非二元のエッセンス

ヒキガエルが王子様に変身する 欠如感を感じた瞬間こそ、跳躍のチャンス

  • LINEで送る

「今、ここ」のありのままに心を置く

「今、ここ」の拒絶、回避は、
自分を特別な存在にすることで、愛されようと思う
特別性の自己愛や、
その中に隠れている欠如の信念の中に、
一貫してあるものです。

「今、ここ」のありのままの状態に対して、
「ダメだ」「不十分だ」「不調だ」・・・という具合に、何らかの不足を見つけ、

ここで外れた期待を「いつかどこか」で満たし、理想状態に近づくために、
何とかしなきゃ、何かをしなきゃという衝動を感じて、勉強やエクセサイズに励んだりするとき、特別性の自己愛がはじまります。

「今、ここ」のありのままに対する抵抗は、
今は、どうせ灰色の時間なのだから、嫌だけどしなきゃならないことをするのに費やして、いいタイミングが来るまで待とう。
それまでは、やっつけ仕事、お金のためだけの仕事に使おうというかたちで現れるかもしれません。
気づいてみると、ほとんどの時間が、灰色の時間とみなされることになるかもしれません。

でも、灰色の時間に見えるのは、あなたの頭の中に、灰色に見せるサングラスがあるからだけ。欠如の信念というサングラスがあるからです。
これさえ外せば、どんな状況でも、どんな仕事の最中にも、幸せを感じることができるはずです。サングラスを外しましょう。

そうしないと、もったいないです。
というのも、これからご紹介するワークなどに習熟すると、
とても簡単にできるからです。こんなに簡単に晴れるもののために、1日を台無しにするなんて、馬鹿げていると思うようになります。

「今、ここのありのまま」の私は、唯一実在するあなたです。
他のあなたは、「いつか、どこか」にいるあなたは、
単なる想像上の存在としてあるだけです。

「今、ここにある、ありのままの私」というこの唯一実在する私より、
「より良い」私が、「いつかどこか」に存在するんだ思うこと自体、
ものすごい自己否定。自己愛や自己肯定の真逆にあることだと思いませんか、まさにこの癖のせいで、みんなとつながった、大きな私へとつながる唯一の扉が、蔑ろにされ、埃に埋もれて見えなくされてきました。
まさにこの癖こそが、揺るぎない、真の自己肯定感の源泉を、塞いできた張本人なのです。

大きな私、揺るぎない自己肯定感に満たされた私への通路へは、
「今、ここ」のありのままの自分の状態を受け入れるところにしか、開いていません。

心が、「これさえ変化すれば、幸せになれる」「自己肯定感を持てる」と、
未来、いつか実現される理想状態に向くたびに、
今、ここに立ち戻り、そこにあるものに注意する習慣をつけて、
というわけで、今、現に、自分がいる場所、自分のまわりのものを、丁寧に味わい、受け入れるようにしませんか?

自分のすぐ、足元にこそ、美しく、芳しい花が咲いているのに、気づくかもしれません。
これまで先を急いでいたから、見落としていたのです。

欠如の信念を直視する

では、3の外的状況を変化させる癖を矯正して、内側に向かう話に移りましょう。

特別性の自己愛の癖が、根強くあり
「これさえあれば、幸せになれる」「自己肯定感持てる」と、
今、ここにないものを求めて、先へ急いでいるときに
あえてストップをかけて、
今、ここに立ち戻って、そこにあるものに注目しなさい! と言うと、
そこで、まず感じられるのは、おそらく、不快感です。

美しい花が見えるどころか、醜いヒキガエルが見えるかもしれません!

ただ、おぞましいヒキガエルが、美しい王子様に変身するメルヘン、ありましたよね。
それと同じように、この不快感を逃げずに直視することで、変容が起こります。

というわけで、心を観察するのに、慣れている方に断然おすすめなのは、
欠如の信念が、そこに隠れていそうな衝動を感じるたびに、その奥にあるものを、それを直に見ることです。

自分の「今、ここ」に抵抗を感じ、「だめだ」「不十分だ」と断罪することは、
普通、それを直して、「より良い」状態に変えるための行動と対になってますが、

あえて、その行動をとる前に立ち止まって、この「だめ」な感じを、しっかり味わうのです。

これには、かなり荒業的なところがあります。不快感が耐え難かったり、圧倒されそうになったら、
中断して、先ほどご紹介したような感謝の日記など、癖を外から矯正するアプローチを、少し進めてから再チャレンジするといいかもしれません。

ただ、しっとり系の自己愛全開になるためには、
「特別なもの」の獲得を目指し、あなたを駆り立てているこの欠如感を、
遅かれ早かれ、いつか、直視することに取り組む必要はあると思います。
というのも、それだけが根本治癒への王道だからです。

