奇跡のコース

何のために祈ってたかも忘れてしまう幸せ コースの祈り

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「何のために祈っていたのか忘れてしまう」というゴール

普通、祈りというと、恋人ができますようにとか、豊かになりますようにとか、健康になりますように、あるいは世界が平和になりますように・・・などものや状態が、特定の形にもたらされるように、なされるものです。
それが悪いことだとは決して言えないし、それにも、役割があると思うのですが、コースでいう祈りは、全然違うものです。
では、コースでいう祈りは何を目指すのでしょう?
まずは、たとえ話をさせてください。
それ自体、形をもたず、何者でもなく、とらえどころがないけれど、
そこから、あらゆる形あるものが現れる素材があるとします。
この素材のなかには、世界中のあらゆるもの、あらゆる人の、
一番素晴らしいところ、愛や生命、ゆたかさ、真理、美しさなど、そのエッセンスが
永遠に含まれています。
ひとたび、それを手に入れ、それと一つになると、
ものすご〜く幸福になるので、
自分の悩みも、気がかりも、必要も、全て忘れてしまい、
ただ、ただ、安心してしまいます。
後に残るのは、「私はすでに、全てを溢れるほど、持っていたんだ!」
「この全てを、ありがとう。そのことに気づかせてくれて、ありがとう!」
「やっと、その全てを受け取ることができるようになりました」
といった感謝の念ばかり。
もしそういうものがあるとすれば、それこそ、欲しいと思いませんか?
それとも、まだ、自分の限られた視点、知性から見て、
「私には、是非とも、これが必要」「世界には、これこそ必要」と思われるものを、求めたいですか?
「祈りが何も求めないということをあなたが悟るまで、祈りはうまくいかない」(S1.1.1)
「真の祈りの秘訣は、あなたが自分に必要だと思っているものを忘れることにある」(S1.1.4)

でも、なぜ、特定の、形あるものを何も求めてはならないのでしょう?
ちょっと実験してみましょう。
何でもいいので、今、あなたが、どうしても、これが必要、これだけは欠かせないと思っているものを、しばらく思い浮かべてみてください。愛する人の無事、健康、お金、安全・・・何でも構いません。
次に自分の感情や、身体の状態を、感じてみてください。そこにかすかであれ、「もし、うまくいかなかったらどうしよう」「こんなことになったらどうしよう」といったおそれがあるの、感じられますか? それに反応するように、身体がきゅっと緊張しているの、感じられませんか?
逆に、この緊張をとことん緩めてリラックスするのが、コースの祈りです。
心を静めたときに内側から自然に湧いてくる「心配しなくても、大丈夫」という確信に身をまかせれさえすれば、それもできるようになります。
「これが必要」とか「こんなことになったらどうしよう?」といった、形あるものに対する執着や反発は、コースでは「特別の関係」と呼ばれていますが、喪失などへのおそれにびっしりと、縁取られています。私は誰かがとても愛おしいと思った瞬間、その人を失うるシーンが心に浮かぶ癖に、しばらく悩まされていたことがありますが、それなんか典型ですね(笑)。

そんなときには、決まって、「今、この瞬間」に、既に与えられている幸せや愛に対して不感症になり、受け取れなくなってますね(笑)。その代わり、「あれが足りない、これが足りない・・・」、「こんなことになったらどうしよう、あんなことになったらどうしよう・・・」とないもの探しや、未来の心配ばかりしています。

逆に、今、この瞬間の幸せや愛を、あますところなく受け取れて、
平凡に見える日常(たとえば、今日もみんな無事で、家もちゃんと立ってて、雨露もしのげる・・・)が、本当はどれだけすばらしいか、それこそ奇跡のようなものかが見えてくると、
感謝の念あるばかり。求めるものは、だんだんなくなっていきます。

そんなふうに、
喪失や欠如、ないもの探しの悪夢にうなされる状態から、
あるものに感謝する満たされた意識状態へと
何か特別のものを求めることから、
存在への感謝、賛美、祝福へと
心の状態を移してくれるのが、コースの祈りであると、とりあえず言ってもいいと思います。
禅語に、

