奇跡のコース

モラルの源泉に身を置くことの方が、型通りのモラルに従うよりずっと大切

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この「非常事態」に、「好機到来!」なんて言ってると、やっぱり、かなりの反感をかいますね。

「たくさんの人が死んだり、危険をおかしたりしている時、家で、悠長に暮らしながら、何を言ってるんだ!」 

「明らかに問題だらけの状況や、問題だらけの自分をどうしたら「最高!」なんて能天気なこと言えるの? モラルに反するんじゃないの?」

などなど、言われそうです。
でも、全てのモラルがそこから始まる、モラルの源泉にしっかりといることの、どこが、モラルに反するというのでしょう?
全てのモラルの源泉とは、しっとり系の自己愛の中で感じられる
状況との完全な一体感です。
この一体感の中から、
その時、その時の状況に本当に必要で、適切なことをするための洞察も得られるし、
その中で自分の力を一番生かせる方法も見えてきます。

この一体感の中にしっかり身を置くのは、自己中心的に生きることの正反対なのですね。
ただ、あまりに幸福になりすぎるので、特にこうした「非常事態」になると、
罪悪感を持ってしまうこともあるみたいです。

コロナの時期に入ってから、みんな苦しんでるのに、私だけなぜか幸福。自宅に閉じこもることも、全然苦にならないんですけど、いいのかしら? どこか根本的におかしいんじゃないかしら? と言ってる、しっとり系自己愛の人に、私は何人か会いました。

でも、誰もが今、いつにも増して求めている安らぎと幸福、落ち着き
一体感からくる地に足のついた状況洞察の余地も心にある。
そしていつもそれを周りと分かち合える状態にあることの、どこが悪いと言うのでしょう?

逆にこれがないのに(それはすぐわかります。動機に不安が隠れているときはそうです)
こうしちゃいられない、何かしなければと、駆り立てられたり
特別性の自己愛からくる自己犠牲的でヒロイックなセルフイメージ、
たとえば「人々のために尽くす人」を満たすために動き回っても、
見当違いのことをしてしまいそうです。

「このままじゃいけない!」「何かしなければ!」という、
不安から、先へ先へ駆り立てられるような焦燥感の中には、
「今、ここ」を愛し、そこに関わる全ての人や、全ての生きとし生けるものを愛し、
その全てと一つになれる、魔法の扉は、視界から失われてしまいます。

状況と一体であることから来る落ち着きや、
立ち止まって適切な判断ができる余裕はそこにはないからです。

「なんとかしなければ!」という衝動、私自身にもがあります。
でも、それを感じるたびに、まずその不安を見つめて癒すようにしています。
そしてまた、一体感が戻った時、自分の立ち位置から、本当にすべきこと、できることが見えてきて、
たとえば、今、この文章を書いています。

通きかない型通りのモラルが、反モラル的になる場合もある

例えば戦後の日本人は、未来に希望をたくしてがむしゃらに働いてきました。
「あれもない、これもない」と、どこをみても、不十分さかりが目につく状況で、
非常事態の今は我慢が肝心。そうすれば、いつか花が咲くのだから。
わがまま言っちゃいられないと頑張ってきました。

でも、平気で生き物の生息地を奪い、未来の子供達が健やかに暮らす環境を破壊したり
原発をつくってきたのも、同じ人たちです。

といっても、彼らは全然、悪い人たちではなく、そうやって、一生懸命職務に励むことで、エネルギー問題を解決し、世のため人のためになると信じていたかもしれません。
そうして、ただ、自分の職務に忠実に励む「企業戦士」たちだったのかもしれません。

ただそうやって、「いつか花が咲く」その日を目指して、先へ先へと道を急ぐあまり、
道端に既に花が咲いてることにも、気づかないし、
立ち止まって、その美しさや香りを味わい、一体感に心を奪われたりすることだけはいなかった。

つまり、今、ここのありのままを、受け入れ味わい、愛することはしないので、
関わる全ての人や、全ての生きとし生けるものとの直接つながれる、
通路、すべてのモラルの源泉からは遠ざかってしまっていたのですね。
だから、いつの間にか、花を踏みつけていても気づかなかったというわけです。

