり、平安そのものだからです。

ビデオと一緒に瞑想しながら、そのやわらかな、あたたかい光の中に、見たり聞いたり感じている内容が照らされ、溶けていくプロセスを、堪能していただければって思ってます。

  • LINEで送る