アートとしての人生

抜きん出ることより、つながる力に投資した方がずっといい理由

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話を元に戻しましょう。特別性の自己愛による自己肯定感のどこが悪いのかについてお話していたのでした。

まずは、ストレスが多くて、とにかく疲れることがあげられます。

自己肯定感を、自分のやったことの成果、

しかも、特定の「かたち」といて現れる成果に依存しているわけですから。

成果は、良いこともあれば、悪いこともあります。もちろん、本人の努力にもよりますが、たまたま勝負というときに、体調を壊したり、アクシデントがあるといった、コンデションや状況に左右されることも多いです。そんなことで一喜一憂するのも大変です。

かたちとして現れる成果によりも、

存在の力、つながる力、愛や生命感をシェアする力を培うことの方にもっと投資した方が、

幸せに生きていけます!

私は、細かい作業が好きな性分で、

ものすごい、犠牲的なほどの努力や時間をつぎこんで、何かとても精緻なものを仕上げては、

ずいぶん凝った編み込み模様のセーターをつくって自分で着てみたり、

難しいピアノ曲をマスターして聞いてもらったり、よくやったものですが、

ある時点で、自分が「褒め言葉」を待つ乞食のような気がしてきて嫌になってきました。

背後にある努力が膨大な分、誰も注意を払ってくれなかったりすると、結構こたえたものです。

そんなふうに、人の反応に一喜一憂するのは、奴隷のように依存的な生き方ですよね。

今は、作業のプロセス自体を、その場で楽しめること、

できればその楽しみをその場でシェアできることしか、やらないように心がけていいます。

といっても、ついついやりすぎてしまうので、

いつも、「私、今、楽しめてるかしら?」と、自問自答しています。

それこそ、作業の動機を、しっとり系の自己愛に移すための第一歩です。

といっても、気分がいいときだけ、やるべきことをやって、

それが楽しくなくなると、やめる気まぐれな生活をすすめているわけではありません。

逆に何でも、楽しめるようになる生活を、おすすめしています。

自分の中にある幸福の源泉と、つながり続けながら、

そして、そこから、何であれ、やるようにすることで、それもできるようになります。

編み物や音楽の例をあげましたが、あなたがお得意だったり、好きだったりする、スキルを高めたり、才能を発揮されること自体、すばらしいことです。

そんなふうに、あなたの中の幸福の源泉とつながりながら、その幸福をシェアするためにやれば、いいわけです。すると、先ほどお話ししたような、ステージに現れただけで、みんなを幸福にするアーティストと同じ状態になれます。

ただ、同じスキルや才能も、もっぱら、自己承認欲から、

つまり自分の中の欠如感を、達成すること、褒められることで埋めるためにやっていると、

この奴隷状態、依存状態がはじまって、辛くなりますね。

外的に見ると、やってることは同じ。だから微妙な違いで、区別するのも、難しく見えますが、

煎じつめると、自分自身、楽しんでいるか、そしてその楽しみを、みんなとシェアしてるか、これに尽きる気がします。

つまり、「私、今、楽しめてるかしら?」と自問自答して、「楽しんでいるか」チェックするのは、

自分の中にある、この幸福の源泉から外れていないかを確かめるためなのです。

そこにしっかり足を据えて生きれるようになれば、

形の上での完成や、成功や失敗や、浮き沈み、人から承認が得られるかどうかなどに左右されない

揺るぎない幸福が得られます。

とすれば、これこそ、一番エネルギーや時間を傾ける甲斐があることだと思いませんか?

このブログでは、いつもこの源泉にとどまるために、

理解する必要があること、

身につけた方が良い習慣など、

様々な角度から、お話ししていきます。

それが、存在のゆたかさに投資することです。

まとめてみましょう。特別性の自己愛からくる自己肯定感を求めて生きてると、ストレスが多く、疲れるという話でした。

なぜかというと、まず、その成否を、外的状況に左右されるかたちの完成や、
人からの承認に依存症しているお話をしているからです。それが一つ。

特別性の自己愛からくる自己肯定感を求めて生きてると、ストレスが多く、疲れる二つ目つの理由に、
孤独があげられます。
みんなとつながることというより、
みんなを感服させることが目的だからです。

