私が今、一緒に暮らしているパートナーは、
私と全然、違うタイプです。
その違いは、食べ物の好みといった表面的なことだけでなく、
人生観の根本的な部分にも及んでいて、
普通に考えると、パートナーシップは不可能な状態です。
にもかかわらず、わりと仲良く、一緒に暮らしてます。
二人のあまりもの違いに、愕然として、悩んだこともあったのですが、
一つブレークスルーになることがありました。それは、
「違いは、埋めるためにあるというより、互いの理解を深めるためにある」
とに、発想の転換をすることです。
ヒントになったのは、ブレーネ・ブラウンさんの本の中で出てきた
コミュニケーション上の葛藤を、解消するのではなく、そのまま変容させるのを目指す
「葛藤変容」というスキルを提唱しているミッシェル・バックという方のアプローチです。
自分にとっても重要なことで、誰かと意見の違いがあり、
しかもその相手との関係も、自分にとって大切だと思われる時、
私たちがよくとる方法として、
1. 意見が一致させようとする。つまり、相手を説得する。あるいは説得される。
でもこれは、感情的な口論になる危険を秘めていますね。それに懲りると、
2. 互いの意見を尊重して、口論にならないように、この件についてはこれ以上、触れないようにする。
という方法に切り替えます。ただそうすると、関係性を深めることはできなくなります。
そこで第3の道として、ミッシェルさんが提唱するのは、
違いはそのまま事実として認めた上で、
「なぜこの人はこんな考え方をするに至ったんだろう?」
知りたいな、理解したいなって、好奇心を持つことです。
自分は正しいとか、自分の考え方の方が、進んでるとか、
相手を啓蒙しなきゃ、説得しなきゃ・・・・そういうジャッジメントを一切捨てて、
珍しくも、魅力的な生き物を、無私に、夢中になって観察する
生物学者のような態度で、この「違い」にのぞむわけです。
「いつからそんなふうに考えるようになったの?」とたずねたりしながら、
違いは違いのままに、理解に浸していくわけです。
「ああ、そんなことがあったのね、そんな育ち方をしたので、それで、そういうふうに考えるようになったのね・・・」などというふうに。
そうやって、説得する気持ちも完全に捨てて、親身になって理解しようとすると、
いつの間にか、二人の「違い」がちっとも気にならなくなっているのに気づくかもしれません。
二人を共に浸している、気づきの海の中にいるからです。
ルパートさんによると、この気づきの海には、美、愛、真理といった性質があります。
知覚から、気づきの海に入るとき、美が入り口になるし、
感情から気づきの海に入る時は、愛が入り口になります。
それと同じように、思考から気づきの海に入る時は、真理が入り口になります。
面白いのは、真理というこの入り口は、気づく対象の成否や真偽には、関係なく開くことです!
対象そのものではなくて、
その対象に気づき、理解しようとする働きを指しているからです。
たとえば、犯罪とか、どう見ても間違ってる行為も、
ジャッジメントを外しながら、
「なぜこの人が、こんなことをするに至ったのか」理解しようとすると、
ジャッジしてる限りは絶対目に入らない、その細部、様々な事情が見えてきます。
それにつれて、まずは、理解しようとする働きの方が、
真理として、気づきの海の中に溶けていきます。
それは私自身がその行為に賛成するとか、それを正しいと思うかなどとは、関係なく起こるのですね。
そんなふうに理解してくれる人がいることで、
理解対象になっていた人も、様々な形で、助けられます。
次第に、気づきの海と、その一体感を、
自分の方でも、感じ始めて、そこに戻れるようになるかもしれません
というわけで私も、パートナーとの間の「違い」にびっくりするたびに、
その「違い」を「違い」のまま、理解で浸すために、とぼけた会話をしながら、
理解の入り口を通って、気づきの海の側にいるように心がけるようにしたのでした。