奇跡のコース

「自分は特別!」の自己愛を、「今、ここが一番!」の自己愛に変容させる

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あと何キロ痩せれたら
こんな人になれさえすれば、
これを持っていたら、
こんな風に生きることができれば、
自己肯定感を持てるのにって考えがちです。

でもこの本は逆に、
特別のものや状況が手に入ってはじめて、自己肯定感が持てるという心、
ありのままの自分では不十分だと思う心そのものを癒すためのものです。

そして、あなたが、今、どんな状況にあっても、
今の自分のありのままが一番好き!
と心からいえたときに、真の自己肯定感が得られるって考えます。

なぜでしょう?
今の自分が一番好き、今の状況が一番好き
と心から言える状況の中には、
今の自分のありのままが一番好き!なとき、
あなたは自分を愛しているだけでなく、周りの状況、周りの人、すべてのものをひっくるめて愛しているからです。
それを開ければ、あらゆるものと、ばーっと数珠つなぎにつながっていく魔法の扉が、そこにあります。

この扉を全開にして、全ての生きとし生けるものとの一体感の中で生きる・・・
全てが私と共にある・・・
そこから、揺るぎない、真の自己肯定感が得られるって思うのです。

この本には、そのためのヒントがたくさんちりばめてあります。
読みながらすぐできる簡単な実験も入れてあります。
書かれてあることを、うのみにしたり、頭で理解するだけでなく、
実践して、自分で確かめながら、進んでいただけるのが、一番うれしいです!
必要なのはあなたの心だけというシンプルなものばかりです。

何より重要なのは、二つの自己愛をはっきり区別することです。

一つ目は、他の人にはない、何か特別のものをもつことさえできれば、
自分を愛せる!って思うものです。

その特別なものは、持ち物、人間関係、あるいは外見かもしれません。
能力、スキル、性格の良さといった内面的な特性かもしれません。
いずれにしろ、それを持つことで、他の人と自分を区別して、キワ立てることができる。
つまり、特別な存在にすることができる。そうすれば、人から愛されるし、自分でも自分を愛することができると思うものです。

ダイエットや美容健康のための食事法や、スキルアップのための勉強などに余念がありません。
今、ここには、何か不足なところ、不十分なところ、改善の余地があると、常に感じる頑張り屋さんでもあります。

これを「特別性の自己愛」と呼びましょう。

もう一つの自己愛は、ただ、ここ、こうしてる、自分の今、ここが好き。ありのままが好き。だから、そこに関わるすべて、目の前にあるパソコン、カップ、コーヒーの味、外で聞こえる鳥の声、風の音・・・みんなみんな大好きだって、思うものです。そしてその全てが大好きな感じと、自分が好きな感じは、渾然一体に混ざり合っていて区別がつきません。

これをとりあえず、「しっとり系の自己愛」と呼びましょう。

特別性の自己愛を持つ人にとって、人から愛されることはとても重要で、自己愛を感じるための条件にすらなります。愛されていないと思うと、自己愛も萎縮してしまいがちです。

しっとり系の自己愛の人の場合、自分を愛することと、人を愛することは、不可分です。

特別性の自己愛の中にある時、愛は、矢印のように方向性を持っています。あの人は私を愛しているかしら? 私はあの人が好き・・・というふうに。

しっとり系の自己愛にとって、愛とは、みんなで一緒に入る、最高に安らげるお風呂のようなものです。心地よい点ではお風呂ですが、無限大に広がり得るので、海と呼ぶことにしましょう。
愛は、誰かから、誰かに向けられるものというより、
あらゆるものが共通して持ってる存在の実質を、
自覚しながら共有することです。

しっとり系の自己愛の人が、誰かを愛することがあるとすれば、その愛は、きっとこんな形をとるでしょう。
この愛の海の中にどっぷり浸ることで、私は自分を愛し、あの人を愛し、すべてのものを愛してる・・・
あの人は私を愛していないと言うかもしれない。それでも構わない。だって現に私は今、あの人と一緒に愛の海の中に浸っているんもの!

