非二元のエッセンス

理屈抜きに、その場で即、分かち合えるもの

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しっとり系の愛に、自己肯定感の拠点を移すことで、どうしてこんなに楽になるのでしょうか?

たとえば、私の場合、自分の書いたものに対する批判が以前のように心に刺さらなくなってきたのは、なぜでしょうか?

分かちあっているのが、
かたちではなくかたちを超えたもの
完成した結果ではなく、プロセスで感じられる、しっとりとした一体の幸福
だからです。

と言っても抽象的に聞こえますね。
実際には、体験できる人には、直接的で、なまなましいことなのですが。

というわけで、もう少し、たとえ話をさせてください。

私はライブのコンサートに行くのが好きなのですが、
本当に凄いアーティストは、ステージに現れただけで、
みんなをうっとりさせる力を持ってるっています。
華がある、輝きがある、オーラがあります。
本人がどこまで意識しているかわかりませんが、存在そのものから、愛が放射されてる感じなんですね。

存在から自然に放射されているものから、パフォーマンスも溢れ出るように、自然に出てくる感じです。
だから、そこに、硬さや、形にはまった感じがありません。
観客と一体になり、うちとけて、リラックスした感じがあり、
想定外の展開があっても、ユーモアや即興のセンスで対応できる余裕もありますよね。
何より、とても楽しそうです。

彼らが分かち合っているのは、いい演奏という「かたち」以前、
その人の存在そのものなんですね。
それが、すでにギフトとして分かち合われてる。
そこから、必要なすべてが自然に出てくるって知ってるので、リラックスしているわけです!
それに対して、一生懸命頑張ってやってる感じのパフォーマンスも多いですね。
というよりこれがほとんだかな?

上手にやる、感心してもらう、自分ができることを証明する・・・という具合に、「かたち」のレベルにあるものを目指しているので、とてもおそれて、あがっていて、緊張しています。
そこにいる人と一体になれるどころか、周りのものが一切見えていない感じです。

その手の方にも、高い技術の持ち主、たくさんいます。そんなパフォーマンスが始まると、その技術には感心してしまっても、何となく、硬くぎこちなくて、やわらかさやあたたかさが感じられない。だから、幸せな気分にはなれないんですね。

やわらかさやあたたかさは、技術や完成度に現れる「かたち」ではなく、
それを超えたところから、
その人の存在から放射される愛そのものなんです。

ステージに現れただけでみんなをうっとりさせてしまうアーティストと、
自分ができるのを証明しようとして、硬く、ぎこちなくなってるアーティスト、
これがそれぞれ、この本でいう、しっとり系の自己肯定感、特別性の自己肯定感に対応していること、お分かりになれたでしょうか?
これは二つの極であって、実際には、さまざまなグラデーションがあり、あるときは前者だったり、あるときは後者だったりと、揺れている人たちがほとんどですね。私もそうです。

現れただけで、即座に分かちあわれる
愛にあふれた存在を放射させている

と言ったら、何だか凄いことのように思ってしまいます。
私自身、「凄いアーティスト」の例をあげてしまったせいもあるかもしれません。
でもそれは、話を明確にするために取り上げただけ。
実際にはその手の人たち、どこにでもいるって思ってます。

大学で、小難しい講義をしていた頃の私も、
結局、こうした愛が大切であることを、
誰にも納得できる明快なかたちで伝えたいって思ってました。
ただ、アカデミックで論理的にソツのないかたちにしたいな・・・なんて欲も持っていました。

でも、実際、講義中には、寝ている学生、いっぱいいました(笑)。
「こんなに感動的な内容なのに、なぜ?」ってびっくりしてました。
そのメッセージが分かち合われるまで、理解しなきゃいけない手続きが多すぎて、
実際、頭でついていくのが、大変だったんですよ。

その一方で、家に帰ると、全く別世界が待っていました。
水辺のある美しい公園を見下ろすマンションの一室だったのですが、
色街が近くにあるせいで、水商売の人もたくさん住んでいたんです。
夕方になると、高級なお店のママさんなどが、着物を来て、花束をかかえて、タクシーに乗って、仕事に出かけるようなところでした。

住民の会合に出ると、彼女たちとも居合わせることあったのですが、まずびっくりしたのは、
立ち居振る舞いの華やかさだけでなく、
自分のいる場全体をパッと明るく盛り上げ、華やぎを添える才能ですね。
雰囲気がちょっと行き詰まってくると、その時々に当意即妙の言葉を入れてみんなを笑わせたりするんです。
大学では、一応知的に優れていると言われている人たちと仕事をしていたわけですが、
彼女たちの知性も、全然違う種類だけど、すごいなって、思いました。
もっと、直感的で、アーティスティックな知性で
私がステージ上のスターに感じていたのと同じ、即座に、その場で分かち合われる愛、存在から放射する愛にあふれていました。

一度、大きな改装工事があって、建物中に、肉体労働者の人たちが、行き交って、騒音もしていた時期がありました。
何となく、落ち着かないし、がらが悪くなっていやだなと思って部屋からそそくさに、外へと急いでいると、
大きな笑い声がホールからあふれてくるのが聞こえました。
彼女たちが、肉体労働者の人たちとおしゃべりを楽しんでいるんですね。
その時、私は、「負けた」、「彼女たちこそ、私の先生だ」って思いましたね(笑)。

