アートとしての人生

ルパートさんの気づきの3ステップ 芸術の中で、それを完成させる方法

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イギリスの非二元の教師、ルパート・スパイラ さんから私が学んだことはたくさんありますが、
一番ありがたいなと思っていることは、
すべてのものとの一体感を感じ、愛や平安に満たされることは、
私たちの一番自然な状態で、
そこには、特別なところなどなにもないこと。
呼吸するように自然なことだということです。

うんと努力しなきゃ達成できないとか、選ばれた人にしかわからないとか、
そんなものでは全然なくて、
誰にでも、いつでも、すでに与えられてる事実。
ただ、あまりにもささやかで、身近なので、みんな無視して通り過ぎてるだけ。

でも、あえて、いつもそこに戻り、
そこに自分の拠点を置くようにすれば、
だんだんそこから、愛や平安が、うちから滲み出るように、
じわじわじわじわ、感じられるようになる
そういう、とてもシンプルな態度です。

それを、手軽に確かめられる「気づき」の実験については、何度か紹介しましたが、
それがどこへ向かっているのか、今回は、もっと緻密に見てみたいと思います。

彼の気づきの定義は三つのステップを踏んでいきます。
まずは、1、ものに対する気づき
2、この気づきが、ものを包み、ひたしている空間でもあるという認識
3、この気づきから、ものができているという認識

1は、誰でもすぐに確かめられるものです。たとえば、今、身体に何か、違和感や、凝りや、痛みなどありませんか? 特になかったら、服が肌に触れる感じや、足が床に触れる感覚でもいいので、目をつぶって、その身体感覚に100%、集中してみましょう。

あなたはこのとき、この身体感覚に対する気づきです。

そのまま、リラックスしていくと、自然に2に進むことができるかもしれません。
この気づきは、この身体感覚に気づいているだけでなく、
この身体感覚をすっぽり包みこみ、浸している空間あるいは海(私の体験ではいつも、液体のような気体のような、滑らかで、優しく、内側から光を発するように感じられます)

聴覚で試すのも、わりと簡単にできます。これも目を瞑るといいと思います。何であれ、身の回りで立つ音に全身で気づいていてください。と同時に、リラックスしながら、この気づきは、音に気づいているだけでなく、音をやさしく、すっぽり包む空間として感じられないか、確かめてみてください。
それは身体感覚をとりまいていた空間と同じでしょうか? また両者はつながっているでしょうか?

思考に対する気づきでも、簡単に確かめられます。
はじめは、何ということのない平凡な思考(その内容で頭をかき乱されることのない思考、例えば今日のお天気など)をとりあげて、
その思考を頭の中で言葉で、たとえば、
「今日の・・・北海道は・・・・良い天気だな」というふうに、一語一語、区切るようにゆっくり唱えていくといいと思います。

一つ一つの言葉と、次の言葉の間に何があるでしょう。それは、この思考全体がその中に浮かんでいる空間とひとつながりになっていませんか?

気づきの空間が、まずは、言葉と言葉の間として、しだいに言葉全体をすっぽり包む空間として感じられてこないでしょうか?

そしてそれは、先ほど、身体感覚や聴覚で確かめたのと、同じ空間ではないでしょうか?

同じ空間だというのを確かめるために、納得のいくまで、身体感覚や聴覚に立ち戻り、それらを取り巻く気づきと、思考を取り巻く気づきを比べたり、片方から片方へと移動してみてください。

この一つの、同じ空間の中に、様々な知覚や思考が浮かんでいます。
知覚や思考は、たえず現れては消えを繰り返します。
でも、それらをかくまっているこの空間は、不動のままです。

ではなぜ、「こちらの方こそ、私」って思っちゃいけないでしょうか?

