非二元のエッセンス

休む 〜今、ここのありのままを、抵抗も含め、気づきの海から眺める 新しい習慣

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「今、ここ」のありのままに心を置く

「今、ここ」の拒絶、回避は、
自分を特別な存在にすることで、愛されようと思う
特別性の自己愛や、
その中に隠れている欠如の信念の中に、
一貫してあるものです。

「今、ここ」のありのままの状態に対して、
「ダメだ」「不十分だ」「不調だ」・・・という具合に、何らかの不足を見つけ、

ここで外れた期待を「いつかどこか」で満たし、理想状態に近づくために、
何とかしなきゃ、何かをしなきゃという衝動を感じて、勉強やエクセサイズに励んだりするとき、特別性の自己愛がはじまります。

「今、ここ」のありのままに対する抵抗は、
今は、どうせ灰色の時間なのだから、嫌だけどしなきゃならないことをするのに費やして、いいタイミングが来るまで待とうと、やっつけ仕事、お金のためだけの仕事に使おうというかたちで現れるかもしれません。気づいてみると、ほとんどの時間が、灰色の時間とみなされることになるかもしれません。

でも、灰色の時間に見えるのは、あなたの頭の中に、灰色に見せるサングラスがあるからだけ。欠如の信念というサングラスがあるからです。
これさえ外せば、どんな状況でも、どんな仕事の最中にも、幸せを感じることができるはずです。サングラスを外しましょう。

「今、ここのありのまま」の私は、唯一実在するあなたです。
他のあなたは、「いつか、どこか」にいるあなたは、単なる想像上の存在としてあるだけです。

「今、ここにある、ありのままの私」というこの唯一実在する私より、
「より良い」私が、「いつかどこか」に存在するんだ思うこと自体、
ものすごい自己否定。自己愛や自己肯定の真逆にあることだと思いませんか、まさにこの癖のせいで、みんなとつながった、大きな私へとつながる唯一の扉が、蔑ろにされ、埃に埋もれて見えなくされてきました。
まさにこの癖こそが、揺るぎない、真の自己肯定感の源泉を、塞いできた張本人なのです。

大きな私、揺るぎない自己肯定感に満たされた私への通路へは、
「今、ここ」のありのままの自分の状態を受け入れるところにしか、開いていません。

というわけで、今、現に、自分がいる場所、自分のまわりのものを、丁寧に味わい、受け入れる実験、やってみませんか?

実験

「今、ここのありのまま」の状況に対して、「ダメだ」「不十分だ」と、抵抗を感じた瞬間をとらえます。
それをまぎらわしたり、直したりする行動をとりたくなるかもしれません。
でも、今回はその前に、立ち止まってください。

そして、あえて、その「ダメな」感じ、「不十分な」感じを含めた、今の自分のありのままの状況を、丁寧に、感じてみます。

不快で、耐え難く、おぞましいものに感じられるかもしれません。

だからこそ、「今、ここは不十分」「もっといいものがいつか、どこかに見つかる」と
と、これまで、探索に駆り立てられてきたわけですから。
「今、ここだけは嫌。それ以外のところならどこでもいい!」とさえ思われるかもしれません。

でも、あえて、「今、ここ」に全ての注意を注いで、それを、感じてみましょう。

この感じが、良い、悪いとジャッジしたり、
これを感じる自分をジャッジしたり、

ただただ、ありのままに、直接体験されることだけ、感じてみてください。
そこから、あらゆる説明、「〜だから、私はこうなの」とか、
「〜のせいだ」とか、「〜という症状だ」といった、あらゆる経歴、ストーリー、言葉もすべて忘れて、

ただ、そこに、今、この瞬間、体験されることだけ、感じてみてください。
生まれたばかりの赤ちゃんのように、記憶のない、まっさらな状態になるんです。
世界の中で体験したあらゆることを、一切合切、忘れてしまうのです。

すると、後にのこるのは、
胸のざわつきや、お腹の違和感、締めつけるような感じといった
身体感覚だけになるかもしれません。

思いから、あらゆるジャッジメント、あらゆるレッテル、あらゆる説明を取り払いながら、
まっさらな状態で、直接体験できることに集中すると、身体感覚だけが残るのですね。

それを、「そのまま、ありのままでいいんだよ・・・」と言いながら
すみずみまで、つつみこむように・・・
静かに、ありのままに、
感じ続けてるとどうでしょう?

すると、「感じられ」ている不快感や痛みは依然としてあっても、
それを「感じる」側の私から、やさしさが感じられてくるかもしれません。

静かな静かなやさしさが、この「感じる私」から滲み出て、放射されているのに気づくかもしれません。

やさしさが感じられてきたら、確認して欲しいことがあります。

あなたはだれでしょうか?
この「やさしさ」を放つ存在、つまり、静かに、見つめ、感じているこの存在でしょうか?
この存在によって、見つめられ、感じられている不快感や痛みの方でしょうか?

