アートとしての人生

ゆたかさを探す旅 その5 「クールでパーフェクト」から、「痛いほどオープンで、かっこ悪いけど幸せな人」へ

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クリアリングの話をすると、
相手がいないのですが・・・というコメントをよくもらいます。

それでも大丈夫。
普段の生活の中で、
全てとは言わないまでも、多くの人間関係で、
自然にクリアリングを進める方法があるからです。

それは、
誰であれ、目の前の人が、無条件の愛を自分に注いでくれていて、
自分もその人に無条件の愛を注いている
つまりここには、無条件の愛があるばかり。
だから、私のどんな姿も、許容して、受け入れてもらえる、安心して何でも打ち明けれると信頼して、正直な、ありのままの自分でいれる・・・
そんな関係を少しずつ培っていくことです。

それがうまくいくことを、三つの前提が保証してくれます。

一つ目は、全ての人の心には、無条件の受容、無条件の愛が、
覚悟も意志も、努力も要らず、
呼吸するように自然にできる部分がある。
心の中の太陽のようなものです。

それがあることを信じて、そこに向けて、語りかけます。
それが一つ。

二つ目は、誰の中にもある、心の中のこの太陽は、私の中の太陽と一つにつながっていること。
その人の中の太陽が感じられる時、それは同時に、私自身の中の太陽も感じられ、
二つの太陽はつながって、
そこにはたった一つの太陽しかないことがわかります。

このたった一つの太陽の中にいることこそ、
ともに愛の中にいること。
これが、あらゆる人間関係のゴールです。

三つ目。でも、この太陽は、今もお話ししたように雲で覆われていることがよくあります。
気がかりや、悩み、問題だと思われること、「物事は、こうあるべきなのに、そうなってはいない」といった、与えられた現実に対する抵抗などなど。

そして、まさに、こうした雲こそ、自分とその人が、一つの光に溶け込む一体感の邪魔をしている
これを手放すことで、この人ともっと深く、一つになりたいという憧れを感じる必要があります。

そうすると自然に、今、私の心に引っかかって、私とあなたの光が一つに溶けるのをさまたげてる
このことを打ち明けたいという気持ちが、湧き上がってきます

それはとても、怖いこと、勇気のいることでもあります。
あなたの中にも必ず、太陽がある。
そこに向けて語り出せば、
どんな暗闇から出てきた、重苦しい話も、
その光を浴びて透明になり、
遠く上空から眺めると、家も町もおもちゃにみえるように、
昔々のおとぎ話のような
懐かしくも愛おしい物語になり、
私の心に影を落とすのをやめてしまう。

そう一心に信じて、打ち明けるのですね。

とはいえ、少しずつ、できる範囲からはじめて良いと思います。
何でも打ち明けさえすれば、心がすっきりする
無条件の愛を相手との間に培えると頭だけで理解して、
誰にでもいきなり、やみくもに打ち明け話を全開にするのは、いただけません。
たとえば、初対面の人、出会って間もない人に、いきなり自分の心の一番秘めた悩みをうちあけたりするのは、自他共に傷つけますよね。
スピリットの性質を形だけ物真似するエゴ、つまり狂信者や原理主義者につきものの、
侵略性や、攻撃的な性質を逆に帯びるようになります。

これに対して、心を自然に、無条件の愛に向かって、蕾が花開くように開いていくプロセスは、
たっぷりの信頼という潤滑剤、跳躍を優しく受け止めるクッションを必要とします。

信頼は、
「この人とだったら、無条件の愛をやりとり、共有しながらつきあえる
どんなおぞましい話、普通だったら、誰でも私から身を引いてしまうような打ち明け話も
この無条件の愛の中に浮かべられる限りは安全だ」
って確信できること。

暗闇の中へ跳びこむように、勇気がいることだけど、向こうには、私の跳躍を優しく受け止めてくれるクッションがあると思えることです。

それは本当に、少しずつ、少しずつ、培っていくしかない。
ブレーネさんの喩えを使えば、信頼に答えてくれることが一つあれば、瓶に一つビー玉を入れ、
信頼を裏切られるようなことがあれば、瓶から一つビー玉を取る。
それでも、瓶の中のビー玉は、徐々に増え続ける。
そんな気の長いプロセスの中でやっと培われていくものかもしれません。

でも、必ず報われます。

一緒にいても、ほとんど心は離れている状態の関係、
たとえば倦怠期にある夫婦などにはとくに、
信頼を深めながら、打ち明けれる範囲を徐々に広げていくこの方法は、
ドラマチックな効果を発揮するかもしれません。

「ちっとも理解してもらえない、どうせわかってもらえないと、
防壁を築いているのは、実はあなたなのかもしれない」ということです。

いずれにしろ、
「どうしても、このことが引っかかって、
あなたと一緒にいて、一体感を感じて、安らぐことを邪魔してる」
そうしたものがあるのを少しでも感じるたびに、
口を閉ざす代わりに、口にする。小さな努力を重ねていくわけです。

