奇跡のコース

幸せを期待しないことは、幸せを受け取りつくすこと あるいは、タントラの道について

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そんなことを話すと、では、「この世の何も、わたしを幸せにしないってことですか?」と思われるかもしれません。「それこそ灰色の人生じゃないの!」というふうに。

とんでもない!しっとり系の自己愛の中にいるほど、美味しいものを口にいてしあわせ〜って思ったり、美しさに打たれて立ちつくしたり、愛を感じて恍惚とする頻度は増していきます。

「今、ここ」で感じられるつながりの感覚は、
その都度、あなたを取り巻くあらゆるものから、
100パーセントの幸せを受け取らせてくれるからです。

この世の何にも、自分を幸せにしてくれると、期待しない。
そこにプライドや、自分の価値の承認がかかっていると思わない。

まさにそのことによって、どんなものからも、100パーセントの幸せを受け取れるようになるからです。

というのも、この手の期待こそ、幸せを100パーセント受け取らせるのを妨げる覆いとして機能してきたからです。

何にも予期・期待していないのに、いきなりやってくるギフト、サプライズギフトってうれしいですよね。その覆いがないからです!

家族や友達に対して、「あの人は、〜をしてくれて当然だ」って思いながら、
実際、それを受け取っても、そんなにうれしくないし、
要求をエスカレートさせることになるかもしれません。

これに対して、一人で一生懸命頑張ろうとしている時など、
全く思いもかけないときに助力がさしのべられて、
やさしさが心にしみて、思わず涙ぐみそうになったことはないでしょうか_

特定の人から、特定のものを期待や要求すると、そのこと自体が、蓋になって、そこからよろこびを100パーセント受け取れなくしてしまうのです。

というのも、「何か」に対して、「これがなきゃだめ」、「これがないと私は幸せになれない」って、思う時、そこで想定されているのは、形ある、特定のものですが、
幸せそのものは、特定の形を超えて、大空のように、無限に広がっていくものだからです。

私の嗜好を満たしてくれるように、承認欲を満たしてくれるように、愛に対する渇望を満たしてくれるように・・・そういう思いがあらかじめあると、
欲しいものを受け取っている最中にも、そうした基準に基づいて、与えら得たものをジャッジしてしまいます。「なんだ、これっぽっち?」みたいに・・・
それが、幸せを100パーセント受け取るのを妨げて、
本来なら、大空のように自由に無限に広がっていくものを、
狭いところに閉じこめる「覆い」になるんですね。

その気持ちを深くさぐっていくと、奥に、「私のポリシー、嗜好に合わないものは許さない」「私が全て決めるの!」「私こそが権威!」といった傲慢な思いが見つかるかもしれません。そのもっと奥をさぐると、逆に、誰も自分の価値を認めてくれない無力感や寂しさが見つかり、それをカバーするために、逆に居丈高に振る舞っていることがわかるかもしれません。

それに従っても、もちろん構わないのですが、幸せでしょうか? むしろ、手放した方が幸せになれると思いませんか?

もしそう思えたら、そこにある思い、傲慢さと、その裏にある無力感ともども、
心の中の助け手、「本当のあなた」に、渡してください。

すると、この「本当のあなた」が、自然に、子供のようにまっさらで、すべてが面白くて仕方がない状態、あるいは、あらゆることに、感謝して手をあわせられるような気持ちに、誘導してくれます。そのときあなたは、前にお話しした今、ここの「宝箱」の蓋を開けています!

あらかじめ抱いているこの種の期待のほかに、もう一つ、
欲しいものを受け取ってる最中に、そこから幸せを100パーセント受け取るのを妨げる「覆い」があります。それは、

今後もずっと、これを確保していたい・・・という執着です。

これがあると、欲しいものを受け取りながらも、
未来もこれを確保できるだろうか? 失うことになったらどうしよう? その時に失望するより、今のうちに、あきらめておこう。どうせ、これも、長くは続かないって・・・
などと心配してしまうのですね。