あるいは、この不快感、ヒキガエルとご対面する時間を、
無理がない程度に持ちながら、少しずつ始めるのもいいかもしれません。
最初は一瞬だけでも、構いません。
その後、こうした、「何か足らない」感じがした時に始めるいつもの行動に、戻って構いません。
その一瞬が、実は根本治癒のはじまりになります。

慣れるにつれ、少しずつ、
この行動を、結局、とってもいいのですが、
とる前に、立ち止まる間をとって、
そしてその間を、最初は、一瞬からはじまって、少しずつ伸ばしていくというのも、いいかもしれません。

幻想に対して何をやっても、幻想は肥大するばかり 〜 直視するだけが抜け道!

問題なように見える「今、ここ」を、何とか改善する行動に走る前に立ち止まり、
そこにあるものを、あえて直視するのが、
なぜ根本治癒につながるのでしょうか?

問題のように見えるものは、実は、幻想にすぎないからです。
幻想がなぜ、のさばるかというと、真相を直視する前に、推測に基づいて行動を始めてしまうからです。

ちょっとたとえ話をさせてください。
行灯の油をなめている子猫の影が、障子に巨大に映っているのを信じて、巨大なお化けが座敷にいるとてっきり信じて仰天した人がいたといます。とても裕福な商人です。

裕福なので、恐れる心をなだめるために、即座に、あらゆる手を打つことができます。
警備の人を雇うこともできるし、軍を組織することだってできるかもしれません。

でも、そうやって、いろんなことをやればやるほど、恐怖はつのり、幻想はリアルに見えるばかりです。恐れる心をなだめるための防衛も、どんどんエスカレートして、大がかりなものになるでしょう。

でも、どんなに恐ろしく見えても、どんなに大掛かりな防衛プロジェクトが始まってしまっても、
信念(=幻想)は、それを前提にする行動をとればとるほど、強化されていくと言う法則が、ここでもあてはまります。

抜け口は簡単に見つかりますよね。
勇気を出して、障子を開けて、そこに本当にあるものを、直視することです。

馬鹿みたいな話ですが、心理的な欠如感に悩まされて「まだまだ足らない」「まだまだ不十分」と思って、たとえば、お金をためたり、働いたり、ダイエットしたり・・・がやめられないでいる人にも、似たようなところがあります。

自分の信じていることが、本当かどうかをリアリティチェックする前に、
ついつい、その信念を宥めるために、事実を操作する行動に走ってしまいがちです。
化け猫退治のために、大掛かりな武装プロジェクトをはじめて
やめられなくなるのと同じように!

その行動そのものが、その前提にある幻想をますますリアルにみせてしまう一方で、
たとえそれで、事実は変化したとしても、信念そのものは、事実を無視して、根強く残る
まさに悪循環の中にいるわけです。

これこそ、分離した心身、小さな私が、存続するメカニズムなのです。

とはいえ、解決は簡単。そんなときに必要なのは、障子を開けて、そこに本当にあるものを、直視することだけです。

というわけで、欠如の信念というこの「お化け」の正体を直視する実験をしてみましょう。

行為の背後に欠如の信念が隠れてないかチェックする

何でもいいので、「私には〜が必要だ」と感じた瞬間をとらえます。

その瞬間、立ち止まり、
必要なものを手に入れるための行動を一旦ストップさせます。

そして、そこにある気持ち、
「このままではいたくない」「私にはこれが必要だ」と感じる気持ちそのものを、
じ〜っと感じてみます。

きっかけになる「これが必要だ」という思いは、何でもいいです。
どこかに出かけたい、お茶したい、おやつを食べたい、友達に電話したりメッセージしたい、SNSをチェックしたい、映画やビデオをみたい、勉強したい・・・

その瞬間の気持ちを、じっくり感じた時、
何となく落ち着かない感じ、ざわざわした不安や、苦々しい苛立ちや、胸やお腹の圧迫感など、
心理的な不快感が感じられるとき、そこには、欠如の信念が隠れてる可能性大です。

とくに、お腹が空いてはいないのに、口寂しくて、台所で戸棚や冷蔵庫をついつい開けてしまうときや、
必要性がないどころか、とくにやりたいとも実は思っていない。
でも、漠然とした不安から気をまぎらわすために何となく、いつもやってることを始めたときや、
「いけない、いけない」と思いながらも(たとえばこんなことをすると、身体に悪い、太る)、
やめられないことを始めたときなど、
行為を中断して、代わりにそこにある気持ちを観察すると、
実際、堪え難いほどの、強烈な不快感が感じられるかもしれません。

程度の差はあれ、この手の広義の「中毒」症状の奥には、根深い欠如の信念があるって考えられるからです。

これに対して、今、あなたが必要だと思っているものが、客観的、物理的に本当に必要なものだったら、
空腹や喉の渇きや暑さ寒さといった身体的不快感はあっても、
ニュートラルなものにすぎず、
苦虫を潰したような、この手の心理的不快感はありません。

そういう場合は、安心して、必要を満たしてください!
ますます欲しくなるようなことはありませんから(笑)
以下のワークはやらなくて、大丈夫です!

