奇跡のコース

私が「神」という言葉をあまり使わない理由

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私が、「神」という言葉をなぜ使わないのかと、思われるかもしれません。

その理由は、いくつかあるのですが、
一番簡単な理由は、
その言葉で呼ばれているものを、
体験する前と後では、
視点が全く変わってしまうからです。
本当に体験してしまうと、そこには自分しかないことがわかるからです。

建物の中に入ると、建物は見えなくなりますよね。
これと同じように、その「外」にいると思いこんでいる限り、
自分の外にあるものとして、名指しで呼ぶことができます。
でも中に入ると、それと視点が一つになるので、もう見ることも、指差すこともできません。
「私」の視点が、そこにいるばかりです。

でも実際、日々、この境界に近づいては、退却したり、超えたりする様子を表すには、
建物よりも、ルパートさんのリア王を演じるジョン・スミス(日本で言えば、「山田太郎」のような、典型的なイギリス人の名前)のたとえ話を使った方が分かりやすいと思います。

次のような話です。

名優、ジョン・スミスは、愛する家族や友達に恵まれて、幸せに暮らしていたのですが、
ある日、シェークスピアの「リア王」役を演じているうちに、役にのめりこみ過ぎて、
その世界から出れなくなって、自分が本当にリア王だと思いこみ、絶望して暮らすようになってしまいました。

自分はリア王だと思いこんで、絶望して暮らすジョン・スミスは、
分離した心身の方を「自分」だと思っている人のたとえです。

時々、正気が少し戻ってくると、ジョン・スミスも「リア王」である以外の人生が自分にもあることを思い出します。闇夜に一条の光がさすようなものです。
でもその状態は、今自分が味わっている、エゴまみれの絶望的な状態からはほど遠いもののように感じられます。

で、時々おぼろげに思い出す、ジョン・スミスとしての自分の記憶を、
たとえば、「神」と呼んだりして、
そこから流れてくる微かな記憶をたよりに、
少しずつ自分のものの考え方や、生活の仕方を、
この記憶に一致するように、調整したり、再編成していきます。
要するに、「修業」がはじまります。

といってもそれは、行きつ戻りつのプロセスで、時々、リア王の意識が圧倒的になり、これまでの努力を一掃していくように見える時もあります。

リア王としてのこの意識のすべてを投げ出し、「神」へと捧げて空っぽにしたいという衝動を感じることもあるかもしれません。

そしてある日、「な〜んだ、自分はジョン・スミスだった」とはっきりと思い出す日が来るというわけです。

その瞬間、これまでは「神」のように見えた「ジョン・スミス」の記憶は、
実は、本当の自分に他ならなかったことがわかるし、

それまで天国のように感じられた、記憶の中のジョン・スミスが住う場所は、
実のところわが家に過ぎなかったこともわかるわけです。

そのときはもう、「神」、その他、どんな呼び名も必要はなくなります。
自分自身のことだってことがわかるからです。

つまり、「神」と、外に向かって呼びかけるように、呼びかける必要があるのは、
リア王役から出れなかったジョン・スミスのように、
夢にはまりこみ、それを現実だと思ってるエゴだけ、
そこから目覚めたスピリット視点で見ると、
神は私なのですね。

この客体性のゼロ値、ただただ、たった一つの自分しかない状態を、
言葉にすることはできません。

それは、思考やイメージが、すべて消失して、
ただただ、一体感により、絶対の安心、安らぎがある場所で、
それは、本当に、言葉にしようがない、
言葉にすると、そこに分裂が生じて、失われてしまうのですから!

たとえば、「神」と言うと、
(自分の究極の理想、幸福な状態を表す言葉でも構いません)、

どうしても、「神」という特別なものがあり、
「神と一つ」であるという特別な意識状態がある。
でも、今の私はそれが体験できない惨めな状態にある(抵抗)
だから、頑張って、神とともにある、特別な意識状態に到達するんだ(探索)
というモードに入りやすくなってしまいます。

「神はどこ?」ってまるで、自分の「今、ここ」の外にそれがあるように探す。
この抵抗・探索モードにある限り、絶対、見つからないのが、まさに神なんですよ!
このモードを完全に解除することこそ、神を知るために必要な唯一のこととさえ、言えるかもしれません。

すでに、私、このモードにいるんですけれど・・・
と言う方も、いらっしゃるかもしれません。
私も、落ち目の時など、しょっちゅう、そうなります。

この抵抗・探索モードを解除させるのに、役に立つ祈りとして、
ルパートさんがよく口にする祈りがあります。イタリアのある修道士が口ずさんでいたそうです。
それは、

「神よ。あなたは、あなたに向ける私の愛です」

というものです。

神を愛する私の心の中に、神がいる・・・そんなふうに、絶えず、自分の中に立ち戻り、
「神」と言う言葉で前提としてる対象性、客体性、特別性を消していく、
そのために、役立つ祈りだと思います。

ただ、現状に不十分さをみて、それを改善しようと、努力する
この抵抗・探索モードは本当に根深いです。
そのどこが悪いの? 私、これしかやっていないけれど・・・と思われる人もいるかもしれません。私自身もそうでした。それほど、エゴにとって根本的、土台をなすようなことなんですね。

そもそも、スピリチュアルになりたい、癒されたいと思うことそのものが、
このままじゃだめだ、どうにかしたい! より良い心の状態になりたい! そのための方法を教えてくれる人や本や修行方法を知りたい! そのための究極の秘伝、テクニックを知りたい!