こうした思いが、今、ここの幸せを100パーセント幸せになるのを妨げる覆いになっています。

こうした心配を深く探ると、奥に「私は100パーセント幸せを受け取るわけにはいかない」という、自分を罰するような気持ち、罪悪感が見つかるかもしれません。
そんな気持ちが見つかったら、先ほどと同じことをしてください。
つまり、それに従っても、もちろん構わないのですが、幸せだろうか? むしろ、手放した方が幸せになるんじゃないかな? とたずねて、もし、手放す決断ができれば、
それを心の中の助け手、「本当のあなた」に、渡すんです。

すると、「本当のあなたが」、自然に、未来を煩うことから、
「今、ここ」へと気持ちを誘導してくれます。
すると、すべてのものとのつながりの感覚や、それにともなう安心感が感じられてくると思います。前にお話しした「宝箱」の中身です。

将来もこれを確保したい執着が、どれほど、そこから喜びを汲み取るのをさまたげるかが見えてくると、「一期一会」という言葉の中にどれほど深い知恵がこめられているかが、わかるようになります。この出会いはこれが最後。だからこそ、大切に味わおうというのは、悲壮な覚悟どころか、そこから最大のよろこびを汲み取るためなのですね。

今、ここの「宝箱」にのみ、幸せを求める癖が身につくにつれ、今、ここに、至福を感じる状況が、どんどん増えてきます。どんな状況からも、幸せを、期待や喪失のおそれに翳らせることなく、100パーセント、幸せを受け取ることもできるようになるので、あれもこれも、パーフェクトで、自分がどれほど恵まれているか感謝して、手を合わせるばかりの生活がはじまります。

すると同時に、「今後もこれがありますように」と執着したくなる誘惑も増えます。でもそうしてしまうと、途端に「宝箱」は霞んで見えなくなります。
「かたちあるものに期待しない」ことの外に、「去りゆくものに、すがらない」というのも、この「宝箱」とともに生きるための、コツです。

この「宝箱」の中からのみ、すべての幸せを受け取るって、決意することこそが、一番大切な決断だってお話ししました。

決意した後も、もちろん、何十年にもわたって身につけてきた心の癖がとれるまで、外側にあるもの、形あるものに、幸せを、心の拠り所を求める癖がとれず、知らず知らずのうちに、それらが特定の状態になるように期待したり、このまま変わらないでいるように、執着している自分に、何度も何度も、気づかされるかもしれません。

それでも大丈夫。それに気づくだけでもすごいこと。そのたびに、この「宝箱」に戻ればいいだけのことです。すると、形を超えた、期待」や「執着」の覆いのとれた、
大空のように無限に広がっていく、幸せが、見えてきます。
この無限の広がりとしての、幸せそのものだけを、受け取る。そして与える。
そのために、期待、要求、執着の「覆い」は最小限に。それこそが、本当の幸せの鍵です!

そういうと、じゃあ、執着しない、デタッチメントの状態なのですか? と訊かれることがあります。デタッチメントというと、文字通り、触れないイメージがありますが、とんでもない。逆にとても親密にかかわるんですね。

ただその関わり方が、さっぱりしてる。こだわらない、執着しない。一期一会。身軽で、自由なものになります。

だからこそ、それらを通して、喜びそのもの、愛そのものを、束縛をしらない、大空のように、どこまでも、どこまでも広がっていくような純粋なエッセンスとして感じることができるんですね。

私たちがそれと認識し、名づけられるあらゆるものには、客体性があります。つまりそれは、なんらかの「形」をともなっています。

この「形」そのものを、目標にして、「これしかない」「これがなきゃダメだ」「手放したくない」としがみつく時、
「形」は、その奥にある喜びや愛を100パーセント受け取るのを妨げる「蓋」の働きをします。

それを避けるためにも、ものが特定の望ましい「形」をとるように期待したり、
その「形」が今後も続くように執着したり、
そうなるかどうかに自分の幸せがかかっていると思うのは、
止める必要があります!

そういうと、何か犠牲を求められているように、ついつい思いがちなのですが、
とんでもない! そうすることで、逆に人生のほとんどのストレス、苦しみが、ごっそり消えてなくなるのですよ。

何より、そうすることで、私たちが人生の中で出会うあらゆるものや人、仕事や出来事がどんな「形」をとるかに対して、
一切、期待しない、執着しない、自由な態度で関わることができるとき、
「形」は、それを「通し」それを「超えて」、
もっともっと広大で無限の領域に到達するためのすばらしい「通路」になってくれます。
「蓋」が外れるからです
その時、「形」は、その奥に広がる大空、愛やよろこびの無限性に照らされ、透明に見透かされ、ともに輝きます!

