奇跡のコース

スピリチュアリティのために仕事を辞める 選択肢の立て方、まちがってるかも? 私の脱サラ生活5年目の総決算

  • LINEで送る

欲しいものは全て「今、ここ」という宝箱の中にある

コースや非二元の勉強や実践を始められて、
何となくわかったような気がするけれど、
はっきりした結果は感じられないよ・・・という方いらしゃるかもしれません。
もっと端的に、いいことが、ちっとも起こらないんですけれど、という方もいます。

癒された状態について、あらかじめ、イメージ、期待を持っていて、
毎日それに照らし合わせて、「まだかまだか・・・」と待機する態度だと
うまくいきません。それ自体が、新しい気づきのための大きなブロックになるからです。

あなたがあらかじめ持っている期待やイメージは、すべて過去からくるもの。
「今、ここ」のものではありません。

過去の経験から来る、期待やイメージに照らしながら、
もっといい状態がある、それをめざそうとか、
それと対比すると、今の私の状態は、まだまだ、だめだ・・・

と、ほんの微かにでも思うと、
抵抗と探索のドラマの中に、また、組みこまれてしまうからです。

そうする限り、小さな私や、特別性の自己愛の側に、いることになってしまいます。
でも、ここでは、まさにそこから出ることが目論まれているのです。
先ほどもお話しした、「特別な意識状態」がそこにある、と期待してしまうのも、その一つです。

今、ここに感じられる一体性の状態の中には、「意識状態」の「特別さ」もふくめ、
何もつかめるもの、確かめられるようなものはないのです。客体性がないのです。
だから、何か、そこにつかめるもの、確かめられるようなものを探そうとすると、必ず失望します。
何か、形あるものを求めようとする気持ちを残したまま、そちらに向かうと、
何にもない、真空状態に迷いこんだような気さえするかもしれません。

そこから抜け出るために、私が知る限り一番効果的なのは、
どんなに微かであれ、まだ、何か期待してしまう。癒されると、悟れると、こんな体験、こんな特別な意識状態が待ってるに違いないと、期待してしまう。
その憧れる心、求める心自体、しっかり感じて、
その中にある欠如の痛みもしっかり感じながら、
ゆるめ、解きほぐし、休ませることです。
あらゆるものが、そこに、溶けて一体性へ戻り、安らう
スピリットの中、愛の海の中で、休ませることです。

そんなふうに、抵抗と探索のドラマが、どんなに微妙な形であれ、始まったと思ったら、
そのドラマの核心にある、憧れ、希求と、その奥にある痛み、欠如の痛みを感じては、
ゆるめ、スピリットの愛の海で安らわせ、溶かしていく。
そればかり続けていると、愛の海の嵩がどんどん増し、心に満ちあふれる感じが高まっていきます。「今、ここ」にどっしりと、根をおろし、住み着いて、リラックスして、ああ幸せと、何も求めないでいればいるほど、どんどん満ちてきます。あらゆるものとの、静かな、でも生き生きとした、一体感です。

そこに、自分の求めるすべてがある。
愛も承認も、喜びも安心感も、安らぎも、欲しいものすべてがある・・・
ここ以外に、自分が本当に求めるもののありかはない。
そう思う習慣も、とても大事です。

世界に対して、自分の心身の状態に対して、
自分の期待が満たされたか、望まれた成果や、結果がでているかをチェックしそうになったら、

この、それよりはるかにずっと重要なことに、フォーカスするようにしてください!つまり、

私は、今、ここという、唯一実在する瞬間だけを感じながら、
そこに広がる愛の海から、
幸福であれ、自己肯定感であれ、欲しいもの全てを、「そこだけ」に求めて生きる覚悟があるか。

それだけ? って思うかもしれませんが、
「今、ここ」に、全注意を向けて生きるようになると、
そこから、まずは、安らぎや落ち着きが、
して、やさしさ、そして、周りのすべてのものとつながっている感覚、愛が感じられるようになってきます。
生き生きといたエネルギーやフレッシュな生命感が流れこんでくるのにも気づかされるでしょう。
いつもそこに、心を置いて、そこで休らう習慣をつければつけるほど、
そこに秘められた宝が、味わえるようになります。