すべてのものと一つだという体験は、何か超自然的で、ドラマチックで素晴らしいものだって思っていると、「この当たり前で、ごく普通の感覚は何なの?」と拍子抜けするかもしれません。

私もそうでした。

気づきのフィールドの体験は、スルメを食べるのに似たところがあります。最初は、何の味もしなくて、硬いばかりで、ゴムでもかじってるようですが、噛み続けるうちに、中から深い味わいが出てくるのです。

この実験を繰り返すごとに、
気づきを、単に対象に気づいている意識としてだけでなく、
気づかれる対象をすっぽり包みこむ空間として感じるこの体験は、
次第に深まっていきます。

そしてついには、視覚の中でも感じられるようになります。
私の場合は、思考や聴覚や身体感覚とちがって、
視覚を気づきの中に浮かぶように感じられるまで、ずいぶん時間がかかりました。

それは今もゆっくり進むプロセスなのですが、
まず、「目に見えているものは、ほんの一部にすぎない」という感覚が高まってきます。
たとえていえば、下には無限の海(視覚に気づいている空間)があるのですが、それを薄い布がすっぽり覆って、海に浮かびながら、一緒に漂ってる。その薄い布に、目に見えるものが映ってる。そんな感覚です。
またその海は、私自身として感じられます。私の気づきでできているからです。
すべてのものが、広大な気づきの海を背負って目に映る時、
すべてのものが、私と、見えないところで、一体だというのも感じられます。
その感覚が、独特の距離感のなさ、
あるいは、どんなに遠くに見えるものも、肌で感じられるほど身近に、
すべて等距離に感じられる遠近感のなさ
平等の感覚(全てが、私、全てを全く同じように、無限に愛している)として感じられることもあります。

一部の芸術作品が、とても深くわかるようになってきます。「あっこの感じ、この世界の見え方、知ってる!」って思うようになります。

素晴らしいミュージシャンの音楽を聴くときも、「聞こえるものはほんの一部に過ぎない」感覚が強まっていきます。

でも、どんなにその演奏に感動しても、その音楽性の深さに簡単しても、
そのミュージシャンを崇拝したり、そのファンになることは、ありません。だって、すでに、この音楽の中で、私たちは分かち難く一つなのですから! これ以上、何を望めるでしょう?

では、3の、「この気づきから、すべてができているという認識」は、どうでしょう?

先ほどからお話ししている実験をするうちに、すでに、その体験をする人も多いと思います。
特に、思考でそれをやっていると、思考がいつのまにか気づきの海の中で溶解して溶けていくのに気づかれた方も多いかもしれません。

あるいは、この実験を重ねるにつれ、先ほどお話しした、見えるもの、聞こえるものはほんの一部に過ぎない感覚が強まっていき、
だんだん、ただここにあるのは気づきの海だけ、
知覚されるものは、その波頭のような儚いものにすぎないのではないかという感覚が高まってきます
この先にあるのは、すべての形あるものが、気づきの光の中に透明に消えていく神秘体験です。

イギリスの非二元の教師、ルパート・スパイラさんの
「気づき」の実験については、何度か紹介しましたが、
それがどこへ向かっているのか、今回は、もっと緻密に見てみたいと思います。

彼の気づきの定義は三つのステップを踏んでいきます。
まずは、1、ものに対する気づき
2、この気づきが、ものを包み、ひたしている空間でもあるという認識
3、この気づきから、ものができているという認識

1は、誰でもすぐに確かめられるものです。たとえば、今、身体に何か、違和感や、凝りや、痛みなどありませんか? 特になかったら、服が肌に触れる感じや、足が床に触れる感覚でもいいので、目をつぶって、その身体感覚に100%、集中してみましょう。

あなたはこのとき、この身体感覚に対する気づきです。

そのまま、リラックスしていくと、自然に2に進むことができるかもしれません。
この気づきは、この身体感覚に気づいているだけでなく、
この身体感覚をすっぽり包みこみ、浸している空間あるいは海(私の体験ではいつも、液体のような気体のような、滑らかで、優しく、内側から光を発するように感じられます)

聴覚で試すのも、わりと簡単にできます。これも目を瞑るといいと思います。何であれ、身の回りで立つ音に全身で気づいていてください。と同時に、リラックスしながら、この気づきは、音に気づいているだけでなく、音をやさしく、すっぽり包む空間として感じられないか、確かめてみてください。
それは身体感覚をとりまいていた空間と同じでしょうか? また両者はつながっているでしょうか?