「冬に花が咲くのが奇跡ではない、春に花が咲くのが奇跡である」

と言うことばがありますが、それにも通ずるところがあると思います。

欲しいものをもたらしてくれるというより、
欲しいと思う心の中に含まれる、病そのものを癒してくれる祈りなのです。

「偶像を求めて祈りながら、神に到達することを望んでも、不可能な相談である。真の祈りは、願いをかなえてもらおうとして求めるという落とし穴を回避しなければならない。その代わり、むしいろ、すでに与えられているものを受け取ることができるように、つまり、すでにそこにあるものを受け入れられるようにと、求めなさい」(S1.1.1)

喪失の不安、未来の心配や、あれが足らない、これが足らないという思いが、心をいっぱいに満たしていて、「今、この瞬間」にすでに与えられてるものが受け取れなくなっている時には、
まずは、全てを手放すこと、「私」を手放して空っぽになることが求められます。

「祈りとは、傍に退くことであり、手放すこと、耳を澄まし、愛するための静かな時間のことである。
それはいかなる種類の懇願とも混同されてはならない。
と言うのも、祈りとは、あなた自身の聖性を思い出すための道だからである。
愛が差し出すあらゆるものを、あますことなく受け取る資格を持つ聖性が、どうして、何かを祈願する必要など、あるというのだろう?
祈りの中であなたが向かうのは、愛である。祈りとは、愛と一つになるために、あなた自身を明け渡す、捧げものである。
欲するべきものは、もう何も残っていないので、求めるべきものも何もない。
その空っぽの状態こそが、神が入ってくる祭壇となる。そしてこの祭壇さえも、神の中では消え去っていく」(S1.1.5)

私が私を求めるだけ

でも、そう言うと、祈りとは、足りないモノばかりを見てしまう普段の意識状態を超えた、何か特別の意識状態を求めるものなんだって思ってしまうおそれがあります、すると、それも、一種の「祈願」になるおそれがあります!

とても微妙ですが、特別の関係の一種であることには変わりありません。
というのも、「特別な意識状態」が求められていると思うと、「私なんか、とてもできない」と思ったり、「うまくできるようになるために、何年も特別な修行をしなきゃダメなんだわ」と思ったり、「今の私のような、雑念だらけ、欲だらけ、欠如感だらけの状態で、うまくいきっこない」とあきらめたり、あるいは、そんな自分を責めたり・・・大変な回り道が始まってしまうからです。
でも、大丈夫。一言で、そこから抜けることができるからです。
自分自身を求めることの、どこが難しいの?
ってことです(笑)。コースの言葉を借りると、

「真の祈りとは、キリストへ向かう祈りであるが、キリストは誰の中にでもいる。(・・・)キリストがただキリスト自身であるようにと求めることが祈願だろうか。真の祈りとは、むしろ、あなたの本性に感謝を捧げる歌である。そこに祈りの力が宿っている。それは何も求めず、全てを受け取る」(S.1.1.6)

特別な意識状態を求めようとする罠から、私自身、抜けるのにとても役立ったものに、青空の比喩があります。毎日、毎日曇っていて、たまに青空がちらっと雲間に見えると、青空は、雲という素地の上に、時々ちょっと姿を表す何か特別な、希少なもののように思えてきます。それで「青空や〜い」と青空探しが始まります。それが、至福状態、満ち足りた状態といった、特別な意識を求める状態です。

でも、青空の方が素地で、それは探さなくても、本当はどこにでもある。雲の方が、一時的に、たまたまそこにあるに過ぎないのですね。雲(投影)が、どんなに重くかかっていても、それを貫いて、背後に常にある青空に触れることだけが、求められているんですね。それが、祈りであり、ゆるしというわけです。

具体的にどうすればいいかというと、
1. まずは心の現状〜ほとんどの場合曇り空かもしれません〜を受け入れて、しっかり感じます。気がかりでいっぱいの心、怒りや犠牲者意識や悲しみに覆われた心を、ジャッジ抜きに、できるだけ、思考でレッテル貼りせず、ありのまま、いたわりながら感じてください。
このプロセスをすっ飛ばしてしまうと、「曇ってる、いやだな〜」といった抵抗や、「晴れ晴れした、幸せな心であるべきなのに」といったジャッジメントが入ります。これ全て、青空探し、特別な心の状態を求める動きのはじまりです。