と言う具合に、すべて、それ自体、小さな私、エゴを形成している心の癖、抵抗と探索からなってるほどですから(笑)

もちろん、より良い人になりたい、幸せになりたい、スピリチュアルになりたい、癒されたい・・・という思いの中には、
現状に不足や欠如を見るエゴだけでなく、

癒された状態の予感というか、
舞台から降りてジョンスミスだった頃の記憶
既に心のどこかで知っている、でも、すっかり忘れてしまった至福状態に対する憧れ、
家に戻ってきなさいという呼びかけ、途切れがちに時々聞こえることがあるかもしれません。

天国からの吸引力みたいなものです。

そちらの方は大切にして、
そのまま、その呼び声、その吸引力に身を任せて、大丈夫です。

ただ、「今、ここ」の現状に欠如を見て、
その代わりに、「いつか、どこか」にある特別な意識状態、
たとえば、悟りや目覚めを目指そうという
抵抗・探索モードに入っていると気づいたら、
その度に、軌道修正して、
そう感じてる、自分の「今、ここ」に戻る必要があります。

どんなに惨めに感じられても、その真下にしか、望むものは決して見つからないからです。

そんな時、
「神よ。あなたは、あなたに向ける私の愛です」
という祈りは、役にたちます。

サレンダーする相手の必要性

スピリチュアルな癒しや達成が、どうしてこんなに困難で、稀に見えるのか、
その理由は煎じ詰めればとてもとても単純なことで、

小さな私(エゴ)は小さな私を癒せない!

ということに尽きます。

それはたとえて言えば、自分で自分の髪の毛を引っ張って、宙に浮かせる努力のようなものです。

エゴはエゴを癒せないと言うことは、エゴ以外の力がそこに働く必要がどうしてもあります。

エゴによる、抵抗と探索の癖が、どれほど根深いかを痛感すればするほど、
サレンダーの必要性も感じます。

つまり、自分の全て、物の見方、考え方の枠、知っていることすべてを、
自分より大きな存在に明け渡す必要も感じます。

というのも、何度も何度も、一体性の体験をして、
「神」と呼ばれているものは、全てと一つになった私自身にすぎないことが、いやと言うほどわかった後も、
分離した意識の闇に戻ってしまうこと、あるんですね。

深い一体性の体験があればあるほど、
今の惨めな状態と、その時の自分の至福感とついつい比較してしまったり
焦りが出たり、惨めな気持ちになって、自分を責めはじめたりと、
どう考えても、分離した心身の側の意識、エゴの方に、心がさらわれてしまうことがあります。
ダメな現状を補うための、
「特別」な意識状態を求める抵抗と探索の罠にハマってしまうのですね。

その中で、いくら、そこから出ようとしても、
そうした現状に対する抵抗感そのものが、またエゴの側にあるので、
まるで、もがけばもがくほど落ちこんでいく蟻地獄のような罠にはまったような気がすることもあります。

私も、数え切れないほど、そんなことありました。きっとこれからもあるでしょう。

そういうときは、藁をもすがるように、「あなた」に呼びかけています。
闇の中の一条の光に目をこらすように、
夢のただ中で、目覚めの記憶をさぐるように。

要するに、ちょっと油断すると、分離した心身の側にある「リア王」の意識に方に戻り、
そちらを「自分」だと思ってしまう可能性が少しでもある限り、
「神」でも、「あなた」でも、「ジョン・スミス」?でも、呼び名は何であれ、本当の自分に向かって、大声で助けを求める必要、あるものです!

そんな時、私がよく使う祈りの言葉は、
「ここに本当に存在するものを見せてください」
「あなたの目に見えるものだけを見せてください」というものです。
特定の現実を見せてくれるように、つまり直面している問題を解決してくれるようにとか、願望を充足してくれるように祈ることはありません。

悪夢にうなされている時の解決法は、夢の内容を操作することではなく、
夢から覚めて、本当に実在するもの、正気の目に映るものを見ることだからです。

コースの中に、「真の祈りは、自分が何のために祈っていたかを忘れてしまう祈りである」とあ理ます。これも、同じ理由からです。

リア王がジョン・スミスだったことを思い出す、この手の祈りが成功すると、そこにあるのはただ、自分の悩みは全て、幻に過ぎなかったことを知ることだけ。
「どうか、娘と仲直りできますように」といった、芝居の中身をコントロールしようと言う祈りは、その夢をますますリアルにするだけです。

それでも、漠然とした不安や思い気持ちがするときは、

「あなたに、私の全てをゆだねます」と、

まるごと自分をさし出し、自分を空っぽにしてもらう。そんな祈りもよくします。
リア王の意識の残滓を、一切合切、持って行ってもらうのです。

祈りがうまくいくと、ただ、一体と安心、幸福感、満ち足りた気持ちが、広がって、実際、何で自分が祈り始めたのかも忘れてしまうほどです。

そんなときには、もちろん、祈りの相手に対する感謝の念も湧いてきます。でもその時、その相手は私と分かち難く一つになっています。

だから、コースの言葉をもじって、「真の祈りは、自分が誰に向かって祈っていたのか、忘れてしまう祈りである」とも言えるかもしれません。

つまり、「神」と言う言葉は、私にとって忘れるために、あるものなのです。

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