でも、「どうもこの気色の悪い不快感は、欠如の信念からきているみたいだぞ」と思ったら、
はじめはとくにきついかと思いますが、ただ、しっかりつかんで、感じてみてください。

微細な欠如感もあり

特に、これが欲しい! これが必要だ! と言うものがない場合、

もっと広く、「今、ここ」のありのままに対して、何かしら、不十分さを感じた瞬間をとらえてください。
なんとなく気だるかったり、やる気がおきず、今日は不調だと思った瞬間でもいいです!

「自分が望んでいる状態と、自分の今の状態は、一致しているだろうか?」
と問うた答えがNoである瞬間を捉えるんです。

この問いは、別の言葉で、こんな風に言い換えてもいいかと思います。
「今、ここが、宇宙で一番いたい場所」だろうか?
「今の私が一番好き」って言えるだろうか?
「今やっていることが、一番やりたいことだと言えるだろうか?』
・・・・
これらの問いの答えがもしNoである場合、そこには
「今、ここ」にあるものを
いつかどこかに想定される「より良い状態」と比較して、
「嫌だ」と抵抗し、「不十分だ」とそこに欠如を見る気持ちの萌芽があります。

あえて立ちどまる

自分の「今、ここ」に抵抗を感じ、「だめだ」「不十分だ」と断罪することは、
普通、それを直すための行動と対になってます。

眠かったらコーヒーを飲むとか、外に散歩に出かけて気を晴らすとか、
いつかどこかに想定される「より良い状態」に、変えようとしますよね。

それもいいかもしれませんが、でも、今回はそれをする前に、立ち止まってください。

そして、あえて、その「ダメな」感じ、「不十分な」感じを、
あらためて、つぶさに、丁寧に、感じてみます。

というのも、あなたが本当に求めるもの
幸福、安らぎ、ゆたかな気持ち、溌剌とした生命感・・・
これらは、実はこのダメな今、ここの中、その奥に「のみ」、見出されるからです。
それを避けて、気晴らししようとしたり、これを何とか矯正しようとすることで、
これを、全く的外れなところに求めていたのです。

私たちが今やろうとしていること
「このままじゃだめだ!」という抵抗を感じた瞬間をとらえ、
一切の探索をやめ、そこから一歩も動かず、ただ、このいやな気持ちをそのまま丸ごと、抱えたままでいることは、
このどうどうめぐりからの唯一の出口です。

つまり、その対策になるように見える行動をはじめたり(子猫退治に大軍を呼ぶとか)、
他のことをはじめて、気をまぎらわそうとしないというのは、

実は、とても英雄的で、革命的なことなんです。
一見、怠け者のように、あるいは、負け犬みたいに見えても!
だから、どうぞ、辛いのを、我慢して、掴んだ魚を、離さないでいてください。

といっても、今は、それは信じられないかもしれません。
「このどこに幸福や安らぎがあるというの?」と思われるかもしれません。

「今、ここ」にあるのは、とりあえず、不快感ばかりじゃないの!
無理もありません。
だからこそ、「今、ここは不十分」「もっといいものがいつか、どこかに見つかる」と
この状態を何とか変えようとする探索に駆り立てられたわけですから。
「今、ここだけは嫌。それ以外のところならどこでもいい!」とさえ思われるかもしれません。

でも、あえて、「今、ここ」を、静かに、聞き耳をたてるように、ありのままに感じてみましょう。

不快感が堪え難く、
たとえば、中毒になっているものを絶たれた時の禁断症状などが出てきたら、
どうぞ無理をなしないでください。

欠如感を感じた時、これまで即座にやっていた行動をとる前に、
ほんの一瞬、立ち止まり、
耐えられる程度、たとえば、ほんのちょっと間をおいて、心を観察。
できれば、これから私が説明する方法で観察していただいて、
その後、こんな気分のときにいつもしていた行動に移る。

うまくいったら、少しずつ少しずつ、その間を伸ばしていく。それでも十分だと思います。

欠如の信念とご対面

というわけで、欠如の信念、つかまったでしょうか?
今まであなたは、これを直視するのを何とか避けようとして、
いろんな行為に走ってきました。「もっともっと手に入れれば安心するかも」とい
う具合に。