「青空」は抵抗やジャッジや否定ではなく、逆に受け入れ、肯定する心の中にあります。

2、休みます。
曇り空の心を、ありのまま感じているうちに、心がずいぶん緊張して、こわばっているのが、感じられてきませんか? それを解きほぐし、ゆるめ、休ませていきます。
この作業をはじめると、私の心の中の、すでに十分安らいでる部分、安心しか知らない部分、
すべてが大丈夫だって知ってる部分が加勢し始めるのを感じるかもしれません。
スピリットの働きです。それを感じたら、それにまかせてしまいましょう。
自分で「リラックス」しようと「頑張る」より、ずっといいです。

緊張を緩めるイメージが有効なのは、
「雲」、エゴの投影が、何か固定した物、実体ではなく、心の活動、しかもかなり無理した活動の癖にすぎないことがはっきりするからです。

「雲」が実体だと思うと、どうしても、それを「晴らさなければ」と思ってしまいます。
でもそうした「雲」退治の態度には、ジャッジメントや抵抗が多分に含まれていて、それ自体、エゴを活発化させ、新たな雲がもくもくと出てきます。ミイラ取りがミイラになってしまうのです。
「雲」を実体ではなく、活動の癖だと考えると、この作業は、
長いこと、狭いところに閉じこめられたり、変な格好をするように強いられてきた自分の身体を、
解放してあげるようなイメージになります。

そう考えると、ジャッジするよりも、いたわり、愛をそそぎたくなりますね。

この態度の方が、スピリットと合流しやすいです。
手を長い間ギュッとにぎりしめていると、手のひらを開いて自然な状態に緩めるのが、痛く感じられます。
それと同じように、あまりに長いこと、緊張しつづけてたせいで、緩めるのが痛く感じられたりするかもしれません。
また、新しく未知のものに感じられるこの状態が怖くて、監禁状態に戻りたくなることもあるかもしれません。
でもこれは、本当はあなたの自然な状態なのですね。癖をほぐしていく一時的な痛みや、この不安に耐えて、緩めつづけると、次第に、これは未知の新しいものではないこと、自分の本来の状態だったことがわかってきます。そこが「青空」です。

コースの祈りは、
緊張して、ことさらに「する」ような特別なことではなく、
逆にとことん「休む」ことだと考えると、近づきやすくなります。

今、お話ししたように、緊張した身体をゆるめるだけでなく、
心も、頭もゆるめます。

たとえば、この世界の中で、みなさん、担ってらっしゃる役割がありますね。
父、母、長男、長女、といった家の中の役割、
職業的な役割、スピリチュアルなリーダーとしての役割も含みます
あるいは、日本人だ、アジア人だ、女性だ、男性だ、何歳だ・・・といったアイデンティティもあります。
そこから、それに伴う責任の重荷、あれも、これもしなければ、あれも、これもできてない、私はダメな〜だ・・・といった心の中の自問自答、焦りや、自分を責める気持ちがなどが生まれます。
あるいは所属感からくるプライドやコンプレックスも出てくるかもしれません。
これまで苦労して作ってきたセルフイメージがあるかもしれません。ポリシーや嗜好、趣味、個性

コースの言葉を使うと「自己概念」ですが、
祈りの中では、その全部、うっちゃってしまうのです。
人生の舞台衣装を脱ぎ捨て、それに伴う台詞も忘れていく感じです。

このプロセスも、意識的に努力するというより、体験の流れに任せるとうまくいきます。

祈りをする時は、普通、目を瞑りますが、その意味もそこにあります。

たとえば、今、目をつぶって、全てを忘れ、ただ直接体験されることだけを感じ、
生まれたばかりの赤ちゃんのように、過去の記憶も忘れ、まっさらになってみましょう。

そこにいるのは、「母」や、「日本人」や「女性」でしょうか?
そうしたものが組み合わされ、しがらみにとらわれ、特定のバイオグラフィーを背負った、
一人物でしょうか?