どちらが、本当の自分でしょうか?

やさしく、静かに、見つめ、感じているこの存在こそ、本当のあなた
それが、この本の立場です。それを、気づいている私、気づきとしての私、大きな私、あるいは愛の海の側にいる私と呼ぶことにしましょう。

日本語で、「気づき」というと、ものに対して、緊張して、集中してるイメージありますが、
ここでいう状態は、部屋の空間がその中にある全ての家具を包むように、
あなたの思いをすっぽり包みこみながら、すべてをゆるし、受け入れてる、そんな状態です。非二元の用語で、英語ではawareness と呼ばれているものです。

気づきとしてのあなたは、今、不快感や悪感情、それに伴うさまざまな思考、感情、知覚に気づいています。

でも、そこで気づかれているこれらの内容は、あなたの本当の姿ではない。本当のあなたは、それらに気づている側にいる・・・そう思うところから、解放のプロセスがはじまります。

痛みや悲しみや怒りを、事実は、依然として変わらなくても、いいのです。
ほんのちょっと、視点をずらすだけ。

私はこの痛みだ → 私はこの痛みに気づいている存在だ
私はこの悲しみだ → 私はこの悲しみに気づいている存在だ
私はこの怒りだ →私はこの怒りに気づいている存在だ

写真のネガポジが反転するような感じです。写真の中に、あなたの姿が写ってるのですが、本当のあなたは、その姿を包みこみ、それに気づき、感じている空間の側にある。

より大きな、気づきとしての私と合流した最初の兆候は、
先ほども言ったように、そこにみなぎるやさしさです。
と同時に、そのやさしさが、自分の思いや感覚や知覚をすっぽり包みこむ空間をなして感じられてきたら、合流が上手くいった兆候です。

合流できたと思ったら、そちらに意識をおいてください。
痛みや不快感は、依然と残っているかもしれませんが、それらを本当の自分とはみなさず、
それらを、やさしく包み、感じる空間の側にできるだけ、意識をおくのです。

人により、状況により、それだけで不快感や痛みが和らいで、愛の海に溶け、
そこにあるのは、気づく側にある大きな私があるばかり・・・となれば、実験大成功。

そうならない場合も全く大丈夫です。自分を責めないで、それでも、いいんだ、大丈夫だって、自分をいたわってください。

決定的に重要なのは、私は、今自分が感じてる思いや感覚や知覚そのものではなく、
それに気づいている気づきだっていう立場、写真のネガポジを反転した立場から、ぶれないことです。そこまでがあなたの仕事なのです。

あなたの仕事は、そうやって、気づきの側にいることまで。

今、あなたが「気づいて」いる、痛みや不快感が、癒されるかどうかは、
例えば、春になると、雪が溶け、冬枯れした木も緑に覆われたり、花が咲いたり、種が芽吹き始めるように、時期が来れば、自然に消えていくでしょう。

それは、こうした自然のプロセスに似ていて、あなたが強要できるものではないし、ジャッジしようとしたり、コントロールしようとすると、妨害することになるだけでう。焦っても仕方がありません。

気づきとして現れている、あなたの中のこのやさしい存在におまかせしてください。

気づく私、大きな私の方に、フォーカスをピタッと合わせて、痛みや不快感のことは忘れてしまってた・・・くらいになれると、理想的です。

気づいてみると、「あら、もうなくなってる!」と思うかもしれません。

痛みや不快感を、気づき、いたわっている側のあなたから、
包みこむようなこのやさしさが、滲み出ているのが、感じられない場合、

微かであれ、そこには、ジャッジメントがある可能性があります。

たとえば、この痛みや不快感の原因になったと思われる過去の記憶を引きずったまま
誰かや、何かを責め続けていないですか?

あるいは、こんな状態、苦しいので、早く、除去したい、癒したい。
そのために今の実験をやっているんだって思っていないですか?

あるいは、そんなふうに、どうしてもジャッジメントがやめられない
自分を責めてないですか?