「みんなを感服させたその後に、みんなとつながるんだ」、って思ってるかもしれませんが、
感服させられるほど、特別である(たとえば、何かにめちゃくちゃ長けている)ことを目指す・・・
そのこと自体のうちに、自分を他の人から分離させる態度(自分は特別)がすでに含まれてるのは、否めません。周りの人は、感服させる相手か、競争相手、ライバルかになってしまいます。
うまくいって、みんなを感服させられても、それはお世辞に過ぎず、影で嘲笑されているのではないかとか、いつか誰かに追い越されるんじゃないかとか、気が気ではありません。

特別性の自己愛からくる自己肯定感を求めて生きてると、ストレスが多く、疲れる理由として、
三つ目の理由に移りましょう。そこで知らず知らずのうちに前提とされている欠如の信念が、ちょっと厄介な性質をもっていることが挙げられます。

欠如を満たそうとすればするほど、ますます欠如が目につく


欠如の信念って何? いったいそのどこに隠れているの?と思われるかもしれません。

その前に、この本で目指している本当の自己肯定感のための大転換を、思いっきり簡単な言葉で、確認してみましょう。

愛のただ中で生きるためには、愛のために生きるのをやめなければならない
幸せのただ中で生きるためには、幸せのために生きるのをやめなければならない

ということです。

しっとり系の自己愛は、今、ここで、愛のただ中、幸せのただ中で生きることです。
これを生きることができたら、いつか、どこか、あるいは未来の愛の「ため」、幸せの「ため」に生きる必要はなくなるのです。

愛の「ため」、幸せの「ため」に生きるのが、特別性の自己愛です。
そこで知らず知らずのうちに前提になっているのは、今、ここのありのままの状態には、愛も幸せも十分に「ない」ってことですね。

だから、どここから取ってこなければならない。
自分の中から現れるにしても、そのためには何か特別なこと、修行などなどしなきゃいけないなど。

これが、欠如の信念です。

でも、この前提は、事実というよりは、解釈、つまり一つの物の見方に過ぎません。

たとえば、コップに半分水が入っています。
これをみて、「半分もある!」と思うか、
「半分しかない!」と思うかは解釈の違いで、
人それぞれだと思います。

ただ、今の時代の風潮、文化の影響もあり、「既にあるもの」より、「未だないもの」に注目して、「半分しかない!」って焦ってしまう人の方が圧倒的に多いのが、現状でないでしょうか?

こんなふうに習い性になって、自覚することもなくなった根深い解釈の癖を、ここでは「信念」と呼ぶことにしましょう。

「信念」からくる心理的な欠如感は、高ずると、
事実をまったく無視してしまうところにまで至ることがあります。

私の小学校の時の友達に、98点をとっても、家に帰ると、「なぜ100点じゃないんだ!」と
叱られている人がいました。
これは極端な話ですが、信念に基づく心理的な欠如感には、そんなところがあるんですね。
欠けたところしか見ないと、最初から決めてるようなところがあるんですね。

もちろん、事実として、必要なものが足りないこともあります!
水分が足らないのに、我慢して、心の訂正をするばかりだと、死んでしまいます。
そういうときは、単にそれを補充すればいいだけの話。
でも、そこに欠如の信念がなければ、それでおしまい。
もっともっと、追いかけるような病的なことはしません。

たとえば、同じように水を求めるにしても、喉の渇きがおさまった後も、
「将来、何があるかわからないので、もっと持ってないと安心できない」と、
どう考えても必要以上の水を確保したくなるとき、何十リットルも手に入れないと気が済まないときは、
そこに欠如の信念が隠れている可能性大です。

災害があったときなど、食料品店の棚が空っぽになること、ありますよね。
本当に必要なだけみんな買っていたら、そんなことにはならないはず。
災害のショックで、不安が増大し、欠如の信念が高まったせいです。

信念は、それに基づく行動をとることで、ますます強化されていきます。

だから、「もっと何かが必要だ、このままではだめだ」という信念に基づいて、
何かを求めるための行動に走ると、
その行動自体の中に、この信念を強化する働きがあるわけです。

そこで求めるものが実際に、手に入っても、事実を見ようとしていないので、ストッパーにならないのはそのせいです。
信念に基づく行動をすでにとってしまった、
そのこと自体が、すでに信念の強度を、エスカレートさせてしまうからからです。