直接体験される本当の私は、何にもとらわれていない。
心底、それを実感すると、自由と、解放感がみなぎってきます。
さわやかで嬉々とした、子供のように無邪気な気持ちも感じられるかもしれません。

少しでもそれを感じだしたら、その感じに身を任せてしまいましょう。

最後に、知識からの解放、「自分が知っていると信じていること」からの解放があります。
というのも、「私が知ってると信じてること」は、
先ほどの自己概念、セルフイメージによって、取捨選別され、何が大切か、価値の序列がづけられ、
意味づけられています。そうやって、あなたの世界ができてますよね。
本当の私がもし、そうしたアイデンティティの集積でないとすれば、

その自明性も、ゆらいでいきます。
これまで私は、自分が誰で、何をすべきで、何が大切で、何が必要か、わかってると思ってた。
でも今やその自明性が失われてきます。

でもそれこそ、本当の自分の壮麗さを目の当たりにするために、
みすぼらしく、着心地悪く、拘束的な服を、一枚一枚脱いでいき
世界を薄暗く見せていたサングラスを外したりすることなのです。

すると、なんとも言えない、安らぎがみなぎってきませんか?
少しでもそれを感じたら、こんなふうに、言ってみましょう。
「私は何も知らない。自分が何なのかも、ここで何が起こっているのかも、知らない」。
そう思うたびに、「でも、ここにいる、この存在が全てを知ってるから大丈夫。自分は知る必要はないんだ」という安堵感が強まってきます。

まったくわからないもの、つかめないもの、未知のもの、
でも、何となく、なつかしくて、そこにこそ、わが家があるような気がするものを、完全に信頼して、
それに自分の全て、知ってること、感じていること、ありとあらゆることを明け渡し、
その中に飛びこみ、溶けこむことができるでしょうか?
もしそれができて、それほど気持ちいいことはない、心安らぐことはないと思えるなら、
あなたはすでに神を知っています。

コースの祈りは、そうやって、心にまとわりつく、全ての形を超えて、形なきものに至る運動です。
心の隅々から、塵ひとつ消えていくような、すっきりとしたこの清々しさが、たまりません。

それが少しでも感じられるようになると、今度は「私は何も知らない、今何が起こってるのかも、自分が誰なのかも、何が何だか、さっぱりわからない・・・」と、ことあるごとに自分に言い聞かせてみてください。こう思えば思うほど、何とも言えないよろこびや、安らぎ、静けさが心に広がるのを次第に感じるようになります。これが、心を空っぽにして明け渡した結果、いただける贈り物です。

そうやって日々、生きていくのが、祈りの中での生活です。この安らぎの中に、神的知性からのインスピレーションが満ちるようになります。

この感じに慣れてくると、「私は自分に何が必要なのか、ちゃんと分かってるの!」とエゴが叫んでる時に、どれほど自分が緊張していて、おそれていて、心が汗をかいているか、肌身で感じられるようになります。エゴちゃん、本当に可愛らしいです(笑)。

先ほどから、「何かを祈願することは祈りではない」ことが、コースのテキストの中で強調されている話をしました。
何かを祈願する祈りを、この比喩にあてはめると、雲を操作することにあたります。「こんなかたちの雲より、あんな形の雲の方がいいな・・・」というふうに。こ
れは、的外れなだけじゃなく、たとえ、望みが実現したとしても、あてになりません。雲の形は、絶えず、変化しますから。でも、青空は、常に、不変、不動です。

投影の雲に覆われる以前の私たちの本性、この不動の「青空」こそ、
先ほどもお話しした、どんな特定の形も取る以前の、全ての素材、
コースの言葉を使えば「神」です。
真の祈りの中で求められるのは、それだけ。それと一つになることだけです。

え〜っそれだけ? ってガッカリするかもしれません。
でも、経験してみるとわかるのですが、その安心感、満ち足りた感じ、一体感は、何物にも代えがたいです。
問題は、解決されるというより、目に入らなくなります。
どこをみても、足りないところ、気がかりなところ、不十分なところばかりが目に入ってしまう
病んだ心そのものが癒されるからです。問題が見えることそのものが、実は問題だったのです。
「あれもこれも、問題」に見えたのが、今や大丈夫。なだけでなく、ユーモラスで、愛おしいものとして目に映るようになります。「私、何でこんなこと気にしてたんだろう?」といぶかしくさえ思うかもしれません。実はそうやって、別の次元に抜けることが、本当の解決なのですね。