でも、それは、臭いものに蓋をしただけ。根っこにある原因は、そのまま放置されてきました。

だから、一時的、表面的には、この嫌な感じから解放され、気が晴れた感じがしたかもしれません。
でも、抑圧された信念は、なくならず、陰であなたが体験することすべてに影響を与え続け、
どこを見てもそこにあるものより、ないものが目につくように誘導したりと、
あなたの見る世界を暗く色づけてきました。
あるいは、しばらくすると、今度は他のものが欲しくなるように、仕向けてきました。

つまり、問題の本当のありか(欠如の信念=子猫)を見る代わりに、
障子に映った巨大な影ばかりをみて、これは大変だと言う行動で、
ここに蓋をしてきたのです。
でも、大丈夫。今こそ、問題の根源を、生け捕りにできたわけですから!
まずはしっかり感じてください。

今度こそは、これをますますリアルにしてしまう反応的な行動に走って、抑圧しないぞって決意してください。

いつも水の底に棲んでいて、見えない魚が、一瞬、水の表面に上がってきた瞬間をとらえたようなものです。まずはしっかりつかんで離さないでください。

魚を逃さないコツ 抵抗をゼロに近づけること

ただ、ここで忘れてならないことがあります。もう何度も、同じことを言ってきましたが、
私自身、そこに何年も何年もひっかかって、先へ進めなくなった罠です。

それは、魚を掴んだときの不快感があまりにきついので、「これを何とか除去しなきゃ」と思ってしまうことです。

でも、退治できるのは、実際に存在する物だけ。幻想は退治できません!

もしそれが、本当に実在する、実体のあるものなら、除去するとなくなりますが、
単なる幻想である場合、
退治しようとすることで、幻想は、真に受けられ、リアルになり、のさばることになります!
除去しようとすることが、逆に、それが本当に実在すると言う誤った前提を強化する働きをするというわけです。

つまり、嫌だ、除去したいと抵抗すればするほど、相手は大きく、リアルに、ますますおぞましく見えてきます。

先ほど例えを使えば、、化け猫退治のために、実際、動き始めるほど、恐れがますますつのってきて、終いには大軍を呼びたくなるのと同じです。

この不快感を、何とか除去しようと思うこと自体、
これまでやってきた「抵抗」(これは嫌だと思う)と
「探索」(より良い状態をめざす)の延長になってしまいます。

いわば「欠如感退治」を欠如感に促されてやるという
もう一つの中毒症状が増えるだけ。根本的に癒されることはありません。

もがけばもがくほど、深みに落ち込む蟻地獄に似ていますね。

とはいえ、抜け口は簡単に見つかります。
マハトマ・ガンジーが、イギリス人に対してやったような無抵抗主義です。
平和のために戦っても、平和は実現しない。平和で「ある」ことだけが、平和を実現すると言う認識から、彼は暴力に全く抵抗しない道を選びました。

それと同じように、ここでも、まず一番大切なのは、
抵抗しないこと。逃げないこと。
ありのままをまるごとそっくり、受け入れることです。

そもそもそれが、抵抗したり、逃げる必要のある「忌まわしいことだ」と言う思い、
ジャッジメント、解釈さえ、捨てて、忘れて、
ただただ、そこにあるものだけ、今、ここで、直接体験されることだけ、感じます。

「〜だから」「〜の症状だから」「私はいつもこうなの」「仕方がない」のといった説明も忘れ、
「〜のせいだ」という、誰かや何かを責める気持ちも忘れ、
あらゆる前後関係、あらゆるストーリー、このことにまつわる記憶すべて忘れ、
そもそも、これは好きだとか嫌いだとか、良い悪いといった、ジャッジメントも手放していくのです。

生まれたばかりの赤ちゃんのように、記憶のない、まっさらな状態になってください。

と同時に、迷信を振り切って、そこに本当にあるものだけを、注意深く観察する科学者のように、
思いこみ、決めつけがそこに入る余地を許さない、
研ぎ澄まされた注意力をそこに注ぎながら、
今、この瞬間、直接体験されることだけを、感じてみてください。

すると、その後には、身体感覚だけが、残るはずです。
頭の周りの重さ、胸のざわつきや、お腹の違和感、締めつけるような感じなどなど。
ただ、それは、自然現象、たとえば今日のお天気のように、ただ、そこにあるだけ、中立的なもので、良くも悪くもない。だから、その良し悪しを論じたり、嘆いたり、嫌がったり、そのことで人や自分や状況を責めたりしても仕方がない・・・

そんな淡々とした態度でこの身体感覚を眺められると、うまくいきます!

とはいえ、突き放すと言うわけでもなく、優しく寄り添うように、ありのままをただなぞるように、感じていると、
だんだんそこにあるのは、呼吸とともにただ脈打つ振動、バイブレーションだってことに気づくことになるかもしれません!

