奇跡のコース

『奇跡のコース』ワークブックレッスンを終えて思うこと

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つい先日、『奇跡のコース』ワークブックレッスンを終えることができた。1日1レッスンずつ、1年がかりで終えれるように、365のレッスンからなるものだけど、私の場合、1年4ヶ月ほどかかった。

もちろんやってよかったって思ってる。

とはいえ、これを終えたからといって何か魔法のようなことが起こったというわけではない。コースさえやればすべての問題が解決するなんてのは、残念ながら、ない。収穫だといえるのは、何をやればいいかわかったこと。やるかやらないかは全く自分次第だってわかったこと。

つまり、コースは、「特別の関係」を結ばせてくれないのだ。そんなの当たり前。コース自体が、これを口すっぱく戒めているのだもの。

「特別の関係」とは、人でもものでも、何かを「特別」視して、それさえ手に入れれば、自分は幸せになれる、強力になれる、望みがかなう・・・と思うこと。特別の関係を結ぶ相手は、人によって恋人だったり、家族だったり、ペットだったり、どうしても欲しいものだったりとさまざま。だけど、自分の外にあるものにおすがりして、救われようとする点で共通してる。

そのどこが問題なのか。「これさえあれば」「これさえやれば」と思うってことは、裏を返せば、それなしでは自分は無力、ダメなんだという自己否定があることを意味すること。だから、特別の関係に深入りすればするほど、自分をおとしめることになり、自分の力を否定することになってしまう。

コースはこれとは全く逆に、自己信頼を高めるよううながすものだ。自分が本来どんなに大きな力を持っているか、それを思い出すように助けることしかしない。そのためには、本に依存しちゃいけない。つまり道案内地図はくれるけれど、地図は道そのものではない。道は私たち自身が歩くしかない。

私は高校時代、進学校の詰め込み教育に辟易してしまい、不登校になってしまった。この先どうすればいいかもわからないし、何か突破口を探そうとアメリカへ交換留学したことがある。そのときの体験に似てる。アメリカへ行けば何とかなるだろうなどといった、わけのわからない安易で子供っぽい期待を抱いて飛行機に乗ったわけだけど、その期待は見事、裏切られた。アメリカへ行った「から」といって魔法が起きるわけではない。逆にこれまでよりずっと大変な毎日が待っていた。だって言葉は通じないし、勉強も大変だし。日本にいたときには、通っている高校の名前を言っただけで、みんな私を「特別」扱いしてくれた。けれど、アメリカではそんなこと一切通用しない。ひとかどのものだと認めてもらうには、ちゃんとコミュニケーションして、自分の意図を伝えたり、今、ここで自分のできることを示す必要がある。

ただ、少しでも頑張ってそれを始めると、即座に反応して認めてくれるのもアメリカ人のいいところ。変な先入観を持ったり、既得利益を守るために人を蹴落そうと意地悪する人も日本よりずっと少ない。まさに、「為せば成る、為さねば成らぬ」の世界。

とにかく、その1年間、私がアメリカで奮闘したことと比べれば、日本の進学校の詰め込み教育なんて、可愛いもの。そんなわけで、日本の高校に戻ってくると、「何だ、こんなちっぽけなことで私、悩んでたんだ、ばかみたい」と淡々とノルマをこなし、希望する大学に進むこともできた。

コースのワークブックレッスンを終えた今の私の心境もそれに近いところがある。自分次第だっていう当たり前のことを、あらためてしっかり確認しただけだっていう意味で。

けれど一つ違うのは、今度は「行動」ではなく「存在」にフォーカスが絞られているということ。ティーンエイジャーだった時の私の気づき「為せば成る、為さねば成らぬ」にもじって言えば、人生のターニングポイントを過ぎ、林住期に入った今の私の気づきは、「あればある、あらねばあらぬ」。

つまり、高校時代のように、勉強「する」といった「行為」が問題になっているのではない。今の私に問われているのはむしろ、心安らかで幸せで「ある」、「存在」のあり方、心の状態なのだ。それがいつも、最高の状況にあるように、絶え間なく見張って、整え続けなきゃいけない。アメリカから帰国後の私が自分の道を切り開いて言ったように、これから私の先に道が開けるかどうかは、すべてそれにかかってる。コースを学習して私に見えてきたのは、今度はそんな意味で自分次第だということ。

たかが幸せで「道が開ける」というのは、大げさにきこえるかもしれない。でも、今私がやりたいのは、ティーンエイジャーのときのように自分を際立たせるのとは、全く逆。すべてのものと一体化していくこと。すべてのものを一つにまとめていくこと。その流れの中に、どんどん深く溶けいっていくこと。それがどれくらい進んだかの目印が、ずばり、幸せをどれだけ感じているか。それも、状況にいっさい依存せず、いつでも、どこでも、自分の内側から感じられる、揺るぎない幸せ。それを感じられなくなったからと言って、誰のせいにもできない幸せ。

これまで憂鬱になるときには、「天気が悪いから」だとか「あの人にあんなショックなことを言われたから」だというふうに、周りの状況や人のせいにしていた。

けれど、コースの学習を終えた今はまず、「どこで私は一体化の流れから逸れたのかな?」と自然と問うようになってきている。

一体化の流れにい続けるのに有効なのは、コースの中で「聖霊」holy spiritとよばれる本当の自分を感じ続け、そこで得られた気づきを表現し、シェアし続けること。例えば、今、私が書いているこの文章は、この流れの中にある。だから書いていること自体から、なんとも言えない安らぎと、幸福感を感じている。

ただ、ずっとうながし、気づきを感じ続けているのに、忙しさにかまけてそれをサボったり、人にどう思われるかなどが気になって、「もっと勉強しないと」などと、書き始めずに本を読み直したりなどぐずぐずしてると、てきめんに憂鬱になり、疲労感を感じだす。完璧主義になったり、遅延させることそのものが、エゴのおそれに屈服してしまうことだから。

本当のわたしは、これに対して、自己信頼すること、結果のコントロールを放棄して、プロセスの自然な展開に身をまかせること・・・などをうながしてくれる。そちらの道を進んでるときには、すぐわかる。雲が晴れるように心が明るくなり、なんとも言えない幸せを感じはじめるから。どんなに疲れていても、どちらかというと体調が悪い時でも・・・

幸せこそ、正しい道を進んでることを教えてくれる羅針盤。ことはこんなに単純で、シンプルなのだ。とすれば、煎じつめて言えば、幸せで「あり」続けること以外、しなければならないことなど、なくなる。

ワークブックレッスンを終えて、コースに対して、どんな特別性も見出さないよう、依存しないよう、独り立ちできるようにと私は歩み始めたばかり。だけど、幸せの深みを探索して、そこに照準をさだめたチューニングをする道具としてのコースは、まだしばらく欠かせないって思う。

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