その時に、感じられる、ものとの親密な一体感を思う時、
「デタッチメント」(ものと距離をとって、それらに触れない)という言葉は、不適切だと思います。

たとえば、私たちが本当に美味しいものを口にして、ああ幸せ!って我を忘れる時
美しい風景や音楽や芸術作品に触れて、感動して、心がどこまでも大きく広がる心地がするとき、私たちはこれらの「形」を通して、「形」を超えた無限のエッセンスに触れています。
その時感じられる一体感は、いわゆる「デタッチメント」とは、程遠いものです!

世捨て人になって、世界が与えてくれる喜びを諦めるといういわゆる禁欲主義的な道とも全然違う。
逆に世界から、無限大の喜びを受け取る態度だって思ってます。

世界からあらゆる喜びを受け取るのを諦めなさいという禁欲主義的なスピリチュアリティは、
「期待」や「執着」一切なしで、世界から自由に、無垢に、喜びを受け取るのがあまりに困難なので、
世界そのものを避けなさいって言ってるだけなんです。

でも、そうやって、いわゆる世捨て人になっても、今度は、神や悟りや解脱の境地に至ることに対して、特定の「形」、客体性を帯びた「期待」や「執着」を持つという落とし穴に落ちてしまう可能性があります。

この形(特定の瞑想だとか、特定のグルのそばだとか、特定の場所だとかか、ゾーンに連れて行ってくれる大好きな趣味、スポーツだとか・・・)でないと、至福状態に入っていけないというのは、一種のアディクションを含んでますよね。

それも、本当の悟りを妨げるという点では、世俗的な領域で、モノや人に、「これさえあれば、幸せになれるのに!」と、特定のことを「期待」したり「執着」するのとほとんど変わらないと思っています。

何度かお話ししたルパートさんは、もともと、この手の古典的な非二元のヴェーダンダ的な修行をしていて、「世界を捨てなさい」「客体性のあるモノと関わるのをやめなさい」といつも口すっぱく言われながら、
アーティストとして、ものづくりに熱中したり、美しいモノを求めて世界中の美術館、博物館を訪ね歩く習慣がやめられなくて、その矛盾に随分悩まされたそうです。

ただ、ある時点で、師となるフランセス・ルシールとあって、
重要なのは、モノを作ったり、持つことを止めることではなく、
モノを作ったり、見たりする際に、そこに「形」以上のモノ、それを超えたものを露わにすることなのだということに気づきます。

モノを見ながら、そこに「形」を超えたものを触れた時に私たちが感じる「美しさ」は、
ヴェーダンダの伝統で目指されている形を超えた「真理」と全く同じもの。
同じものに、違った角度から迫っていたに過ぎないことに、気づかされたというわけです。
彼と同国、イギリスの詩人、キーツが、「美は真理と一つである」という言葉も、彼を勇気づけてくれました。

それを理解したところからまた、元祖インドの非二元的な伝統を紐解くと、「タントラの道」という形で、感覚を入り口に、形を超えた次元に入る道が、ちゃんとあることにも気づいたそうです。

というわけで、期待しない、執着しない、だからこそ、100パーセントの喜びを受け取る態度というのは、彼の言葉を使うと「タントラの道」ということになります。

ちょっと抽象的でややこしいですが、この辺、区別するのはとても重要だって思うので、もう一つ、例え話をさせてください。

「形」というのは、ランプシェードのようなものだと思うとわかりやすいと思います。

ランプシェードを透かして、光が受け取れるように、
形を通して、その背後のあるよろこびそのものを受け取ることができます。

でもそのとき、その形ある「何か」は、それを「通して」よろこびが輝く媒体。ランプにかかったランプシェードのようなものです。あなたが欲しいのは、光そのもの。ランプシェードではないはずです。

「何か」に対して、「これがなきゃだめ」、「これがないと私は幸せになれない」、「今後もこれを持ち続けられるかしら?」って思うのは、
光が欲しいのに、ランプシェードを求めているのと同じなのですね。
そう思った瞬間、ランプシェードはどんどん分厚くなり、背後の光を遮る「蓋」になってしまいます。

そんな状態から出発して、純生のよろこび、つまり光そのものを、再び最大限に受け取れるようになるには、ランプシェード、「形」を限りなく透明なものとして見過ごせるスキルが必要です!