もしそうしているのに気づいたら、決定的に重要なのは、
また、「ジャッジしてしまってる」ことについて、気落ちしたり
自分や、自分が置かれている状態を、責めないこと
逆に、ありのままを愛し、受け入れることで、逆転が起こるからです。

まずは、そこにある感情
たとえば、腹ただしさや焦り、憧れ、絶望・・・に気づいて、
それをしっかり感じながら、ありのままをゆるし、受け入れてあげてください

つまり、問題なのは、ジャッジメントをやめられるかどうかではなく
そうやってジャッジメントをやめられない、自分をジャッジメント抜きに受け入れ、ゆるすことができるかどうかなんですね。

たとえば、そうやって、いつも文句ばかり言ってる、あなたのそんなところが、いいんだ。大好きだよ、愛してる・・・・って抱きとめてあげてください。

すると、気づきとしてのあなた、大きなあなた、愛の海の側にいるあなたと合流しやすくなります。

この合流がうまくって、やさしさが感じられなかったら、
やはり同じことをくりかえしてください。

それがなかなかできない自分の、まさにそんなところを、
だからいいんだ、愛してる・・・・って
ありのまま無条件に受け入れながら、ただ、それに気づいていてください。

もちろん、最初は難しいですよね、何度も何度も、外れてしまって、
思いや感情に心がさらわれて、たとえば怒りに我を忘れてしまったり、悲しみの底に沈んで抜けれないようなても、大丈夫です。

気づいた瞬間、怒りや悲しみの側ではなく、
それを感じ、受け止める側に気持ちの置き場を変えて、
テストに落ちたように自分を責める代わりに、ありのままの状態を、無条件に受け入れ、愛することができた時点で、一気に逆転できます。

どんなにつんけんした、心の荒んだ状態にあって、そんな自分を叩いたり、責めたりするのがやめられなくて、悪循環が続いても、遅すぎることはありません!

罪悪感や責め癖がどんなに層をなして積み重なっても、その一番外側を、ありのままに気づき、無条件に受容し、愛している私がすっぽり包み込むことができれば、よく効く軟膏が、皮膚の奥に浸透していくように、じわっと内側にしみこんで、癒していきます。

大変でも、これほど、習熟しがいのあることはありません。

ポイントは、その感情にまつわるストーリーを一切、忘れて、
生まれたての赤ん坊のように、直接体験できることだけに集中すること。
自分も含め、悪者をどこにも置かないこと

気づいている私の側にしっかり意識をおき続けることだけが、自分の仕事だと思って、
あとは、自然に始まるプロセスにゆだねることです。

自分で自分を拘束してるのに気づく

とはいえ、このままだと苦しいし、こちらでできることは、何でもしたいのですがと言われるかもしれません。

「今、ここ」とは、どこか別のところに、癒しや、悟りといった理想的な状態が待ち受けていると考えると、
「今、ここ」に不足を見て、「いつか、どこか」で、それを満たそうとする
抵抗と探索のモードに入ってしまうので、うまくいきません。

でも、その危険を最小限にするために、とっておきの方法があります。

自作自演の束縛的で無理な活動、でも癖になってやめられなくなった活動を、解除して、
本来の安らかな状態に戻り、休むんだって思うことです!

ルパートさんのメタファーを使って、簡単に説明しましょう。
手を全力でぎゅっと握りしめたまま、長い時間たつと、握りしめた状態の方に慣れてしまって、
開く方が大変ですよね。痛く感じられるかもしれません。あまりに痛いので、「開いたらどうですか?」と提案する人(この本もその一つ)を疑ったり、恨みに思うことさえあるかもしれません(笑)。でも、開いてみると、それは他ならぬあなたの手の、自然な状態だったってわかるというわけです。今まで何で無理して、あんな不自然できついポーズを自分に課してたんだろうって、思うかもしれません。

このメタファーがすばらしいと私が思うのは、
癒された状態、悟った状態が、何か、特別な意識状態として、
今ここの私とは別のところに存在してる。だから、修行したり、特別なことをして、探索しなきゃいけないと思わずに済むからです。とても微妙ですが、これも欠如の信念なので、やればやるほど、自分の不十分さが痛切に感じられてきます。

私自身そこに何年もはまってきたので、自信を持って言えますが、そちらには袋小路しかありません。

それは、開いた手と同じくらい、自然な、私たちの本来の状態、本性にすぎないのですね。
努力というより、努力の解除だけが、求められているのです。英語で、やっていることdoを取り消すundoという言葉がありますが、undoするだけなんです。『奇跡のコース』でも、エゴは、undoするものだと語られています。でも、この手のメタファーで、なんだ、そんなに単純なことなんだって、あらためて、思いました!

この握りしめた手と、ちょうど同じように、私たちも、
ありのままでは不十分、何かが足りない・・・といった欠如の信念、
そこから派生する
「自分はこうあるべきだ」、「こうしないと愛されない」とか、
「人生はこうあるべきだ」、「こうしないと幸せになれない」
などなど、無数の思い込み、決めつけ、基準、ルール、期待を背追いこんで、
自分で、自分をわざわざきゅうきゅうに締め上げて、縄で縛っているって考えることができます。

でも、一番重要なのは、実際に、これを実感として、感じることです。というわけで、また実験してみましょう。

もう一度、このやさしい、気づきの空間の側から、
あらためて、今、ここで感じられるあなたの思いや感覚を見つめてください。

すると、とても無理をして、疲れている人に対するいたわりのようなものが、
感じられてこないでしょうか?