「今、ここ」は、無尽蔵の宝がぎゅうぎゅうに詰まった宝箱のようなものなのです! この中を探索したいと思いませんか? この探索に熱中している間に、だんだん、抵抗と探索のドラマに迷いこむ根強い癖も、ゆるんできます。

「宝箱」のイメージは、エックハルト・トールさんの『パワー・オブ・ナウ』の冒頭から借用させていただいてます。
私たちは皆、一度も開けたことのない箱の上に腰掛けて、毎日、物乞いしてる乞食のようなものだというたとえ話です。
ある通りがかりの人が、「あなたはいつも物乞いしてるが、自分がいつも座ってる箱の中を覗いてみたこと、ありますか?」と言うので、初めて中をみてみると、そこにはこの上ない財宝が入っていたという話です。
「乞食」は、外的なものや状況、かたちあるものに、幸せを求めて生きる態度。「通りがかりの人」は、スピリチュアルなインスピレーションを与えてくれる師のたとえです。「宝箱」は、「今、ここ」のみで感じられるつながりの感覚や、そこから来る安心感、平安、愛、生命感・・・のたとえです。それは、私たちに一番近いところ、「今、ここ」にあるんですね。ただ、私たちはこれを、あらゆる「いつか、どこか」に探しまわりはするものの、「今、ここ」だけは「不十分」とみなす根強い抵抗の癖のせいで、絶対に受け入れようとしないので、ほとんどの人は、これを見つけられないで一生物乞いで過ごすというわけです。

しっとり系の自己愛からのみ、自己肯定感を引き出すようになると、癒されるだけではなく、人生、本当に楽で、楽しくなります。

もちろん、お金のための仕事はいらないとか、未来の準備をするのを一切やめて、無計画なキリギリス的な生き方をしろと言っているわけではありません。

食糧の準備や家のメンテはするし、必要となれば、必要なだけの、お金のための仕事も探すし、こなします。私のように北国に住んでいれば、冬支度もします。

ただ、そういった外的な営み、そこで達成されること、望んでいる成果がでるかどうか・・・などに、
自分の幸福や、アイデンティティやプライドや自己肯定感がかかってるとは、一切、思わないんですね。
幸福や、アイデンティティやプライドや自己肯定感をどれだけ持てるかは、それらとは、全然違う源泉から、しかも無尽蔵に来るからです!

そして、これまで「未来の」幸福やアイデンティティづくりのために費やしていた全エネルギーを、
「今、ここ」という唯一実在する瞬間に、気づき、あますことなく味わうことに投入するのです。

「今、ここ」に生きる人は、未来に備える行動も手抜かりなくやる。
けれど、そこに自分の幸福やアイデンティティやプライドや自己肯定感がかかっているとは、一切、思わないことが肝心だと、先ほど、言いました。

そんなふうに言うと、何だか、殺伐とした印象を持たれるかもしれません。夢も希望も持たず、淡々とやるだけなのね・・・という具合に。

実はその正反対なのです。本当に、「今、ここ」にいて、その宝箱から、愛や、安らぎや生命感が流れこんでくると、それが、どんな作業にも、よろこびや、遊び心をみなぎらせてくれるんですね!
クリエィティブな発見のよろこび、驚きや楽しみに満ちたものになります。

未来のために「必要な」やっつけ仕事ではなくなり、それ自体が、今、楽しい仕事に変容します!

それだけではありません。「今、ここ」の宝箱からのみ、自分の欲しいものを取り出して生きる人は、
他の人たちより、有能に、未来に備える行動含め、実際的なこともテキパキとこなせるようになります。

なぜでしょう? それがうまくいくかどうか、成功するかどうかに、
自分の幸福やアイデンティティやプライドや自己肯定感がかかっていないからです。
だって、そういったものはすべて、既に別の源泉(宝箱)からたっぷりいただいていますから。。

だからとても気楽です!
それがうまくいくだろうかと、悶々と悩んで、プレッシャーを感じることもないし、
重苦しい気持ちで、必要なことから逃避して、ぐずぐず引き伸ばすこともなくなります。
この仕事は自分に相応しくない、自分はもっと価値のあることをすべきだとイライラしたりすることもないし、
とにかく、余計なこと、一切考えないから、何をするときにも、さくさくはかどるわけです。