ランプシェードを、それを通して光を輝かせる透明な媒体にするか、それとも、ランプシェードにばかり執着することで、それを、分厚くして、光を遮る「蓋」にしてしまうか、それは、このスキルにかかっています。

仕事であれ、人であれ、特定の何か、つまり形あるものに、幸せにしてもらうという発想を一切捨てるというのも、その一つ。これでずいぶん、ランプシェードも、薄くなり、透明に近づくはず!

特定の何か、形あるものから、幸せを引き出そうとする代わりに
一切の幸せを、「今、ここ」の宝箱からのみ受け取る習慣をつけるといいって、
先ほど、お話ししました。
これも、ランプシェード、「形」を透明に見透かすためのスキルの一つです。

あるいは、これはもうスキルというより、光源そのものといったほうがいいかもしれません!

というのも、まさにこの宝箱の中身、
「今、ここ」で感じられるつながりの感覚こそ、
あらゆるものから、その形を「通して」輝く光、大空のように無限に広がるよろこびと、
全く同じものだからです。

そこにあるのは、内側から出発するか、外側から出発するかの違いだけ。

あなたの外にあるように見える、あらゆるものの「形」を透明に見透かしながら、
それを通して大空のように広がる無限のよろこびは、
あなたの中の、「今、ここ」の宝箱から出る、つながりの感覚と、
一つに溶け合っていくのに気づくでしょう。
この時、あなたは、それらすべてのものと、全く一つです。

再執着の罠に落ちない

繰り返しになってしまいますが、一体感のよろこびが深まるにつれ、期待や執着の罠に落ちる危険も、再浮上することがあります。

美味しいものを口にして、幸せのあまり心が溶けていくとき、
このよろこびも、その料理をという形を「通して」、でも、それを超えて、大空のように無限に広がっていきますよね。

でも、だからといって、「この料理」さえ食べれれば、私は幸せ。私は、幸せになるためには、この料理が必要。と思って、「形」に依存し始めると、大空の喜びの自由は消えてしまうでしょう。期待や執着が始まるからです。

この誘惑にのらず、私の幸せは、特定のものの「形」から引き出されるのではなかった、
ただ、自分の「宝箱」からのみ引き出されるんだったと、思い出すことができれば、
「今、ここ」で、あなたが出会うすべての「形」を「通して」
そこに、大空の無限のよろこびが、感じられるようになります。

特定の料理店、特定の調理人のところに行かなくても、
身近な人が、作ってくれたちょっとしたささやかな手料理も含め、
あらゆるものが美味しく味わえるようになります。

といっても、そのお店に行くのをやめた方がいいと言ってるわけではありません。
状況が整って、たまたま、また同じ料理に出会うこともあるでしょう。
でもそれに自分の幸せがかかっているって思うこだわりが洗い流された後であればこそ、
再びそれを口にできた喜びも、新鮮なものになるし、大きなものになるでしょう。
「これじゃなきゃだめだ」という執着の「蓋」がかかっていないからです。

料理よりこれをやるのが難しいのは人間関係かもしれません。特に身体が絡むと、大変です。
池澤夏樹の『光の指で触れよ』の中で、
主人公の歩みが、スコットランドのスピリチュアル・コミュニティ、フィンドホーンの外れに住んでいる、トーマスというマッサージの名手兼タントラマスターから、セッションを受ける話があります。