この愛の海を生き、祝福し、分かち合いながらいつも生きることで、培われる自己肯定感。
それがこの本のテーマです。

愛の海の源泉は、今、ここに

特別性の自己愛の強い人は、自分を特別にするために、いつも忙しくしています。
先を急いでばかりいるので、道端に生えてる花の美しさや香りを味わうことができないタイプ、
つまり「いつか、どこか」にいつも心が向かっているので、「今、ここ」に、安らぐことができないタイプです。

しっとり系の自己愛の中にいる私たちは、逆に、常に、道端に生えてる花の美しさとともに、あります。
道端の花だけでなく、周りの全てとつながりを、うっとりと感じながら、
今、ここにどっしりと根を下ろして、安らいでいます。

特別性の自己愛のために生きると、どうして、こう慌しくなってしまうのでしょうか?
特別性の自己愛のアプローチで前提になっているのは、

「今、ここ」の私も、私をとりまく状況は、嫌いだ。(抵抗)
「今、ここ」にないものを求めてる。それは、「いつか、どこか」で理想を実現するんだ。(探索)

そう思って、いろんなところに行って、いろんなことを試みて、もっと素敵な自分になって、
自己肯定感高めるんだ!と頑張るわけです。つまり、現状に対する不満が前提になっています

でも、そうすることで、みんなとの一体になる扉が閉じてしまいます。

というのも、この扉は、「今、ここ」を100%受け入れたときにのみ現れるものだからです。
「今、ここ」から、一歩も動かず、
「今、ここ」の自分や、自分をとりまく状況に対して感じてる
あらゆる「抵抗」と「探索」を完全に手放して、

今、ここが一番いいところ
今の私が一番好き
この状況すべてを愛してる、感謝してる・・・
と心から思えたときに、自分の周りにある全てのものとの一体感が感じられてくるからです。

この一体感の中に、最高の自己肯定感と、最高の幸せが、含まれてる
それが、この本のアプローチです。

その第一歩として、どこにもいかず、一歩も動かず、
ただ、「今、ここ」に気持ちよく、どっしり根座せるようになる必要があるのですね。

特別性の自己愛と、しっとり系の自己愛の違いを味わう実験

この二つの自己愛の違いをはっきりさせるために、両者をしっかり感じて、そのときの心や身体の状態を確かめてみましょう。

この本は、アイデアを理解するだけではなくて、それを体感したり、体験したりするのを目指します。だからこの手のちょっとした実験、たくさんちりばめてあります。

まずは、しっとり系の自己愛からいきましょうか? フーッと息をついて、リラックスして、
感じること一つ一つを、ただ、ありのままにじっくり感じ、味わっていきましょう。
鳥が鳴いてる、木が風に揺れてる。コーヒーカップが、柔らかな日差しを浴び、テーブルに影を落としてる。普段より、もののディーティールがよく見えて、もの言いたげに、意味深く目にとびこんできます。そこに「特別に」美しいものはなく、ごくごく普通の、平凡な日常光景なのだけど、まるで静物画でもみているような、独特な美しさをたたえてる。

その状態で、自分に注目してみます。周りに溶けこみ、くつろぎ、安らいでる感じがしませんか?うっとりしながら、「私はここに、こうやっているのが、好き。こうしてるのが最高・・・」って思ってないでしょうか?

しっとり系の自己愛がたっぷりあると、いつでも、どこでも、天国になります。幸福になるためには、どこにいく必要もなければ、何をする必要もない。

今、私はコロナウィルスによる外出自粛要請中のゴールデンウィークに、これを書いているのも、偶然ではありませんよね(笑)。もちろんこの状態、すぐに終わって欲しいし、病気の流行も収束して、普段の暮らし再開できればと思っています。でも、しっとり系の自己愛を育てるのに、どこにも行けない、でも時間はたっぷりあるこの状態は、まさに好機なんです。普段はいろんな活動に覆われ、見えなくなっている天国への門を、ピンポイントで探り当てることができます。

と言うわけで、今度は、もう一つの、「特別の自己愛」を感じる実験に移りましょう。

これにかけて、私は負けないわ。私はこれで生きていく。これが私の個性。私が人と違うのは・・・と思うことがあったら、しばらくそれについて考えてください。
自慢の恋人、友達、家族、自分を特に素敵に見せる服や持ち物についてでもいいです。