「今、ここ」の幸せを受け入れることから来る状況との完全な一体感が、すべての生きたモラルのはじまりです。
「思いやりが大切!」と頭だけで理解して、何百回唱えるより、
人と本当に直接心を通わせ共感する体験がを一瞬でも持つ方がずっといいです。

「思いやりが大切」「自然を大切にしよう」などなど、大義名分的なモラルをいくら掲げていても、
「今、ここ」にあるすべてのものとの一体感というこの扉が閉じていると、
気づいてみると、それとまったく矛盾することを自分がやってることに気づく可能性があります。

たとえば、家族を幸せにしようとして、働きながら、家族と一緒にいる時間がほとんどないとか、

モラルは、放っておくと、時代遅れになったもの、状況にそぐわなくなります。
でもあらゆるモラルの源泉である、状況との一体感にしっかり足をすえていれば、
それを実際に生きることができます。
また、その時、その時、一番適切で、必要なことをするための洞察が得られます。

時間も短縮する

ただ誤解して欲しくないのは、戦後高度経済成長期の企業戦士たちを私は悪い人たちだとはちっとも思っていないことです。彼らのおかげでその後の日本の繁栄もあったわけだし、私もそれにたくさん追っています。実際、彼らの働く動機の背後には、家族に対する、未来の世代に対する、愛があった。それに対しては、ただ手を合わせるばかりです。

ただ、その愛が、足りないところばかり目につく、不安に覆われていたせいで、自然環境や、次の世代の本当のためにはならない、モンスターのような産物も同時に生み出してしまった。それだけのことだと思います

私がここで提案したいのは、はじめからこの愛を、覆いをとって、そのものとして感じることができたら、どうなるだろうということです。

特別性の自己愛にかられたセルフイメージを実現するために、
英雄的な偉業をなしとげたり、大きな業績をあげたり、能力を高めたりすること
ことをやったりするのも、いいと思います!

ただ、そうしながら、その奥にある動機を探り、
「結局、こうすることで、自分は何を望んでいるんだろう?」と問い続けることもできますよね。

そうすると、幸福になりたい、愛したい、愛されたい・・・といったことが出てくるんじゃないでしょうか?

この願いを、もっと直接的に、即座に満たせる方法、究極の近道が、もしあるとすれば、
回り道をやめて、そちらを行きたいとは思わないでしょうか?

それがしっとり系の自己愛です!

それは、愛の「ため」に生きるのをやめて、
今、この瞬間、愛の「中」にとびこみ、愛の「中」に、生きることです。

幸福の「ため」に生きるのをやめて、今、この瞬間、幸福の「中」にとびこみ、幸福の「中」に、生きることです。

しっとり系の自己愛を感じるためには、
今、ここのありのままを抵抗なく受け入れることだけが求められているので、
特別な状況はいらない。
どこに行くことも、何をすることもいらない、
だから、狭い自宅から出る必要も全然ないことをお話ししました。
つまり、空間がいらない。

それだけでなく、時間もいらないのですね。
愛の「中」、幸福の「中」に、直接飛びこむことだけをやってると、
愛の「ため」、幸福の「ため」にこれまでやってきた全てのことが、不要になります。
これはものすごい時間の短縮になります。
一足飛びに、愛や幸福のただ中で生きることができます。

その後では何が残るの?まだやること、残ってるの?と言われるかもしれません。
たくさん残っています。溢れる愛や幸福を、表現し、分かち合いながら生きる、そんな生活です。

たとえばこのコロナの時期、それは、医療現場で働くと言うかたちで現れるかもしれません。
今この瞬間も、無数の、名もない、マリー・テレサのような人たちが、
愛そのものを表現してくださってると思います。それに対しては、もう手を合わせるしかありません🙏

そして、あなたに、今、この時期、何ができるか、
どういう形で一番効果的に働けるかは、
状況と一体になるしっとり系の自己愛の中にいると、自ずと見えてくると思います。

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