それを、すみずみまで、つつみこむように、
静かに、感じ続けてみてください。

するとだんだん、この不快感?のバイブレーションに気づいている私が、
これを包む、海のように広がる空間として、感じられてくるかもしれません。

すると、「感じられている」不快感は依然としてあっても、
それを「感じる」側にある、海のように広がり、それを包みこんでいる私の方から、
やさしさが感じられてこないでしょうか?

この静かな静かなやさしさが、この「感じる私」から滲み出て、放射されているのに気づいたら、
確認して欲しいことがあります。

あなたはだれでしょうか?
この「やさしさ」を放つ存在、つまり、静かに、見つめ、感じているこの存在でしょうか?
この存在によって、見つめられ、感じられている不快感や痛みのバイブレーションの方でしょうか?

どちらが、本当の自分でしょうか?

やさしく、静かに、見つめ、感じているこの存在こそ、本当のあなた
それが、この本の立場です。それを、気づいている私、気づきとしての私、大きな私、あるいは愛の海の側にいる私と呼ぶことにしましょう。

日本語で、「気づき」というと、ものに対して、緊張して、集中してるイメージありますが、
ここでいう状態は、部屋の空間がその中にある全ての家具を包むように、
あなたの思いをすっぽり包みこみながら、すべてをゆるし、受け入れてる、そんな状態です。非二元の用語で、英語ではawareness と呼ばれているものです。
呼び名は何でもいいので、

不快感であれ、疲れであれ、悲しみであれであれ、
ジャッジメント抜きにただ、寄り添うように、なぞるように、
そのありのままに、ただ気づいていると、
気づかれている不快感や疲れや悲しみは依然としてあっても、
気づいている側から、
やさしく包みこむような、空間的な質が感じられてきます。
気づかれている不快感や疲れや痛みが、この空間にすっぽり包まれているような心地がしてきます。
それは、気づきとしてのあなたと合流した兆候です。

それは、感じている、気づいているやさしさでできた、
空間です。その中で、あなたの不快感や疲れを、そこに、思う存分、安らわせてください。

人により、状況により、それだけで不快感が和らいで、
気づいている側、つまりネガの方の私、この空間の中に、
海に立つ一つのさざ波のように、溶けこんでいき
そこにあるのは、無限に広がるこの空間に、海のように広がる大きな私だけ、
そのやさしさ、静けさだけがそこにあるのに、気づかれるかもしれません。

ルパートさんの気づきの三つの定義

イギリスの非二元の教師、ルパート・スパイラさんは、気づきについて、
1、それによってあらゆるものが知られ
2、その中に、あらゆるものが現れ
3、そこから、あらゆるものが作られる
だって述べてます。

今、この3つの定義をすべてたどったこと、お気づきになられたでしょうか?
不快感に気づいている状態で、気づかれている不快感ではなく、気づいている側こそ、自分だって思う。それは1の段階の、気づきとしての私です。

ジャッジメントなし、一切の先入観なし、記憶なしに、この不快感にただ気づいていると、
それが、やさしい空間にすっぽり包みこまれているように感じられてくるといいましたが、
それが2の段階の気づきとしての私です。

気づきの空間になったあなたは、体験されるあらゆるものを内に含んでいます。つまり無限性がある。

「私の中に全てがある。私は無限の存在だ」というこの感触こそ、
しっとり系の自己愛に基づく自己肯定感の基本にあるものです。

簡単にこれを確かめることが、できます。実験してみましょう。

全ては気づきの中にあることを確かめる実験

たとえば、今、目をつぶって、リラックスしてみてください。

今、この瞬間に、あなたが体験していることすべて、
たとえば足が床に触れたりする身体感覚や、
耳に聞こえる小鳥の声や車の音、
心に浮かぶ思いの数々に
ただ、気づいていてください。

良し悪し、好き嫌い、これは重要で、あれは重要ではないといった、
ジャッジメントなしに、
すべてがありのままであることをゆるしながら、
ただ、ただ、気づいていてください。

雑念が多くて、じっとしていられないとか、こんなやり方でいいんだろうかとか、
さまざまな思いが湧いてきたら、これも、気づきの対象です。他のものと全く同じように、
「こんな思いもあるんだな」と、それに対して、良し悪しなどは考えず、
中立的な態度をとりながら、ただただ、それに気づいていてください。

不快感がどんなに強くて、それを避けたい、除去したいと思う抵抗がどんなに強くても、構いません。
その不快感や、抵抗する気持ちに、気づいていて、
その気づいている側にいる方に、自分を感じれば、いい。必要なのはそれだけなんです。

するとだんだん、この気づきがやさしく、静かに輝く空間、海となって、
この空間の中に、あなたが体験するすべてのもの、身体感覚や、音の知覚や、思考が、漂っているように感じられてきませんか?
気づきの空間そのものとしてのあなたは、
あなたが体験する全てをすっぽり、中に包んでいます。

それがだんだん、明らかになってきたら、是非、以下のことをチェックしてみて下さい。

この空間に、果てはあるでしょうか? あなたの身体の皮膚の境界を軽々と超えて、四方八方にひろがっていないでしょうか? この空間に、どこか継ぎ目のようなもの、境界線のようなものが、見つかるでしょうか?