思考に対する気づきでも、簡単に確かめられます。
はじめは、何ということのない平凡な思考(その内容で頭をかき乱されることのない思考、例えば今日のお天気など)をとりあげて、
その思考を頭の中で言葉で、ゆっくり、一語一語唱えていくといいと思います。
ルパートさんが誘導瞑想でよく使うテクニックです。

すると、気づきの空間が、まずは、言葉と言葉の間として、しだいに言葉全体をすっぽり包む空間として感じられてきます。

それは身体感覚や聴覚をとりまいていた空間と同じでしょうか? またこの三つは一つながりに、つながっているでしょうか?

気づきを、単に対象に気づいている意識としてだけでなく、
気づかれる対象をすっぽり包みこむ空間として感じるこの体験は、
度重ねるごとに、どんどん深まっていきます。

そしてついには、視覚の中でも感じられるようになります。
私の場合は、思考や聴覚や身体感覚とちがって、
視覚を気づきの中に浮かぶように感じられるまで、ずいぶん時間がかかりました。

それは今もゆっくり進むプロセスなのですが、
まず、「目に見えているものは、ほんの一部にすぎない」という感覚が高まってきます。
たとえていえば、下には無限の海(視覚に気づいている空間)があるのですが、それを薄い布がすっぽり覆って、海に浮かびながら、一緒に漂ってる。その薄い布に、目に見えるものが映ってる。そんな感覚です。
またその海は、私自身として感じられます。私の気づきでできているからです。
すべてのものが、広大な気づきの海を背負って目に映る時、
すべてのものが、私と、見えないところで、一体だというのも感じられます。
その感覚が、独特の距離感のなさ、
あるいは、どんなに遠くに見えるものも、肌で感じられるほど身近に、
すべて等距離に感じられる遠近感のなさ
平等の感覚(全てが、私、全てを全く同じように、無限に愛している)として感じられることもあります。

一部の芸術作品が、とても深くわかるようになってきます。「あっこの感じ、この世界の見え方、知ってる!」って思うようになります。

素晴らしいミュージシャンの音楽を聴くときも、「聞こえるものはほんの一部に過ぎない」感覚が強まっていきます。

でも、どんなにその演奏に感動しても、その音楽性の深さに簡単しても、
そのミュージシャンを崇拝したり、そのファンになることは、ありません。だって、すでに、この音楽の中で、私たちは分かち難く一つなのですから! これ以上、何を望めるでしょう?

では、3の、「この気づきから、すべてができているという認識」は、どうでしょう?

先ほどからお話ししている実験をするうちに、すでに、その体験をする人も多いと思います。
特に、思考でそれをやっていると、思考がいつのまにか気づきの海の中で溶解して溶けていくのに気づかれた方も多いかもしれません。

あるいは、この実験を重ねるにつれ、先ほどお話しした、見えるもの、聞こえるものはほんの一部に過ぎない感覚が強まっていき、
だんだん、ただここにあるのは気づきの海だけ、
知覚されるものは、その波頭のような儚いものにすぎないのではないかという感覚が高まってきます
この先にあるのは、すべての形あるものが、気づきの光の中に透明に消えていく神秘体験です。

ただ、「この気づきから、すべてができているという認識」を、一番身近に体験できて、
実用的でもあるのは、ヒーリングの中で、ではないかと思います。

先ほど、思考の実験の際に、はじめは、何ということのない平凡な思考(その内容で頭をかき乱されることのない思考、例えば今日のお天気など)をとりあげた方がいいと言いました。

でも今回は逆に、その時、自分の頭を大いにかき乱している思考を取り上げてみるのです。
ルパートさんは感情やイメージも思考の一種として語ります。
思考が、身体に埋めこまれた分離した自己にまつわる記憶の層に触れて、
孤独、無力感、恐れ、見捨てられた感覚、悲しみ・・・にスイッチが入ると、感情の波やさまざまなイメージが押し寄せてくるというわけです。

ただ、そうなると、これらの感情の出どころである
分離した身体との同一化(「この身体こそ私!」という感覚)が自然に強まるので、
先ほどの実験よりしっかりと、
ポジではなくネガ、つまり
この思いそのものではなく、
思いをかくまいし、包みこむ気づきの空間の方こそ
本当の自分だってことをはっきりさせて、
空間の方にしっかりと意識を置く必要があると思います。