祈りの歌のこだま 「良きこと」しか起こらない

でも、これも経験して見るとわかるのですが、
コースの祈りも、
何か特別のものを祈願する祈りより、高い確率で、
実際、良きものをもたらしてくれます。
たとえば、気まずい関係にあると思っていた人が、
向こうから和解を求めてきたり、
今、何をすればいいかについてのインスピレーションがひらめいたりします。
どんなに悩んでも、考えても、どうどうめぐりのときに、
夜、ぐっすり眠ると、突然、いいアイデアが浮かぶのに似ています。
何について祈っていたかも忘れてしまうコースの祈りはこの眠りに似ています。
でも、それは祈りの単なる「副産物」であり、「歌」の「こだま」に過ぎないとも、コースでは語られています。
始めから、「この人に謝って欲しいです」とか、「インスピレーションください」と
特定のものを祈願して祈っても、うまくいかないのですね。
祈りの目的はあくまで、全ての源泉と一つになることです。
実際、ピンチの状態にあって、必要なことが明らかにあっても、
そういった必要をとことん忘れて、「何のために祈っていたのか」もわからなくなるまで、
祈りの中で、とことん、安心することです。
それが、一番、祈りをパワフルにします。

あるいは、こう言ってもいいかもしれません。
この満ち足りた安心感、
おそれではなく、愛の視点で、すべてを見れるようになる
この知覚の変化こそが、祈りに対する答えなのだと。

そこからこそ、必要なすべてがもたらされるのですから。

この辺の微妙なところを、図示してくれる喩えを使ってみましょう。
ディジーのような花を思い浮かべてください。
真ん中の花芯から、無数の花びらが、一片一片伸びて、全体として美しい花の形が絶えず生まれ続けています。
ただ、普通の花と違うのは、花びらが傷んだり、折れたり、花の形が歪むたびに、それを補う花びらが、花芯から絶えず生えてきて、美しい完璧な形でずっと咲き続けることです。
あなたは、その中の一つの花びらにすぎず、花全体がどんな姿なのかは、あなたの視点からは、見えません。
けれど、祈ることで、全ての源泉である花芯と一つになることができます。
あるとき、この花がくしゃくしゃにされたとします。誰かが踏んだのかもしれません。
花びらであるあなたには、花全体の姿は、見えませんが、そこに不調和があるのはわかる。
だから、限られた視野で、あそこを修復しなきゃ、ここを修復しなきゃと思って、
あくせく動こうとします。でも、そもそも全体像は見えません。つまり全体を見晴らす包括的な知性は、花びらの側にはありません。そこにはまた、花芯の創造性も、生命力もないので、うまくいかず、見当違いのことばかりしています。これが何か特定の結果をもたらそうとする「祈願」にあたります。
コースの祈りは、そういった結果の操作をすべて放棄して、ただ、花芯と一つになろうとするものです。
結果としての自分、つまり花びらの立場を手放し、創造性、生命の源泉である花芯に遡っていくのですね。
そのプロセスで、「私は何が必要だか自分で知っている」といった傲慢さもすべて削ぎ落とされ、「空っぽの状態」になっていきます。
そしてついに花芯と一つになったとき、この花芯から、必要な箇所に、必要な花弁が伸びてくる。そして、花はまた、創造されたばかりの完璧な調和した姿になります。でもそれは、花芯(原因)に宿っている全体的、神的な知性と、創造性、生命のなせるわざ。花びら(結果)の立場からは、想像もつかないプロセスをとります。でも、これでいいんだということ。今や、全体が調和して、全てが大丈夫になったことは、心に広がる平安、安心感でわかります。
コースの祈りは、ただただ、この花芯、全ての原因にのみ向かうもので、花びら、その時々の結果には無関心です。でも、それが、いつも、想像を超えた、いい結果を生み出します。
ただ、その結果が、どういう形になるかは、起こるまで、わからないのです。
私たちの方で、知っているのは、
この祈りからは「良きこと」しか生まれないということだけ。
その「良きこと」が、いったい、どんなタイミング、どんな形で現れることになるか、
予想できません。
けれど、そこから私自身にとって、全ての人にとって、そして全宇宙にとって、最善の結果がもたらされることだけはわかってる。つまり、花が完璧な調和した形に戻ることはわかってる。
そのことだけを信頼して、完全に丸投げして、おまかせしてしまうのです。
私たちの方でしなきゃいけないことはといえば、全ての素材、原因、神、私たちの本性、「青空」「花芯」・・・と一つになって、頭空っぽの状態になり、とことん安心することだけ。それだけで、必要なプロセスが、動き始めます。それをコースでは奇跡と呼びます。