この空間の外にあるあなたの体験が、見つかるでしょうか?

気づきの空間としてのあなたは、無限に広がっていて、
あなたが体験されるあらゆるものがその中に漂ってる。
この空間こそ私だと心底、感じる時、どれほど、力づけられ、慰められ、安堵するか、
想像してみてください!」
あなたの外からあなたを脅かすものなど、何もないのです!
脅かすように思えた時には、その思考や知覚が、この空間の中にあることがわかります。

捉えられるものよりも、気づいていることに拠り所を求める

実際、直接体験できることだけに注目して、そこからあらゆる思考の決めつけを外していくと、
静止した客体としてではなく、
バイブレーション、移ろいゆく動的なプロセスとして、流れとして現れるようになるといいました。

私たちは、川の流れそのものを手で掴み、捉えることはできません。

それとちょうど同じように、ここで私が体験していることも、
実体的な「物」としては捉えられない感じがしてきます。

でも、捉えられないと思えば思うほど、体験そのものは鮮やかに際立って感じられます!

夢を見ている感覚に似ているかもしれません。
超リアルな夢を見たことありますか? 夢を見ている時はこれは絶対現実だと思ってる。ものにも手応えがある。物質として実在してる、人も実在するとしか、感じられない。
でも、朝目覚めると、全て消えてしまいますね。

思考の決めつけを外して、直接体験できることだけに寄り添いながら、体験を吟味すると、
たとえば、今聞いている鳥の声、
その鳥が、本当に実在するかは疑わしいし(夢かもしれない)、
そもそも、そこに本当には何があるかさえわからないけれど、
でも、今、現に、自分がその声を、聞いてることは、確かだね・・・
そうやって、ただ聞く体験だけに集中すると、
自分の内側にある、気づきの空間の中に、体験がきれいに浮かんでみえてきます。

川の流れは「物」として捉えることはできませんが、
それに気づいていることなら、できるからです!

ほとんどの人は、「物」として掴み、捉えることができるものに、心の拠り所を見出そうとします。
自分の世界は夢じゃなくて、これは現実だって思ってます!

でも、本当は、流れ去っていくものを、無理に掴もうとせず、
それが流れていることに、ただただ、気づいていること
この気づきの方に、心の本当の拠り所が見つかるのですよ。

ちょっと実験してみましょうか?
目をつぶってください。
車の音でも、鳥の声でも、何でもいいので、今、聞こえている音に注意を傾けてみましょう。
最初はそこに、「車」や「鳥」が、客観的にちゃんと実在すると思いながら、その音に耳を傾けてみましょう。

その後で、今度は、「車」や「鳥」といったラベルを剥がし、そこに本当にあるのが何か、私は知らない。それらが、そもそも実在するかどうか私は知らない、なぜなら、直接体験できることの中に、それを保証してくれるものはないから。
でも、何かを聞いてるのは確か・・・・その体験のありのままに、ただただ、気づいていよう。
そう思いながら、聞いてみてください。

両者の体験の質の違い、感じられましたか?
そこに何があるのか、本当に何かが実在するのか、わからないけれど、
ただただ、聞いている。そしてそのことに気づいている。
そうやって聞いていると、音が自分の外にある音源から聞こえるのではなく、
聞くことについての体験が、自分の中に、気づきの空間の中に浮かんで感じられませんか?

全ては気づきでできているのに気づく

話を戻しましょう。ルパートさんの気づきの定義、2まで行ったところでしたね。

では、3はどうでしょう? 全ては気づきでできていることに、どうすれば気づけるのでしょう?

先ほど、どんなに辛い不快感や重苦しい気持ちも、そこからあらゆる思考、レッテルを剥がすと、中立的な身体感覚になる。

さらに、それを静かに気づきの空間の中に漂わせていると、脈打つバイブレーションのように感じられてくると言いました。本当にそうかどうか、もう一度確かめてみて下さい。

バイブレーションとして全ての、知覚や感覚を感じられるようになると、
3の言っていること、つまり、全てが気づきでできていることが、だんだん、わかってきます。

悪感情から、あらゆるレッテル、ストーリーを剥がした後に残る身体感覚も、
それを、やさしく、なぞるように、ぴったり寄り添いながら、ありのままに、感じてみて下さい。

それが揺れたり、動いているように感じられてきたら、実際にその動きをなぞるように身体を揺らしたり、動いてみるのもいいかもしれません。

そんなふうに、身体感覚に、寄り添っていると、
これに気づいているあなた、これらの感覚をかくまってる
気づきの空間そのものも、その全体が、様々なバイブレーション、
様々な波からなる海のように
感じられてくるかもしれません。

この海に漂う思考や知覚、今なぞっている身体感覚も、
その波の一つ。海に泳ぐ魚のような個体ではなく、海そのものの一様態にすぎない。
そう思えてきませんか?