「アユミ、提案がある」とトーマスが行った。「もう一つ上の段階のタントラを受けてみないか?」
「何をするの?」
「形の上ではぼくとの交合」
ちょっとショックだ。
「これは恋人になろうということではない。ぼくは恋人を作らない。そうでなくて、マッサージの先に、タントラの実践としてある行為だ。今日のマッサージでそちらへ導いたつもりはない。ただ、さっきマッサージを施しながら、提案してもいいかなと思ったんだ」
「恋人でないということは、情緒は絡まないわけね」
「そう、快楽のためではない。精神の頂点まで登っていった時にだけ体験できる認識がある。そこへ連れていきたい」
お茶のカップを手にしばらく考えた。
「恋の行為ではない。つまりこれを施す相手はきみだけではないということだ。競争心や嫉妬や独占欲と無縁な気持ちで受けてくれるなら、やってみよう」
「やってみるわ」とアユミは言った。

そんな人間関係、私たちが持てるかどうか、あるいは持つべきかどうかについては、みなさんの判断に任せます。また、ルパートさんや私が、この種の「タントラ」を推奨したり実践しているわけでも、ありません!
この引用をしたのは、アイデアを明確にするためです

程度は違うかもしれませんが、これと全く同じ種類の覚悟が、
何かから、本当の喜びを感じながら、それに一切執着せず、喜びの純度を保とうとする時、
仕事に思う存分打ち込みながら、そこに自分のプライド、自己価値観、アイデンティティを一切置かず、結果がどうであれ気にしない時、
必要になってくるわけです。

でも本当にこの覚悟ができて、「形」を通して「形」を超えたところまでいけると、本当の喜びが待ってます。

だから、どうぞ、この自由な境地の方に、焦点を合わせてください!

光が透けて見えても、覆われていても、そこにあるのは同じ光

ものの中には、「形」を通して、「形」を超えた無限の喜び、愛、美しさを味あうのに、ほとんど努力がいらないものがあります。

極上の料理とか、一流の芸術品など、そうですよね。

ランプのたとえに戻ると、ランプシェードが、とても希薄で精妙な素材でできているので、
すでにそこからたっぷり光が溢れており、ほとんどの人はそれを見逃さず、それを「通して」本当の幸せに出会える、ありがたいものです。

それに対して、ランプシェードが分厚くかかりすぎて、
それを透明に見透かして、その背後にある喜びや愛や美に到達するのが、とても難しいものもあります。
醜悪・困難に見える状況などですね。

そうしたものを前にしたときに、思い出して欲しいのは、
覆われた光もあれば、
露わになってる光もあるけれど、
そこにある光は全く同じものだということです。

光が分厚く覆われているように見えるほど、
それを露わに見透かしていく作業は意義あるものになります。
『奇跡のコース』ではこの作業を「ゆるし」と呼んでいます。
詳細は、別著『心をゆるめ愛と安らぎの源泉に身を浸す』に書きましたので、ここでは書きませんが、
そんな時には、とにかく今、ここの宝箱のみに、
しっかりフォーカスを合わせて、そこから力を汲み取ってください!

何を前にしても、その見かけ上の「形」を超えて、その奥に広がる祝福、喜びや愛、美に到達することができるようになるにつれ、

あらゆるものは、あなたに、そうしてもらうのを、今か今かと待ち受けているように感じられてきます。

メルヘンの中には、魔法にかけられて不自由な状態にあるけれど、
実は高貴な王子様やお姫様を助け出す話がたくさんありますが、
それが何を意味しているか、わかってきます。

あらゆるものは、自分が幽閉されている「形」から、
魔法を解かれ、解放されるのを待っています。
そうして、「形」が透明に見透かされ、愛と光、美と喜びの海に溶けていくのに
憧れています。

それはあなたの憧れでもあります。
そうすることで、何であれ、そこにあるものから、あなたは
愛と光、美や喜びを、100パーセント、ありがたく受け取ることができるからです。

そのときあなたは、目の前にあるものが、本当のあなた、スピリットとしてのあなたであることに気づくでしょう。

これも、ルパートさん経由のアイデアですが、

英語で本当に楽しんでいる時、I am enjoying myself といいますが、
本当に楽しんでいる時、私たちは、実は自分自身を楽しんでいるのです。

料理や音楽や絵画やダンスや会話という「形」を通しているかもしれませんが、
そこにあるのは、無限に広がる大空のしあわせ
「今、ここ」という宝箱の中身。
すべてと一体化した本当のあなたがあるばかりなのです。

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