世捨て人になるどころか、とても、有用な人になれます。

「今、ここ」だけに、心の照準を合わせる癖は、
欠如の信念の根強い文化の中に住んでる私たちに、
一朝一夕で身につくものではないかもしれません。

逸れているのに気づいたら、そのたびに軌道修正する意欲を持つだけで、当面、大丈夫です。
以下はそのための役に立つかもしれない実験です。

実験

何をするにしろ、それをする前に、一瞬立ち止まり、「私はこれを、未来の幸福のためにやっていないだろうか?」と自問自答します。

答えがYESの場合。「これをやれば、自分は幸せになれる」って思いがそこに潜んでいる場合、
真の幸福は、未来の体験内容を操作することからくるのではなく、
「今、ここ」にしかなかったことを思い出して、心の中に立ち戻り、それに触れてください。
幸福はすでに、今、ここにあって、どこにそれを求める必要もないことを思い出してください。

そして、作業に立ち戻ってください。
私はこれを、幸福を得るためではなく、
既に持ってる幸福を表現するためにやるんだって思いながら、今、ここの作業を、それ自体として楽しんでください!

しっとり系の自己愛で生きる人にとっての、職業とは?

仕事について、話はじめたついでに、お金のための仕事、職業の話をしましょう。

特別性の自己愛に生きる人にとって、職業といえば、
プライドの拠りどころ、パワーを示す道具、自分らしい個性を演出する媒体としてあるかもしれません。立派な仕事、素敵な仕事、自分らしい仕事でなきゃいけない、自己実現できる仕事でなきゃいけない・・・と思っているかもしれません。

あるいは、そんな余裕はないけれど、とにかくお金がないと、安心できないから・・・と、その背後にある欠如の信念が既に表に出ている人もいるかもしれません。

これに対して、しっとり系の自己愛からくる自己肯定感、職業ってどんなものになるでしょう?

一つ言えるのは、職種内容は、一切、心理的には、問題ではなくなることです。
もちろん、危険な仕事や、不正な仕事も、問題ではないというのではありません。そういったものは避けたほうがいいのは、変わりません(笑)。

ただ、心理的に問題ではなくなるんですね。職業は、かくあるべきだといった、思い詰めた感じが全くなくなります。気楽で、リラックスしたものになります。

職種内容で、自分の幸せが左右されるとか、
自分の価値が左右されるという感覚が全くないからです。

というのも、しっとり系の自己愛で生きる人には、
幸せも、自己価値観も、承認も、アイデンティティも、安らぎも、とにかく欲しいものすべてが、
外側ではなく、自分の内側を見つめた時に、
未来ではなく「今ここ」で、感じられるつながりの感覚、愛の海、
先ほどの「宝箱」から得られるからです!

この宝箱からのみ、欲しいものすべてを得て生きる習慣をつけると、
職業に対しても、とても気楽な関係が持てるようになります。

そこに自分のアイデンティティやプライドや、幸せがかかっていないので、
「こんな仕事は嫌だ」「私には、もっとすべきこと、重要な仕事がある」とジャッジして、
抵抗と探索のドラマを繰り広げることも、ずっと少なくなります。

自分の内側に見つかる「宝箱」から、いくらでも、よろこびを汲み取れるので、
あらゆる仕事に対して、先入観のない、子供のように無邪気な好奇心でのぞむことができます

「宝箱」からあふれる幸福感は、調理をしていても、床磨きをしていても、配達の仕事をしていても、
その人から自然に溢れ出て、周りに放射されて、そこにいる人たち、そこに関わる人たちすべてと、分かち合われます。

