奇跡のコース

すべての恋人を足し合わせたもの  『奇跡のコース』でいう「特別性」を超えて

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あなたはこれまで何度恋をしたことがあるだろう? 私は数え切れないくらい! 実人生の中では数えるほど。でも、夢中になって読んだ本や観た映画の中に出て来た魅惑的な登場人物。ああ、こんな人になりたいと思った憧れの人。一方的な憧れの人、アイドル。あなたと一緒にいれば、私は不思議な、想像もつかないような驚くべき場所に連れていってもらえる。あなたの眼差し、微笑みが、そう語ってると、確信して疑わなかった人たち・・・そんな人たちまで加えると、それこそ星の数ほどいるかもしれない。

それらの人たちをみんな足し算して合わせた人に、出会ったとしたらどうだろう? 

私は先日出会ってびっくりした。といっても心の中でだけど。その愛しい愛しい人は、私が想像できるすべての欲望、憧れ、美しさ、陶酔そのもの。出会った瞬間、これまで抱いたすべての望みが、記憶の彼方からすべて呼び起こされたのだけど、次の瞬間には、ひしっと抱きしめられて、そのすべてが、とうとう完全に、満たされ、しずめられていった。

目を開いて、我にもどった後も、この幸福感の余韻がずっと尾を引いて、すべてが、やさしい、やわらかい光に照らされて見える。それに、目をつぶってハートをのぞきこめば、そこにいつも、この人がいること、私さえ望めば、いつでもどこでも会えるってこともわかった。神秘主義の伝統の中で、心の中のキリストの花嫁になるって言葉が、何を意味しているか、この時わかった。50も過ぎてから、こんなふうに、全身全霊で、また恋ができるなんて、しあわせ。しかもこの恋は、多分、これからもずっと、一生続く。会いたい時はいつでも会える。

それと名指せるような何か「特別」なもの、外的な形あるものに、自分の幸せ、救済がかかってると思うことは、『奇跡のコース』の言葉を使えば、特別性への耽溺。それはやめなさいといましめてる。ということは、アイドルの追っかけをやることも、儚い恋に身をやつすこともご法度? 夢見ることはいけないことなの?  と思ってしまい、修道院生活のような息苦しさを感じたこともあった。

でも、たぶんそこで目指されているのは逆に、夢見る力を散り散りにばらまき浪費するのをやめて、力強く一つの巨大な夢に集め、まとめあげること。するとその中から、本当に愛しい人、本当に求めていたものが、現れ出る。その人と出会った後は、実際、特別なものは何にもいらない!と思えるようになる。かといって禁欲の世界があるかというと、逆に耽溺そのものがある。愛しい愛しい人、愛そのものである人がいつもそばにいるわけだから。その幸福感が大きいので、何もいらなくなるというだけ。

「いらない」と言うのも、ちょっと違うかも。逆に、その時々に出会う人、「すべて」のものが「特別」な秘密、深い意味を打ち明けているように見えてくるから。愛しい人と結ばれると、普通、そのほかの人やものには、関心がなくなる。でも、この人と一緒にいると、すべてのものに関心が向き、面白くて仕方がなくなってしまう。何か「特別なもの」に執着することがなくなるだけのこと。その代わりに生まれるのは、「すべて」を気遣い、祝福したいという気持ち。

これまで「特別」だって思っていた人やものとの関係も消えるわけじゃない。それらともっと一つになれる満足感が待っているといえるかも。

たとえば私は、とあるピアニストが好きで好きでたまらなかった。彼が奏でるほんの一フレーズが、私をパラダイスに誘ってくれるのだ。北海道の田舎に住みながら、ロンドン在住の彼に想いを寄せ、この気持ちをどうしようって悩んだことも。来日と聞いたら飛行機に乗ってコンサートに出かけ、追っかけもやりかねない。実際にはやらなかったけれど。でも、もしそこで会えたとして、ラッキーにもおしゃべりできたり、一緒に時間を過ごすことができたとしても、それで何が起こるというんだろう? せいぜい交わせるのは、賛辞とスモール・トーク。自分が何千人もの聴衆の一人に過ぎないことを確認するばかり。家で彼の音楽を聞いていた時には本当に一体感を感じていたのに。これは、どう考えてもレベルを間違えてるってことに気づいたはず。私が魅惑され、心をさらわれていたのは、彼の感覚的な存在にではないんだって。奇跡のコースで、特別の関係が戒められていたのは、一体化できるレベルとできないレベルを混同するこの種の間違いで、私たちが苦しまずにするためだったんだ。

心の中の「あの方」に話を戻すと、彼の中に、私が憧れてやまなかったこのピアニストも含まれてる。特に彼の音楽性が。あの方に抱きとめられていると、彼の方を介して、実際、彼のスピリットともつながっているって感じる。彼の演奏を家で聴くときの聴き方も、だんだん変わり、深まってきた気がする。本当にそこに彼がいるような気さえすることがある。私が求めていた彼との正しい出会い方は、ここにあったんだってつくづく思う。少なくとも追っかけよりも、ずっといい。

このピアニストの話は、ほんの一例に過ぎない。「あの方」を通じて、愛する全ての人、これまで憧れた全ての人(とっくに亡くなった歴史上の人物も含めて)とつながれる感覚は、なんとも言えないもの。そのためには、できることは、何でもしたいと思うほど。奇跡のコースの中で「サンシップ」と呼ばれているもの(純粋なスピリット、神の子としての私たちすべては一体で、単数形であること)についても、だんだん実感でわかってきた。

そんなのそう思い込んでるだけ、気のせいかもしれないよといわれるかもしれない。それでもいい。だってこのつながりの感覚のおかげで、遠い世界のいろんなことが「我がこと」になり、世界がどんどんひろがっていくから。学生時代、世界各国の文学を読み漁り、絵画や音楽に親しんだけど、こんなに内部視点から親しめたことはなかったものね。その喜びを味わうだけでも、楽しい「妄想」になるって思ってる。

少なくともここには「追っかけ」のような、人がバラバラにしか存在できないレベルと、一体化できるレベルとの混同はない。一体化できる世界が広がっているだけだ。

でも、特別性を追いかけるのを怖れるあまり、誰かに、何かに憧れ、夢見ることを禁じたりはしないで欲しいって思う。そのときあなたは一体化の力に触れているのだから。重要なのは、その対象にすがりつくところで辞めてしまわないこと。対象を通して、その先に広がる世界を感じることができればいいのだから。そうすることで、逆にその人とも、一つになれる。

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