非二元のエッセンス

気づきの海へ戻る道2 芝居の衣装を脱ぎ、セリフを忘れる 

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本当の自分をどこに探すべきかについては、
ルパートさんのリア王を演じるジョン・スミス(日本で言えば、「山田太郎」のような、典型的なイギリス人の名前)のたとえ話も、ヒントになります。

次のような話です。

名優、ジョン・スミスは、愛する家族や友達に恵まれて、幸せに暮らしていたのですが、
ある日、シェークスピアの「リア王」役を演じているうちに、役にのめりこみ過ぎて、
その世界から出れなくなって、自分が本当にリア王、悲劇の主人公だと思いこみ、絶望して暮らすようになってしまいました。

自分はリア王だと思いこんで、絶望して暮らすジョン・スミスは、
分離した心身の方を「自分」だと思っている喩えです。

このたとえも、分離した心身こそ自分だと思っている状態は、
何か実体のあるものというよりは、好んで始めた、特別な活動であって、
それをやめて、自然な初期値の状態に戻りさえすればいいんだってこと、
つまり、足し算よりも、引き算こそ、必要なんだってことを教えてくれます。
それは、先ほどの握りしめた手をほどいていく喩えと同じですね。

ただ、先ほどの手の喩えと違うのは、具体的に何を手放していけばいいかについて、
もうちょっと具体的に教えてくれるところです。
ジョン・スミスがジョン・スミスに戻るには、まず衣装を脱いで、セリフを忘れることができなければなりません。

分離した自己としての私たちは、いろんな役回りを抱えています。男、女、日本人、年齢、家族の中での役回り、職業、特定の能力があるとか、ないとか・・・
それらにまたたくさんのジャッジメント、プライドや劣等感や犠牲者意識などが絡みついてます。

でも私たち、それらを真面目にとりすぎてないでしょうか?
役そのものから降りて、仕事をやめたり、家族の元から去る必要はないのですが、
それこそ自分であり、自分の全てだと思うのをやめる必要があるというわけです。

そうすることで、実際、役回りも、余裕を持って演じれるようになるというわけです。

そして、必要がないところでは、衣装を脱いで、台詞も全て忘れたジョン・スミスのように
まっさらな初期値にもどれるようになるというわけです。

その初期値にいつでも戻れることで、
役割、性別、年齢、国籍、民族、嗜好、趣味、教育、文化・・・・
全てを超えて、初めて会った人、そして、まだ見知らぬ人も含め、
全ての人と一体感を感じれる、人類愛を感じることができるようになります。

また、この状態の中に、
私たちが求めてやまない愛や安らぎ、智慧の源泉があります。

そこに、ジョン・スミスの喩えが教えてくれる、究極の教訓があります!
つまり、私たちが求めてやまない「幸せ」「天国」「悟り」の状態、は、
でもそれは、この世界という舞台のあらゆる役回りや、
演技、シナリオの中には見つからないということ。

衣装を脱いで、役回りもセリフも全て忘れ、舞台を降りたところにしかないことです!

たとえば、
「ついつい、こんな行動をして、1日を台無しにしてしまうダメ人間の私は絶対救われない」とか、
「ここへ行きさえすれば、この人について行きさえすれば、このワークを続けさえすれば・・・私は救われなる・・・」と考えたりしてしまいますが、
これ全て、リア王のセリフの中に、ジョン・スミスを探すエラーの例です(笑)。

「いつか、どこか」ではなく、「今、ここ」のありのままにしか、出発点はありません。
どんなに惨めで、不完全に感じられても、まずはそれに敬意を払い、しっかり感じながら、
同時に舞台衣装、役回りの拘束衣を脱いで、リラックスしながら、心を緩めていきます。

どんな対象物もつかめない状態に耐えながら、まるで、後ろ向きに歩いていくように、
先ほどの海、一体性の中へと、どさっと倒れこむというわけです。

「海」へとに戻っていく感覚、まだつかめないという方、いらっしゃるかもしれません。
全く大丈夫。他にもいっぱいヒント、用意していますから。

とりあえずここまでのところで押さえておいていただければと思うのは、
この世界という舞台上のシナリオの中に、救いを探すのをやめること。

救いは、衣装を脱いで、シナリオの一切を忘れて、初期値に戻った瞬間にしかないことです。

そういうと、世界から隔絶した、高みに昇る必要があるように聞こえますが、
とんでもない。舞台衣装を脱ぎさえすればいいのですから!
それは今この瞬間にでもできることです。

つまり、いつでもどこでも、必要のない時には、
社会的役割、性別、年齢、国籍、民族、嗜好、趣味、教育・・・・
全て忘れて、全く初対面の見知らぬ人と、
あなたと私は同じだねって、一体感を感じられる、そんな意識状態にいればいいのですから。

それは素晴らしい感覚です。
全く初めて会った大勢の人たちと、スポーツの試合で、一緒に、夢中になって応援したり、声を合わせて歌っているとき、
あるいは、コンサートで盛り上がった時に、みんなと一緒に身体を揺らしながら、
一体感に圧倒されたこと、ありませんか?
あの感覚です!

そんな瞬間、一体性の輪の中にとびこんで、
「踊る阿呆」の仲間に入るのを躊躇してた経験も、あるかもしれません。私なんかしょっちゅうです。
結構、勇気いります。自分を失うわけですから。
その時、躊躇してる気持ち、「あの人に見られたらどうしよう?」とか、
自意識、プライドなどなど、
それが、脱ぎ捨てるべき衣装なのですね。

(アイキャッチ画像は、ジョン・エリオット・ガーデナーというイギリスの指揮者によるバッハのカンタータ集のCD BOXです。彼はバッハのカンタータの録音をするのに、わざわざ、バッハゆかりの教会に行って、そこで演奏しました。でも、この中に入ってる56枚のCDはすべて、普通のバッハのCDでよくあるように、教会の写真を入れたりせず、キリスト教文化圏以外の人たちも含めた、世界中のさまざまな人たちのポートレート写真が使われてます。バッハの音楽は、キリスト教文化圏から生まれながらも、そこにとらわれない、もっと普遍的な、人類愛の包括的な意識の中で響いてる。それを示したかったんじゃないかな?)

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