というわけで、今度は、悲しいこと、辛いこと、腹ただしいこと、
とにかく、愛や喜びや平安以外のあらゆる思いを取り上げてみてください。

ポイントは、その際、その思いに気づいていること以外、何もしないことです。
まずは、良し悪しをジャッジしないこと。
この思考に対して、一切、抵抗しないこと。

ただ、微妙な抵抗もあります。
たとえば、「この思考をクリアにして、除去するために、とりあえず今は無条件に受け入れておくか」というのも、その一種。
「いつか、これを除去するために」「癒すためにやっている」という意図そのものが、抵抗なのですね。

この微妙な抵抗を手放しているかどうかを知る目安として、ルパートさんがよくいうのは、
「一生これを抱えて生きていけますか?」というものです。苦しみのただ中にあるときに、そう問うのは、ちょっと酷な感じがしますが、抵抗のゼロ状態をつきつめるとそうなりますね。

私がよくやる方法は、
この苦しみが、美しく感じられてくる視点を探すことです。
この気分にとてもマッチする音楽を聴いて、うんと涙を流したりするうちに、
どんな感情からも、内側から美しさが輝いてくる気がしてきます。

詩でも、絵画作品でも、何でもいいと思います。
既存の芸術作品で、しっくりするものが見つからなかったら、
自分で作るのもいいかもしれません。
誰に見せるわけでもないので、支離滅裂でも大丈夫。
それがどんなに殺伐としたものであれ、情けないものであれ、今ここで感じられる思いの描写からはじまって、そこに美しさが感じられるまで、ペンや筆を動かしたり、楽器をいじっていればいいのですから。

芸術には、地獄のただ中にも天国を、
うんと特殊なものの中に、普遍的なものを透かし見させてくれるとびっきりの機能があります。

どんなに闇に見えるものも、実は、その内側には気づきの光が充満していることに
気づかせてくれるのですね!

それだけではありません!
ブレーネさんが、ブルーグラスの「叫び」について語ったの言葉をかりれば、
「この苦しみを感じてるのは、私だけではない!」感覚も、
優れた芸術はもたらしてくれます。

音楽でも、詩でも絵でもいいのですが、
その作品の中で、「これを作った人、これまでそれに心動かされたあらゆる人と、今自分は、同じ痛みをともにしている」というつながりの感覚、
一種の共同体の感覚ももたらしてくれるのですね。

それこそ、気づきの海のもう一つ重要な特性である、一体感にほかなりません!

どんな苦痛な体験も、そのただ中に、
そこに内在する美しさと、
「これを感じているのは自分だけではない!」という一体性を感じる時、
私たちはもう半分以上、癒されてますね。

ついでに言えば、愛、美のほか、智慧も、気づきの空間の特徴です。

「今感じてる苦しみを、何とか取り除きたい!」と思うのは、エゴの抵抗です。
でも、「この苦しみを理解したい!」と、引きつけられるとき、
私たちは、気づきの空間の側に意識を置いています。

とはいえ、理解する・・・というのも、ちょっと道を踏み間違えると、
エゴに乗っ取られがちですが、

それを巧みに避けるバランス感覚をあらわす
ルパートさんの比喩があります。それは、

「美しい、珍しい蝶に出会って、魅了された昆虫学者のように、苦しみを吟味する」

というものです。

相手は華奢な羽で飛び回ってる蝶なので、つかんだりすると、傷つけてしまいます。
注意深く、やさしく、ただよりそいながら、見つめる必要があります。
その美しさに魅了され、愛に満たされたまなざしで!