欲しいものを手に入れた、その瞬間には、安心しても、
それは、「ないもの探し」の探索が、その瞬間、一時的に終わったことからくる安堵感からくるだけ。

時間が経つと、「もっと何かが必要だ、このままではだめだ」という信念がまたむくむくと浮上して、
何かが足りない、ありのままじゃだめだっていう漠然とした感じに悩まされるかもしれません。

そこで、しばらくするとそれは別のものに投影されて、
今度は別のものが「足らない」と思い始めるかもしれません。
別の必要や別の問題・・・が気になりはじめ、落ち着かなくなるのです。
そして、その欠けた感じを満たそうとする探索がまたはじまるというわけです。

つまり、いくらやってもきりがないだけでなく、
やればやるほどますます欠如感は強まっていくというわけです。もがけばもがくほど落ちていく、蟻地獄に似ていますね。

そんなわけで、どう見ても、スタイル抜群で、スマートな人が、太り過ぎだと悩んでいたり、
人が欲しがるあらゆるものを持ってる人が、誰より、不満や劣等感を抱えていて、びっくりさせられたりするというわけです。

欠如の信念のどこが問題かを、一言でいえば、
心理的な欠如感を、形あるもので満たそうとする、レベルの混同・・・といえそうです。

レベルの混同からくるこの苦しみを、一番痛切に感じるのは、どんな人たちでしょう?

心理的欠如感を形あるもので満たすことが、すでに嫌と言うほど、できた人たちですね。

人気や愛情、富も、名声も、人が欲しがるあらゆるものは手に入れた。それでも、「何かが足らない」と言う気持ちは、消えるどころか、エスカレートするばかり・・・となると、絶望してしまいますよね。

全てを持ってるように見えるスターが、実は、麻薬におぼれていたり、自殺を試みたり、陰で自暴自棄で乱れた生活を送ってる。お金持ちだけど不幸な人たち・・・そんな話の背後にある絶望は、ここからくるものです。

欲しいものがなかなか手に入らない普通の人だったら、
未来に希望を託すことができるのですが、既に手に入れてしまうと、それらが全然助けてくれない事実が、誤魔化しようなく、歴然とするからです。

他方で、人の羨むようなものは、何一つ持たないし、人の羨むようなものは何一つできていない。先の保証もない。たとえば、コロナのせいで、どこにも行けないし、誰にも会えない。経済状況も悪くなるばかり・・・なのに、なぜか、あまりストレス感じないし、とても幸せ。皆さんにも、そんな経験、ありませんか?

状況にまったく左右されないこの幸せ、満ち足りた感じは、
欠如の信念が癒されて、しっとり系の自己愛からくるゆたかさが心に沁み渡ったことからくるものです。

そんな瞬間は稀で、たまに奇跡的に感じられるに過ぎないと思われますか?
欠如感を取り巻く状況全体をクリアに見ると、簡単に見つかる抜け口です。

どんな時でも、確実にそこに心を戻せるようになります。

この本はまさにそのために書かれたものです。

内側へと方向転換して、ゆたかさの源泉に触れる

全体をクリアに見ると、簡単に見つかる抜け口とは何でしょう?

心理的な欠如感を、形あるもので満たそうとする、レベルの混同が問題だってさっき言いましたよね
じゃあ、この混同をやめて、心の問題は、心の問題として、扱うことです!

欠如の信念は、その度ごとに「これが足らない」とか、
「これが問題だ」という具体物を指定して、
それさえ手に入れば、直せれば、安心できるとけしかけてきます。

でも、あえて、そこで、立ち止まり、
その話にのる誘惑を、まずは、一切断ち切って、
反対方向、つまり自分の心の内側に向かうんです。

欠如の信念がもくもくと湧いて、何かが「足らない」「十分でない」と感じた瞬間、
それを、外的状況の問題としてではなく、
純粋に心の問題として扱って、直接扱うんですね。

欠如の信念が強ければ強いほど、
足らないって思ったものを補充しようとして、駆け出す前に
立ち止まることに、抵抗を感じることになるかもしれません。

「こんな悠長なことしてられない」
でも、あえてそこで、不安な要件をそのままにしておいて、
内側に向かうことが、肝心です。

それでも不安な人のために、
ここで、一つ確認しておきたいことがあります。

この本に書いてあること、すべてが、それに依拠しているような重要なことです。
今、それが真実だと実感できなくても、「そういうことがあり得るかもしれない」って、心の片隅にとめておくだけでもいいので、聞いてください。

自分に対して、正直になったとき、あなたが心の底で一番望んでいるのは何でしょう?
しあわせになること、安心して、安らぐこと。愛し愛されること・・・・ではないでしょうか?