なぜそうすべきなのか、ちょっと考えてみると、「それももっともだ」ってわかります。
エゴとしての私たちの視野は、とても狭く、限られています。
自分や自分の愛する人たちの、利益や、利害、サバイバルばかりに没頭しがちだし、
過去の経験、記憶からくる無数の思いこみに縛られています。
そんな視点から、
これまで「私には、これが必要」「世界には、これこそ必要」と思いこんで、さまざまなものを求め、「祈願」してきたけれど、
それらは、実は、全く見当はずれなものばかりだったかもしれません。
もっと大きな、包括的な視点、長期的展望から見ると、
自分のためにも、世界のためにもならないものを求めてきたかもしれません。
自分は何が必要なのか、本当は何が欲しいのか、
「私には全然、わかっていませんでした」と降参して、
今、自分の心にあるものを、一切合切、全てあけわたしてしまうのです。
それが、先ほどの、「空っぽの状態」の意味することなのですね。

ここまでいくと、コースの次の言葉の意味するところ、よくわかると思います。

「あなたはどんな具体的な問題に対する答えでも聖霊にたずねるようにと教えられ、
必要があれば、具体的な指示も受け取るだろうと教えられてきた。
にもかかわらず、たった一つの問題、たった一つの答えがあるばかりだとも教えられてきた。
この一見した矛盾も、祈りの中では解消される。

この世界の中には、実際、決定しなければならないことがあり、たとえそれが幻想であっても、決定される必要がある。あなたが認識できるレベルの必要を超えた答えを受け入れるように、あなたに求めることはできないからだ。
ということは、質問の形や、たずね方は、問題にはならないのである。
もしそれが、神により与えられたものであれば、あなたが見ているあなたの必要と合致するものになるだろう。
でもこれは、神の声からの本当の返答の、単なるこだまに過ぎない。
真の音の源には、常に感謝と愛の歌ばかりがある。
それならば、あなたはこだまを求めることはできない。贈り物は歌そのものだからである。歌と一緒に倍音や反響が生じるが、これらは副産物にすぎない。
真の祈りにおいて、あなたは歌だけを聞く。他の全ては単に、歌に添えて与えられるものにすぎない。
あなたはまずはじめに神の国を求めたのであり、だからこそ、他の全てもあなたに確かに与えられるのである」(S1.1.2-3)

コースでは、神的知性からのインスピレーション、ガイダンスに従って生きるようすすめられています。そんなわけで、「私にはまだガイダンスは、受け取れません」とか、「ガイダンスを正しく受け取れたかどうか心配です」という声をききます。でも、ガイダンス自体、「こだま」にすぎないと考えると気楽です。こだまに過ぎないものを過大評価して、自分を責める道具に仕立てないでください。
重要なのはむしろ、そうした試行錯誤を重ねるうちに、だんだん、安心感や信頼や感謝の念が心に満ちてくること、つまり「歌」そのものを感じることなのですね。だから、どんな形のガイダンスが得られたかとか、その結果何が起こったか(=「こだま」)よりも、心に広がる安らぎの増大に注意を集中して、それだけ感じていれば、いいのだと思います。
そうやって、祈りに浸されて生活していると、形のレベルで何が起こるかには、だんだん無関心になり、むしろ、だんだん深まっていく心の平安、幸せの方に、心が自然に集中するようになっていきます。

そうして、真の祈り、つまり、結果の操作ではなく、原因と一体化する祈り、神と一つになる安心感だけに浸された祈り・・・に浸され生きていると、
一見、ネガティブに見えることも含め、何が起こっても、
「これがあなたの意思なのですね、その意味の全貌は、私にはまだつかめませんが、全てのために最善のことが起こってると信頼しています。ありがとう」
と手を合わせ感謝できるようになります。禅で言う「日々是好日」の世界です。
形のない原因の世界に浸りきっているからこそ、どんな結果も、大喜びで受け取れるんですね。
こちらの方では、結果について、あらかじめどんな期待も持ってない。
この抵抗のゼロ値の中では、
原因レベル、神のうちにある無限の、限定を知らない愛が、そのまま、まるごと(コースの言葉を使えば「延長」として)受け取られます。
そんなふうに、形ないものの中にしっかりいながら、
その内容に関わらず、どんな形も最高の感謝と愛の中で受け取るとき、
私たちは花芯から花びらが伸びていく運動、つまり創造に参加することができます。