そんなの何にも、持ってないのだけど・・・と思う人は、
「これさえあれば、自分が大好きになれるのに!」と思うものについて考えます。
例えば、こんなところに住んで、こんな暮らしを、誰とできれば、いいのに・・・などなど。

そんなの何も、持ってないけれど、でも、自分が大好きで、最高に幸福・・・と思う人もいるかもしれません。その人たちに、この実験いりませんね。すでにしっとり系の自己愛の側に揺るぎなくいるからです。

でも、特別な自己愛について、まだちょっとでも感情移入できるところが残ってる人は、それについて考え、その部分を強調して、想像の中で、演じてみてください。

そして、その際の、身体や心の状態を観察してください。

絵本の中から、人物だけ輪郭にそって切り離して、紙人形にするように、
自分を周りの人や状況から切り離している感覚がそこにありますよね。

ちょうど同じように、本来、周りのすべてとつながっている心を、
身体の皮膚の輪郭に沿って切り離し、身体の中に閉じこめられたものだと、みなしてるんです。

特別な自己愛の対象は、身体の皮膚の境界に沿って、他から切り離された分離した私。身体としての私です。

実際、自分が狭くるしいところに閉じこめられたような拘束感も、かすかであれ、感じないでしょうか?

と同時に、小さい子が、一生懸命威張って、自分を実際より大きく見せようと虚勢をはっているような、力んだ感じ、ないでしょうか? あるいは、自分をより良く見せるために、誇張したり、嘘をついているようなやましさが、感じられないでしょうか?

なぜ、自分を実際より大きく見せる必要があるんでしょうか?

奥にあるありのままの自分は価値がない、
とてもおぞましくて、このままの姿は見せられない、
だからいろんなものや能力や地位や業績で飾り立てる必要がある・・・
無力感が、そこに隠れているからではないでしょうか?

身体として、皮膚の境界に閉じこめられ、周りから切り離された私には、
実際、脆弱な感じがつきまといます。

特別な自己愛には、コインの裏側のように、この無力感が必ず隠れています。
それは、自分や周りの状況に投影されて、「まだまだここが足らない」「もっと努力しなきゃ」「まずはここを直さなきゃ」という形で現れることもありますし、

落ち目の時のデプレッションとして現れることもあります。特別の自己愛が強い人は、落ち目の時に、自分を責め方もすさまじかったりします。

この実験をやると、いつも、「これがあるから自分は特別に素晴らしい」というんじゃなくて、
「これがあるから自分は特別にダメだ」というのなら、
いくらでも思い浮かぶのだけどという人がいます。

「私は本当に自分が嫌い、なぜなら・・・」というやつです。
私にはあれも、これもできない・・・あるいは、できなかった。忘れっぽくて、不注意で、人に迷惑かけたり、不快な思いにさせてしまう。だから人間関係すぐおかしくなるし、誰も愛してくれない・・・などなど

自分にもそう感じられることある・・・って感情移入してしまうフシがあったら、実験的に、集中的に、感じてみましょうか。

さっきと全く同じように、
自分を周囲から切り離し、皮膚の境界に閉じ込められたことからくる、拘束感が
やはり心身に感じられませんか?

ようするに、特別な自己嫌悪も、特別の自己愛のコインの裏側に過ぎないのですね。特別の自己愛が普段強い人には、落ち目の時に顕在化しますが、いつも心の奥に隠れてます。

特別な自己嫌悪の方が表に出てる人も、人や自分を批判する時の高慢さの形で、特別な自己愛、隠れています。

というのも、自己嫌悪の背景には、「高い期待」「高い基準値」が必ずありますからね。だからこそ、自分がダメに見えるわけですが。逆に言えば、他の人も「高い期待」「高い基準値」で測ってる。だから他の人にもとても厳しかったりします。自己嫌悪が強い人は、人を批判するのも好きです。

長くなってしまいましたが、特別の自己愛(あるいは自己嫌悪)の合言葉を一言で言うと、
「今、ここにあるものは嫌いだ
私は今、ここにないものを求めてる」

つまり、今、コロナ自粛で禁じられていることの全てです!

と言うわけで、せっかくの好機を生かし、特別の自己愛をしっとり系の自己愛で包みこみ、
変容させるための提案、させていただければと思います。

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