あなたが、「これが足らない」「これさえあればうまくいく!」と思って、
それを手に入れようとしているものが、何であれ、
つきつめれば、それも、
しあわせになること、安心して、安らぐこと。愛し愛されるためではないでしょうか?

つまり、欠如の信念をつきつめると、
愛が足らない、幸せが足らない、安らぎが足らない
→ だから私はそれを求めて、これをする!
というところに至ると思うのですが、

でも、愛や幸せや安らぎは、実は、絶対に不足することはないんです。

どうしてそんなこと言えるのでしょう?
私たち自身が、愛であり、幸せであり、安らぎそのものだからです。
それらの源泉そのものだからです。

自分の家の中で、温泉が湧いているのに、「お湯が足らない!」なんて言ってる人がいたら、変ですよね!

愛が足らない、幸せが足らない、安らぎが足らないと言っている人は、実はそれと同じことを言っているんです。

既に自分の中に源泉があるでしょ!
足らないように見えるものを、外に探しにいくのをやめて、内側へと向かうと、わかります!

それに気づいてもらうために、私はこの本を書いてます。

そしてその源泉は、足らないものばかり目につく「今、ここ」
ありのままのあなたの真下にあります。
ここは、しょうがないと思って、「いつか、どこか」へと急ぐたびに、
宝物のありかを飛び越えてしまっていたんですね。

愛や幸福に関する限り、それが足らないという感覚はすべて、事実無根の思いこみに過ぎません。

そこにあるゆたかさを、目に入らなくして、
ゆたかさが本来、ないところに、ゆたかさを探すように仕向ける、狂った信念にすぎません。

言うことを聞いても、満たされるどころか、
「もっともっと」多くを求めるようにけしかけられるばかりです。

この声ばかりを聞いて、間に受けてきたおかげで、私たちは、必要以上のものを生産し、必要以上に働き、持続可能に生活できなくなるほど、自然環境を破壊してきました。もうそれに乗るのはやめましょう!

欠如の信念からの出口は、大きく分けると、2つに分けられます。
Ⅰ 欠如の信念を、根深い心の癖とみて、それを地道に矯正していく方法
Ⅱ 欠如の信念を、まっこうから直視する方法
Ⅲ もっと大きな私、すべてとつながった私に、欠如の信念を、丸ごとゆだねる方法

Ⅲ ができるようになると、欠如の信念に促されているのを感じるたびに、
一瞬で、それを癒すことができるようになります。

ただ、そこまでいくのに、前提として、理解したり、体感しなければならないことがいくつかあります。だからこれは、この章の最後であつかうことにして、

まず、Ⅰ についてからお話ししましょう。すると自然にⅡやⅢの方へと話が展開すると思います。
また、普段から、ⅠやⅡを地道になることで、Ⅲもやりやすくなります。

それはとても単純なことです。
右にいつも傾くものを矯正するには、左に傾くように、圧力をかけますよね。

それと同じように、欠如の信念が促すこととは、逆のことをする習慣をつけるわけです。
たとえば、

「今、ここに」あるものより、ないもの、
大丈夫な部分より、問題な部分にばかり注目している自分に気づく。
→ないものより、あるものに注目する。

この欠けたところ、問題なところを、未来の「いつか、どこか」で、期待通りの形に満たし、直し、変化させることに、
自分の幸せや自己肯定感を持てるかどうかが、かかっていると思う。
→幸せや自己肯定感の源泉は、「今、ここ」にしかない。だから、心のフォーカスを、未来の「いつか、どこか」から、「今、ここ」に戻す。
→幸せや自己肯定感の源泉は、あなた自身の中にあり、あなたの体験の内容いかんには、何も影響を受けない。重要なのは、その源泉に触れることであって、未来にどんな体験をするかを操作しても仕方がないことに気づいて、操作をやめる

自分が欠如の信念に促されているのに気づくたびに、
その信念が、今、あなたに吹き込んでいる「これさえあれば」という声を脇に置いて、
立ち止まる習慣をつけてください。そしてそれを、外的状況の問題というより、まずは、純粋に心の問題として、癒す決意をしてください! 具体的な癒しの方法については、以下(特に「欠如の信念とご対面あたり)を参考にしていただけたらと思います。