あなたは、もっともっと大きな、広がりのある存在。
陽気で、無邪気で、みんなとともにある。
そんな存在なのに、

自分で自分を縄でぎゅうぎゅうに締め上げて、狭いところに閉じこめ、拘束してる。

拘束の詳細、内容は、人それぞれかもしれません。
必ずしも、今、私がお話ししたように感じられなくても、
とりあえず、拘束されている感じに気づいていただければ、先に進めます。

先に進むというより、後戻りすることかな? undo することです。
このきりきり締め上げた感じを、そのままゆるめてリラックス
身体の重みを全て、周囲のやさしい気づきの空間にゆだねながら
うんと休むとどうなるでしょう?

縄が深く心に食いこんでいて、縄に少し触れただけでも、飛び上がるほど、痛いかもしれません。そこに効くのは、ひとえに、愛です。
そうやって自分を縛らずにはいられなかった事情。
恐ろしさ、絶望などが、記憶の底からわらわらと出てくるかもしれません。
つらかったね、こわかったね・・・と、傷口に、よく効く薬を流しこむように、
ただただ、愛を注いでください。愛だけが、この縄をほどくことができます。

そうやって、縄を完全にほどいたところに、
もっともっと大きな、本来のあなたがあらわれます。
少しでも、安らぎが感じられてきたら、それにゆだねてください。

実験、どうでした?

とりあえず、今の時点で押さえていて欲しいのは、
「今、ここの自分のありのままは、だめだ」と思うたびに、
立ち止まり、その嫌な感じを、ありのままに、感じる癖をつけること。

抵抗(「今、ここ」のありのままの状態では、だめだ)と
探索(「いつかどこか」に、理想状態がある。それを探そう、そちらに望みを託そう)の癖を少しずつでも、解除していくことです。

というのも、まさにこの癖のせいで、
みんなとつながった、大きな私へとつながる唯一の扉である
「今、ここ」が、蔑ろにされ、埃に埋もれてきたからです。

まさにこの癖こそが、揺るぎない、真の自己肯定感の源泉を、塞いできた張本人だからです。

それこそが、そして、それだけが、あなたが本当に望んでいる幸せと、自己肯定感のありかです。
ほかのどこにも、それはありません。
他のところに、今ここより自分を幸せにしてくれるものを探して、出かけないでください。

それは、たとえて言えば、身体を縄で縛られた人がいて、
「窮屈だな」と思いながらも、
自分の「今、ここ」の状態を見ることだけはしないので、自分が縄で縛られているのに気づけないのに似ています。
その人は、どこか解放感を味わえる場所に行けば、自由を感じられると信じて、
縄で身体は縛られたままの状態で、世界中を旅します。

海辺に出たり、グランドキャニオンのように、広大な場所に行ったりもするのですが、
「変だな、まだ窮屈だぞ」とつぶやいているんですね。
一瞬でも、自分で自分を見ることができれば、縄で縛られているのに気づいて、
解くことができますよね!

自分の「今、ここ」を、しっかり感じることは、それに似たところがあります。
自分が縄で縛られているのに気付けなければ、縄を解くこともできません。

自分は、どんな思いや信念で、自分を拘束しているか、具体的な内容まで、はっきり認識できると、癒しも着実にすすみます。これについては、私の別著『心をゆるめ 安らぎの源泉に身を浸す』に詳しいです。

いずれにしろ重要なのは、自分だけでやってるのではない感覚、
自分の中の、ジャッジメント抜きに、やさしく見つめることしかできない部分と合流しながら、
それに、身体の重みをあずけるように、ゆだね、全てをまかせていく感覚です。
習熟するほど、すぐにこの状態に入ることができるようになります。

あなたの中に、すでに、これが完璧にできる存在がいます。
その存在と合流するだけでいいんです。
あなたがやることではないんです。

今感じていらっしゃる不快感や悪感情を、癒すのもその存在の仕事、
あなたの管轄ではありません。
あなたの仕事は、できるだけ、その存在の様子を真似ることで、
それと同調し、合流するところまでです。
合流できたと思ったら、あとは、その存在におまかせしてください。

そんなふうにいうと、今度は、「何か特別な存在」とのコンタクトを思い描いて、
いろんな期待を持ってしまうおそれもありますが、
あらゆる先入観を持たず、オープンでいてください。

ただただ、今、ここで自分が体験していることを、
ありのまま、ジャッジせずに、感じ続けていてください。

その存在と合流したという兆候は、
やさしさです。

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