あらゆる状況、あらゆる仕事、あらゆる出会いが、このよろこびを表現するための、素材になるというわけです。

そういう意味で、職業間に貴賎は一切ない。全く同じように、愛や喜びの媒体にでき、何より、自分が楽しめる。

だから、その場その場の状況や、インスピレーションがもたらしてくれる、あらゆる仕事を、好奇心満々で、喜んで引き受けることができます。

職業に関して、ジャッジしたり、ジャッジされる感覚を引きずる限り、どんな職業も、灰色なのですね。でも、それをやめると、職業は、愛とギフトの贈り合い。人を生かすことで、自分を生かす、持ちつ持たれつの連鎖でできた織物をつむぐことです。たとえば、今、私が使っているパソコンや、それを乗せている机を、作ってくれた人がいるおかげで、この文章もあります。今日も、朝早く起きて、鳥の声を聞きながらこうやって仕事ができるのも、無数の別の人の仕事にささえられてる・・・この織物それ自体が、愛の海のすばらしい表現になっています。

スピリチュアルな道の途上で、仕事を辞めるべきか、転職すべきかで悩む人、多いみたいです。

でも、そう思うとき、無意識のうちに、その人が望んでいるのは、今、私がお話ししたような働き方の内的な変容なのではないでしょうか?

幸せを、自分の内側にある、「今、ここ」にのみある一体感という宝箱の中からだけ引き出せるようになること。

そこから汲み取れる愛や喜びの道管となって、
まず自分が、楽しくて仕方がない、この仕事が好きで仕方がない。
と同時に、周りの人にも、その愛と喜びがふりまける。
そんな状態で、働けるようになること。

でもそれは、何か特別の仕事につくことで、達成されることではないのですね。
内的な変容だからです。逆にいえば、この変容を遂げれれば、どんな仕事だって、構わない。そんなものなのです。

だから、本当の選択肢は、この仕事を辞めるべきかとか、もっとスピリチュルな仕事を始めるべきかとか、そう言ったことではないと思っています。
結果的にそういうふうに導かれることはあるかと思いますが、それは副産物にすぎない。

本当の選択肢は、

仕事に関して、あるいは仕事だけでなく、人生のあらゆる事柄に関して、
幸せ、承認、愛、喜びといった、自分が究極のところで欲しがっているものすべてを、
自分の内側にある「今、ここ」の宝箱、一体感の宝箱から「のみ」引き出す覚悟があるか?

それとも、
それ以外のところ、
外的な、形のあるもの、
「特別」なもの、
過去の経験に基づき「期待」されたものに、欲しいものを求めるのをやめたくないか?

ということなのだと思います。

今ここの「宝箱」は、決して、私たちを裏切りません。
そこに助けを求めたり、そこに頼ることそのものが、充足であり、安らぎであり、愛に満たされることだからです。

でも、それ以外のところ、
外的な、形のあるもの、
「特別」なもの、
過去の経験に基づき「期待」されたものに、
幸せ、承認、愛、喜びといった、自分が欲しいものを少しでも引き出そうとすると、
必ず、執着、ストレス、不安が生じます。

つまり、『奇跡のコース』の言葉を使えば、
私は、おそれと愛のどちらを選ぶか
ってことですね。

選択肢の立て方を間違えて、
今のこの仕事を辞めさえすれば、
好きなことを、自分のため=人のためになる形で、できる
つまり愛と喜びに満ちて、一体感を深めながら仕事できる
と思って、すでに仕事を辞めたり、変えたりした人も多いと思います。

実は私もその一人です(笑)。その場合、最初に感じられるのは、気づいてみると、これまでとあまり変わらない毎日を送ってるってことですね(笑)。つまり、
「仕事をやめたからといって、仕事人メンタリティから解放されるわけではない」ということに気づくわけです。

たとえば、仕事それ自体には喜びは感じられないのだけど、
いわゆる生活のため、お金のため、将来の保証のためだけに仕事をしている場合。
私もそうでしたが、そんな、守りのため、防衛だけのための仕事なんて、辞めたいな、
そのために、将来の生活の安定の保証を、保っていたいと言う誘惑を振り切る勇気を持ちたいなって思いますよね。

それでぱっと辞めた。
でも、そのあとでも、貯金が尽きることに対するおそれは続きましたし、
やっぱり、将来の保証が欲しいと思い始めたりもしました。

また、新しい仕事についても、やっぱり依然と同じような気持ち、「もっといいもの、自分にあったものがあるはずだ」という、抵抗と探索のドラマを、新しい仕事にもまた投影してしまう・・・つまり振り出しに戻る可能性があります。