そうすることで、愛、美、気づきの空間の特性が、この智慧の働きに加わり、総結集することになります。

鬼に金棒のこの瞬間、ルパートさんがおすすめしているのは、
この苦しみに対して、次のように問うことです。

「一体、これは何でできているんだろう?」

全身全霊「知る働き」「気づき」になったときに気づかされるのは、実際、

「あれ、これも気づきでできていた!」

という発見です。

それまで、てっきり苦しみに過ぎないと思ってた「気づかれたもの」それ自体が、
それに「気づく働き」でできていた!(これはちょっと抽象的ですが、この記事のアイキャッチ画像で使ってる、ターナーの絵をみると、私はいつもそのことを思い出します。一つ一つの筆の跡が、まるで、ものを探り、それに気づく、知覚器官のようです。この「気づきの働き」それ自体で、山の姿、つまり気づかれたものができてる様子がよく出ていると思っています)

その瞬間、苦しみは、愛と美と智慧からなる気づきの海に溶けこみ、
「全ては気づきでできている」ことが確認されるというわけです。

それは、どんなに恐ろしげに見える大波も、全て水でできているのに気づくようなものです。

気づいてみると、そこには、ただ気づきの海があるばかり。
表面は波立っていても、そこから下へ降りていくと、静けさがある。

休みたいときには、そうやって心の底へと降りていけばいいし、
望むなら、波立つ表面にとどまり、大波のただ中で、
これすら愛せる、美しさが感じられる様子を楽しむこともできます。

実際、このヒーリング的なワークを重ねて、この確認がいつでもどこでも、すぐにできるようになると、暮らしと瞑想の境界がだんだん崩れていきます。

嬉しい時も、悲しい時も、元気な時も、疲れた時も、いら立ちを感じた時も、平穏な時も、
「ああ、これも気づきでできている」と気づいた瞬間、
内側からキラキラ輝き、美しさで魅惑しながら、その本当の姿をあらわにしながら、
海の中へと、溶けこんでいくと知っているので、

逆に安心して世界のさまざまないとなみに、巻きこまれていくことができます。

全ては気づきでできているというルパートさんの気づきの3つ目の定義を応用して、

どんなに悪感情に苛まれているときも、癒しを体験するヒント、いくつか述べました。

その場で、魔法のように癒しを体験できるのは、難しいかもしれません。
習熟も必要な気がします。

でも、根気強く続けていると、ある朝目覚めると、悪感情はいつのまにか去って、
平安が訪れているのに気づくことになるかもしれません。
気づきの海に浮かんでいた思いが、素材に戻り、海と一体化したのです。

つらくなったら
全身から力を抜いて
海に浸り
波に身をまかせ、
ただたゆたってみてください

奥に秘めた悲しみの最後の襞まで、
波が沁みわたり、癒し、溶かしていきます

そうすればわかる
いつもあなたが守られていて
幼子のように無垢な
生まれたばかりの姿でいられる場所があることを

みんなと一緒に、海に溶けて漂いながら
幸せそのもの
そうやって、
それを見届けるだけで、
生きていけることを

もう一つ、さらに微妙な抵抗として、ルパートさんがよく指摘するのは、
そもそも、抵抗をゼロにして、自分の思いをみつめなければ「ならない」と努力すること自体、
抵抗なんだってこと。

やることは実際、何もない。
これまでずっとやり続けてきた緊張を解き、物真似を解いて、
リラックスして、自分の本性に戻るだけ。

それを聞いてから、私が心がけているのは、
「いやな思いだけど、無条件受容するぞ」と頑張る代わりに、
無条件受容が、自然にできる部分を、心のうちに探すことです。

すると、好奇心旺盛で、遊び心いっぱいで、悪感情を面白がってる自分が、見つかりました。

以下はそんな気分の時に書いた詩です。

何も起こっていないように見える平穏な1日。
でも実はたくさんいろんなことが起こってる。

今、私が感じてる微かないらだちや落胆、悲しみ。
これこそ、ドラマの始まり!

そこからどうやって、あなたの胸に戻り、
平安の海に憩うことができるか
それこそ手に汗握るドラマじゃないの。

そんなドラマの種が今日も沢山あるのに感謝して、
そのプロセスを楽しみます

そして最後にはいつも、平安、愛、一体感そのものと、一体感を感じる
全ての懐に戻る、究極のラブ・アフェアが待っています。
そのとき、すべては気づきでできていたことが、肌身でわかります!

(ここでご紹介したやり方で、悪感情のヒーリングがうまくいくどころか紛糾してきたぞ! という方がもしいらしたら、別の、理づめの方法を試してみられることをお勧めします。私のキンドル本『奇跡のコースによせて3 心をゆるめ、安らぎの源泉に身を浸す』に詳しいです)

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