持ち上げられて、みんなと一つになるための乗り物

もう一つ、コースの祈りで忘れてはならないことは、人をゆるし、スピリットの中、花芯の中で一つになることです。世界中のスピリチュアルな伝統の中には、家族や友人を捨てて、僧院や洞窟にこもったりするものもありますが、コースでは逆に人間関係が道場だからです。
かいつまんで話せば、私たちはスピリットかエゴのどちらの視点で生きるかを、毎瞬選んでいるわけですが、これは、目の前の人、心に思い浮かぶ人を、どちらとして見るかというのと、鏡合わせになっているのですね。自分はスピリット、だけどこの人はエゴ・・・なんてことはあり得ない。そんなときは、自分もエゴです(笑)。誰であれ、全ての人がスピリットの愛と光の中で輝いて見えてはじめて、自分もスピリットの側にいるっていえる。
スピリットの光は、先ほどの「花芯」です。その中に全ての花びらが萌芽状態として含まれてる。ちょうどそれと同じように、スピリットの中で、私たちは全ての意識ある存在と一つになっています。
逆に言えば、たった一人でも、スピリットの光の中で見れない人がいる限り、
この人は、あるいは自分は「特別」(いい意味でも悪い意味でも)と思って、
違いや序列をそこに見ている限り、
エゴの側、花芯ではなく、花びらの一つの側にいることになります。
というわけで、コースでは出会うあらゆる人を、形ある全てのものの素材でもある、原因の光の中でとらえ、自分との一体性を確認する実践をします。いわゆる「ゆるし」です。
実際、祈りはじめ、内側へ向かうと、
まずは、心配や同情、違和感やいらだちの対象として、いろんな人の顔が浮かぶかもしれません。
私など、いつもそうです。
でも、その一人一人を、スピリットの視点で、スピリットとともに、見つめることを選び、
「私には正しいことは、何も見えていません。私には何もわかっていません。
そこに本当に実在するものだけを見せてください」と祈るうちに、
その顔もだんだんやわらいで、光の中に溶けていき、
その光は、私自身でもあることがわかります。
そして、「ああ、この人と私も本当は一体だったな」ということがわかり、
違和感やいらだちは愛へ、心配や同情は強さを見ることへと、変容していきます。
それはもちろん、自分自身をスピリットの愛にあふれた強靭な存在として見出すことと、
区別がつかないのですね。
その時気づくのは、その人の光は実は自分の光でもあり、この一体の光(サンシップ=神の子の一体性)は、全ての意識ある存在の原因、神の中での一体性であり、
その中では、あなたも私も、全ての意識ある存在も不可欠の部分をなしていて、
その一つでも欠けると、全体の光がなりたたなくなることです。
だから、光として誰かを見出すたびに、「ありがとう、あなたの光のおかげで、私の光もあります。あなたは私の救い主です」と感謝して、手をあわせれるようになる。
目をつぶって、誰か気がかりな人の顔が浮かぶたびに、この作業を繰り返します。
だんだん心が静まり、自分がすでに、祈りのゴール、神の中にいることに気づくかもしれません。
このゴールの中で、私たちは全ての意識ある存在と一体です。
というわけで、身体は離れていても、本質は一つであることを確かめる遠隔一斉瞑想は、コースの原理を応用できる格好の実験になるわけです。

祈りに乗って、心のトンネルをくぐった先には、
スピリットの広大さ、無限性、自由があります。
それは、私たちが見るどんな世界、どんな宇宙よりも広大で、実際、果てがありません

そこから振り返って、この世界を見ると、とても小さく狭く感じられます。
私たちの身体がどこにいるとか、ネットを介してつながっているとか、
本当に、ちっちゃな、可愛らしいことに感じられます。

ここに突き抜けるのが、ゴールです。
それさえできれば、本当に、すべてが、わかります。
世界のことへの心配が心に入りこむ隙も、なくなります

その自由と広大さ、一体感を忘れずに、
今この時期を生きること。

人類へのこれ以上の奉仕はないこともわかります!

この広大な世界への入り口はあくまで、私たち自身の中にあります。
どこに探しに行く必要もない。
今この時期の見かけ上の拘束状態は、
そのありかを、一ミリもずれずに突き当てられる
格好のチャンスなのです。

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