他にも、たとえばお洒落でもなければ、特別おいしいというわけでもないのだけれど、そのお店の、おばちゃんの顔を見るだけで元気になるので、行きたくなるお店、ありますよね。
何にも特別なことはしていないのに、そこにこめられた気持ちがあったかいので、
そのあたたかさに触れたくなるんです。これも、存在から放射するものを、まず分かち合ってる例です。

かと思えば、どれほど、うちの料理は特別か、たとえば材料を厳選して、他ではないことをしているかと蘊蓄たらたら、いかにも頑張っていますという感じなのだけど、疲れてしまうお店もあります。

というわけで、
何にも説明しなくても、存在から放射され、即座に分かち合われる
この種のよろこびへの私の憧れは高まるばかりでした。

次第にそれが、今、ここにいて、
周囲のものとのつながりを、しっとり感じるよろこびに根ざしていることがだんだん見えてきました。

たとえば、今、この文章を書きながら、私は、
窓から見える木々の緑が陽の光に輝いている様子や、
無邪気な小鳥のさえずりや、とぼけたカラスの声や、
同じ部屋にある古びた家の家具やピアノとのしっとりとしたつながりを感じています。

文章を書きながら、何よりうれしいのは、
このしっとりとした、静かな幸せをじわじわと高めていけることです。
それを、大切に育くみながら仕事をすれば、
どんなかたちであれ、分かちあわれる。
一緒に、この暖かくやさしい領域に入ってくれる人が見つかるって信じて・・・

目の前にある家具や木々や鳥の声とのつながりは、
まだ見ぬ、これを読んでくれる人とのつながりも、
あらかじめ、保証してくれているとさえ、思ってます。

というのも、両者は同じ一つのものですから。

そうやって、文章を書いていると、気楽だって先ほども話しました。

何をやっているのであれ、丁寧に、心をこめて、この瞬間を共有している
周りのすべてとつながりながらやってみるとき、
その場で感じられる、このよろこびを高めていくことを、まず第一目標にしてみてください。

そして、それが、「かたち」としてどんな結果をもたらすかは二の次、
このよろこびのちょっとした添え物にすぎないって考えると、
人生、身軽で軽やかになり、悩みのほとんどが、ごっそりと抜け落ちて、楽になります。

話を元に戻しましょう。特別性の自己愛による自己肯定感のどこが悪いのかについてお話していたのでした。

まずは、ストレスが多くて、とにかく疲れることがあげられます。
自己肯定感を、自分のやったことの成果、
しかも、特定の「かたち」といて現れる成果に依存しているわけですから。
成果は、良いこともあれば、悪いこともあります。もちろん、本人の努力にもよりますが、たまたま勝負というときに、体調を壊したり、アクシデントがあるといった、コンデションや状況に左右されることも多いです。そんなことで一喜一憂するのも大変です。

かたちとして現れる成果によりも、
存在の力、つながる力、愛や生命感をシェアする力を培うことの方にもっと投資した方が、
幸せに生きていけます!

私は、細かい作業が好きな性分で、
ものすごい、犠牲的なほどの努力や時間をつぎこんで、何かとても精緻なものを仕上げては、
ずいぶん凝った編み込み模様のセーターをつくって自分で着てみたり、
難しいピアノ曲をマスターして聞いてもらったり、よくやったものですが、
ある時点で、自分が「褒め言葉」を待つ乞食のような気がしてきて嫌になってきました。
背後にある努力が膨大な分、誰も注意を払ってくれなかったりすると、結構こたえたものです。
そんなふうに、人の反応に一喜一憂するのは、奴隷のように依存的な生き方ですよね。

今は、作業のプロセス自体を、その場で楽しめること、
できればその楽しみをその場でシェアできることしか、やらないように心がけていいます。
といっても、ついついやりすぎてしまうので、
いつも、「私、今、楽しめてるかしら?」と、自問自答しています。
それこそが、作業の動機を、しっとり系の自己愛に移すための第一歩です。

まとめてみましょう。特別性の自己愛からくる自己肯定感を求めて生きてると、ストレスが多く、疲れるという話でした。

なぜかというと、まず、その成否を、外的状況に左右されるかたちの完成や、
人からの承認に依存症しているお話をしているからです。それが一つ。

特別性の自己愛からくる自己肯定感を求めて生きてると、ストレスが多く、疲れる二つ目つの理由に、
孤独があげられます。
みんなとつながることというより、
みんなを感服させることが目的だからです。

「みんなを感服させたその後に、みんなとつながるんだ」、って思ってるかもしれませんが、
感服させられるほど、特別である(たとえば、何かにめちゃくちゃ長けている)ことを目指す・・・
そのこと自体のうちに、自分を他の人から分離させる態度(自分は人と違って「特別」でなきゃいけないわけですから)がすでに含まれてるのは、否めません。
周りの人は、感服させる相手か、競争相手、ライバルかになってしまいます。
うまくいって、みんなを感服させられても、それはお世辞に過ぎず、影で嘲笑されているのではないかとか、いつか誰かに追い越されるんじゃないかとか、気が気ではありません。

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