そこには、ただ、さまざまに波立つ、気づきの海があるばかり。
つまりすべては、この海、気づきからできていたというわけです。

どんな不快なものも、含め、全ての体験は、気づきからできている。
だから、気づきの海へと、溶かしていけると思えると実際、気楽ですよね。

そのための一番のコツは、抵抗をゼロにして、好き嫌い、良し悪しといったあらゆるジャッジメント、先入観、記憶、説明、ドラマ、ストーリー、レッテル、名前・・・を外して、まっさらになること。

なぜならら、そうしたものが、気づくものと気づかれるものの間に隔たりを挟んで、
本来一つであったものを、二つに分裂させてきたからですが、

そのすべてを取り払った、生まれたての赤ちゃんのようなまっさらな状態に戻った時、
気づくものと気づかれたものの違いは消えて、
同じ一つの海の波の中へと、溶け込んでいくからです。

そうやって、全ての体験を気づきに戻す術に長けるにつれ、
セルフ・ヒーリングができるようになります。

どんな不快な思いや感情を前にしても、
このヒキガエルが、王子様に変身するのを、知っているので、ひるむことがなくなります。

これを直視するのを、抑圧したり、回避するのは、「もったいない!」とさえ思うようになります。

不快感を一つ、また一つと、「これも、また気づきでできていた!」ことを明らかにして、
気づきの海の中へと溶けこませるにつれ、
この海の水嵩が増していき、
そこから何ともいえない安らぎや、幸福、つながりの感覚、愛がますます強く感じられてくるからです。
それこそ、あなた自身である、幸福、愛、平安、
あなたの本当の自己肯定感の基盤です。

慣れてくると、一瞬でできるようになります。

とくに、気づきの空間の方こそ自分だと本当に思って、
いつもそこに自己意識を置き、
そのやさしさに、どっぷりと浸りながら暮らし始めると、

何をみても、そのあらゆる体験の内側内側から、同じやさしさ、同じ質、同じ感触が、
輝き、放射されているように感じられてくるのですが、
この習慣が、大いに手伝ってくれます。

そして、あるとき、とんでもないことがあったり、
再起不能なほどのデプレッションに陥っても、
そのヒキガエルの見かけ上のおぞましさを超えて、その内側を深く探ると・・・・

ルパートさんはよく、「それが実際、何でできているか、想像の手で、実際に触れてごらん!」
と言った言い方をするのですが、

そうやって、素材の質感を、探るように、実際、触ってみると、
そこからも、同じやさしさが滲み出ているのに気づかされ、驚くことになるというわけです。

どんなに恐ろしい映画を見ていても、実際に映像に触れてみると、そこにはスクリーンしかないのに気づくのに似ています。ただこのスクリーンは、ちょっと触れただけで、そこから愛や平安が、流れこんでくるスクリーンです。

そうならない場合も全く大丈夫です。それでも、全く、大丈夫だって、まずは、自分をいたわってあげてください。

不快感や悲しみや怒りを、事実は、依然として変わらなくても、
ほんのちょっと、視点をずらして、痛みや悲しみや怒りを、自分自身だと捉えるのをやめさえすれば、解放のプロセスは着実に始まるからです。

私はこの不快感だ → 私はこの不快感に気づいている存在だ
私はこの悲しみだ → 私はこの悲しみに気づいている存在だ
私はこの怒りだ →私はこの怒りに気づいている存在だ

と言うように、気づきの定義の1の転換をするだけで、癒しのプロセスがはじまります。

普通私たちは自分のことを、自分が感じている不快感や悲しみや怒りの塊として捉えています。
でも、本当のあなたは、その塊に気づき、かくまっている空間の側にある。必要なのは、このアイデンティティのシフトだけなんですね。
写真のネガポジが反転するような感じです。写真の中に、あなたの姿が写ってるのですが、本当のあなたは、その姿を包みこみ、それに気づき、感じている空間の側、海の側にある。

気づきとしてのあなたは、今、不快感や悪感情、それに伴うさまざまな思考、感情、知覚に気づいているけれど、
そこで気づかれているこれらの内容は、あなたの本当ではない。
本当のあなたは、それらに気づている側にいる・・・そう思うところから、癒しが始まります。