私自身は再就職はしませんでしたが、経済的な保証を与えてくれるパートナーにしがみつくという形で、同じ恐れがぶりかえして出てきているのを感じたこと、多々あります。

あるいは、自分の時間を切り売りして、一部を、灰色の仕事に費やし、やりたくないけれど必要なことをやって犠牲にする代わりに、
その代償として、欲しいもの(お金や、自由)を得る
その癖も、なかなかとれませんでした。

自分の好きなことに打ちこみたい、できればそれで生計を立てたいと思って、仕事を辞めたのに、気づいてみると、何か代償をはらって、欲しいものを得るという、このパターンにハマってしまい、気がつくと、
そのために必要な準備に、それこそ、必要以上の時間を費やしてしまってる。
そしてそれを、本当に好きなことに打ち込むことに対するおそろしさからの避難場所にしてしまったり。
「これだと、大学の雑務に追われていることを、自分が一番やりたいはずの研究に邁進できないことの口実にしていた、昔の日々と全く同じじゃないの!」と思ったこともしばしばです

私の場合は、家事にそれが投影されて、掃除や料理が、
「犠牲」にして、「売る」側にある、灰色の時間になりました。
そもそも料理も掃除も、嫌いなことではなかったはずなのですが、
それらを、「義務」として、重苦しく感じたり、家にいること自体に閉塞感を感じてるのに気づくこともありました。
家事負担のせいで、本当に自分がやりたい、執筆の時間がないと、パートナーに対してストライキをしたくなったり・・・・
とにかく同じことを繰り返す可能性、大です。

仕事人メンタリティは、職種によってもさまざまかと思いますが、これも、なかなかとれるものではありません。私の場合、研究職、教職につきものの、競争や、専門については、誰より知っている役を演じなければならないプレッシャーが、いやで辞めたところもあります。

でも、辞めた後も、その名残に悩まされました。気づいてみると、頼まれもしていないのに、ついつい、先生としてふるまっている自分に気づかされることもありました。

でも、こうした一切の問題も、

仕事に関して、あるいは仕事だけでなく、人生のあらゆる事柄に関して、
幸せ、承認、愛、喜びといった、自分が究極のところで欲しがっているものすべてを、
自分の内側にある「今、ここ」の宝箱、一体感の宝箱から「のみ」引き出す覚悟

本気でこれをすれば、消えます。

遅すぎることは決してありません。

長くなってしまいましたが、ようするに、最初にこの覚悟をして、
今、ここの「宝箱」のだけにフォーカスして、そこから幸福を汲み取りながら、

自分の幸福に関して、外の世界からは、何もいただくものはありません。
与えるものがあるばかりです。

と生きる。この変容をとげることを、おすすめします。それが、多分、一番回り道が少ない生き方です。

本当にこの変容をとげることができて、内側から愛や喜びが溢れてくると、
自然に、本当に自分が生かせる場所が見えてくる、あるいはそこへと、導かれることになると思います。
で、結局、転職することになるかもしれませんが、そこで誤る可能性はずっと少ないと思います。
なぜなら、正しい選択肢を、すでにした後だからです。

本当に自分が生かせる場所・・・というと、特別性の自己愛の側にあるようにきこえます。
でもこのときには、そこに自分の価値がかかってるとは、思ってない。プライドの拠り所になってないところが、違います。
私たち一人一人の分離した心身には、それぞれ、向き不向き、受けた教育、素養、素質があるのは、歴然とした事実。
それに対して、反発もせず、執着もせず、良いとも悪いとも思わず、プライドや自己価値の拠り所にせず、生かしていくこと、
「ただ、自分にできることをする」姿勢は、
特別性の自己愛によるものではないです。

私も、いつだって、必要とあれば、どんな仕事もできる。そこには本質的な意味で(つまり同じように愛の媒体になれると言う意味で)違いはない・・・って思ってます。そう思うことで、仕事に関するおそれがなくなり、心が自由になりますから!

そう思いながら、なんとなく、文章を書いたり、翻訳をしたり、人前で話したりすることに始終する毎日です。でも、「絶対、これしかない!」「これこそ私の生きる道!」といった思い詰めた感じは、もう、全くありません。

だから、楽しいんですね!

  • LINEで送る