この空間、海、気づきとしての私と合流した最初の兆候は、
先ほども言ったように、そこにみなぎるやさしさです。
と同時に、そのやさしさが、自分の思いや感覚や知覚をすっぽり包みこむ空間をとして感じられてきたら、合流が上手くいった兆候です。

合流できたと思ったら、そちらに意識をおいてください。
痛みや不快感は、依然と残っているかもしれませんが、
それらを本当の自分とはみなさず、
それらを、やさしく包み、感じる空間の側にできるだけ、意識をおくのです。

重要なのは、私は、今自分が感じてる思いや感覚や知覚そのものではなく、
それに気づいている気づきだっていう立場、つまり、ネガポジを反転したこの立場から、ぶれないことです。そこまでがあなたの仕事なのです。

あなたの仕事は、そうやって、気づきの側にいることまで。

今、あなたが「気づいて」いる、痛みや不快感が、癒されるかどうかは、
例えば、春になると、雪が溶け、冬枯れした木も緑に覆われたり、花が咲いたり、種が芽吹き始めるように、時期が来れば、自然に消えていくでしょう。

それは、こうした自然のプロセスに似ていて、あなたが強要できるものではないし、
ジャッジしようとしたり、コントロールしようとすると、妨害することになるだけです。
焦っても仕方がありません。

気づきとして現れている、あなたの中のこのやさしい存在におまかせしてください。

気づく私、大きな私の方に、フォーカスをピタッと合わせて、不快感のことは忘れてしまっていた・・・くらいになれると、理想的です。

気づいてみると、「あら、もうなくなってる!」と思うかもしれません。

忘れた頃に・・・と言うのが、ポイントです。

私は、1日に何度もこの実験をやっています。
今、ここでこうしていることこそが、私の一番やりたいこと、
こうしているのが、一番幸せという思いから、心が少しでも逸れて、
「いつかどこか」のあるべき状態との比較が始まったら、
そこに隠れてる不満の種を、心の触手で探っていきます。
それは実際、中に悲しみや怒りや、さまざまな言葉がぎゅうぎゅうに詰まった小さな種のように感じられることが多いです。

そこに詰まったものは、殻の中に頑なに閉じこもってるように見えます。
でも、ジャッジメント抜きに、責めたり、良し悪しを決めつけず、
ただやさしくそれに寄り添いながら、気づいていると、
安心して、中から、感情や言葉がどんどん出てきます。

意地を張ってむずがる子供の信頼を勝ち取って、ついに本心を打ち明け始めたり
わっと泣き出す瞬間に似てます。
ただその時、「種」から出てくるものを、いちいち掴んだり、吟味したりせず、
ただ、出ていくままにまかせます。

すると、ただ、身体感覚だけが、そこに残ります。
良くも悪くもない、中立的な身体感覚です。

それに気づいている私の側から、この身体感覚に寄り添うのは、
楽しい体験になります。
ただ、なぞるように静かに寄り添ってみたり、
ヴァイブレーションとして感じられたら、それに合わせて身体を揺らしてみたり、
視覚的、聴覚的なイメージが湧いてきたら、その色合いや音色を思い浮かべたり、
実際に絵にしたり、口ずさむこともあります。

側から見ると、この人、何してるんだろう??って不思議になると思いますが(笑)
気づきの海の側から、そこにあるものが、ありのままに、自分を表現することができるように、ゆるしているだけなんですね。

そうこうするうちに、ああ、「今、ここ」が最高だって感じてる自分に気づくというわけです。

どんな重っくるしい不快な感じも、そこから思考をさっと取り払い、
自分のコンディションの悪さを嘆いたり、その原因と思われるものを恨みに思ったり、誰かや何かを責めたりする気持ちもさっと捨てて、
単なる、身体感覚に、そしてヴァイブレーションに還元するのが上手になり、習慣化してしまうと、とても気楽な毎日が待っています。

私たちが苦しみだって思ってることのほとんどは、
そこで直接体験されるものというより、
その上に私たちが被せたジャッジメントや重苦しい意味づけ、解釈から来るものだったってこともわかってきます。

つまり、自作自演の苦しみのお芝居をしていたにすぎないわけで、そこから抜けるのも、それを続けるのも、全く自分の決意次第なのですね。

慣れるまでは大変かもしれません。でも、これほど、習熟しがいのあることはありません。

ポイントは、その感情にまつわるストーリーを一切、忘れて、
生まれたての赤ん坊のように、直接体験できることだけに集中すること。
自分も含め、悪者をどこにも置かないこと

気づいている私の側にしっかり意識をおき続けることだけが、自分の仕事だと思って、
あとは、自然に始まるプロセスにゆだねることです。

  • LINEで送る