ただ、あくまで、心に引っかかってる、引っかかりを解いて、手放すために話してるのであって、
逆にそれを必要以上に重大視したり、リアルにしたり、
自分が正しいことや、被害者であることや、
相手に非難の矢を向けるために話しているのではない。
そのことははっきりさせておく必要があるし、
それが、何らかの形で相手にも、はっきり伝わるように話す必要があると思います。
「このこと自体はどうでもいいのだけれど、それが起こるたびごとに私が感じている寂しさ、あなたとの間に感じる隔たりを、知って欲しい」たとえば、そんな感じで話すわけですね。

実際、倦怠期の夫婦関係を見ると、お互いにたくさん秘密を抱えていることがよくあるようです。
互いに秘密にしているのは、恥や罪悪感がそこにまとわりついていたり、
これを言ってしまうと、相手との関係は終わってしまうという、喪失のおそれがまとわりついているからですが、

毎日一ミリずつでもいいので、「これを打ち明けても、大丈夫な信頼関係、私たちの間にすでにあるだろう」と思われるだけでいいので、あえて、この「秘密」の中身を打ち明ける・・・
そんな信仰の跳躍を重ねるのはどうでしょう?

暗闇の只中に思い切って跳びこむように、おそろしいことに感じられるかもしれません。
でも、安全に着地できて、相手がそれを受け止めてくれれば、
信頼は高まり、これまでよりずっと無条件の愛の中に一緒にいられるようになります。
そして、打ち明け話の許容力も増していきます。
つまり、いい関係になります。

この冒険の結果、自分の跳躍を相手が受け止めてくれなくて、
逆に傷つき、涙することも多いかもしれませんが、
それでも、大きな視点から見ると、確実に関係性が深まっていきます。

個人的な話になりますが、私自身もパートナーとの間にまだまだたくさん秘密を抱えています。
とくに、基本的な人生観の違い、宗教的な信条のように根本的な部分のずれがあるのに早いうちから気付いていて、
なるだけそんな話にはならないようにその手の話題を避けてきたのですね。
その余波が広がって、何だかすごい距離感を彼に対して感じるようになっていました。

それに気づいてから、それこそ1日に1ミリくらいずつですが、
きっかけがあるたびに、二人の間のずれ、
この一番傷つきやすい部分に触れるような話をあえてするようにしています。
相手を説得するためにしているのではなくて、
「私はこういうことを大切にしながら、こう感じながら、日々、生きている」ことを、
シェアするようにしたのです。
それで、驚いたことには、これまで思い込んできたほど、二人の相違点は大きくなかったのに気づかされたことです。

ブレーネ・ブラウンさんもいうように、傷つきやすさに耐えて、それを許容した分だけ、
喜びも深まっていきます。心がオープンになっていくからです。

実際、私が彼女に学んだ一番重要なことは、多分、私たちは、選択的に感情を抑圧することはできないということです。

恥ずかしいこと、気まずいことだけ、抑圧できる、
それによって、クールで理想的なパートナーを演じられると信じこんで、
私たちは人に対して秘密を増やしていくのですが、
そうすることで、同時に、その人との一体感や、ともにいる喜びが流れこんでくる窓も閉ざしてしまっているというわけです。

関係の守護者として、真正性ではなく、仮面つけ続けること、スピリットではなく、エゴを選んでしまってることからくる当然の結果です。

傷つきやすさに耐えながら、心を開いていくことは、
真正の愛を深めるために不可欠で、
どちらか一つを選ぶわけにいかない、このことについては、
ブレーネさんの本に出てきた童話、ベルベット・バニー・ラビットの話が端的に表してくれてます。

ビロードでできたぬいぐるみのウサギは、自分はぬいぐるみだけど、「本物」real になれる方法があることを、子供部屋で隣あわせに置かれてた、擦り切れて、肌剥き出しの馬のぬいぐるみに教わります。
それは、誰かに、とことん愛されること。それは、時々痛むし、ぼろぼろにさせられることになるかもしれないけれど、いったん「本物」になれば、そんなこと、全然、問題じゃなくなる・・・と馬に教わるのですね。

ある日、ヒョンとしたことから、このウサギは男の子の注目を浴び、溺愛され、肌身離さず、どこにでも連れていかれるようになります。当然、擦り切れ、汚れ、ずたずた、ぼろぼろになります。
しまいにウサギであることすら判別不可能になったと言われるほどです。

ある時その子は、猩紅熱にかかって、ウサギをしっかり抱きしめたまま、ベットで何日も熱にうなされ続けます。結局治るのですが、その後、医者が、このウサギは、病原菌だらけだから、焼却処分するように、言い渡します。
まさに危機一髪の時、このウサギは、自分が本当の涙をこぼしてるのに気づき、「子供部屋の妖精」のおかげで、
本物のウサギになっているのに気付いて、森へ入り、幸せにくらしました・・・というのが、この童話のあらましです。

面白いと思ったのは、男の子に愛されれば愛されるほど、うさぎは、ぼろぼろになっていくこと。
最後には、もううさぎだってことが、わからないほど、ずたずたになってる。
でも、リアルになれば、そんなこと、どうでもよくなると言われるところ

いろいろな解釈、あると思うのですが、
ぬいぐるみとしての美しい外見がくずれるというのは、
外見を整えたり、良い格好を示してプライドを満足させたり、社会的な期待に沿って、人を喜ばせたりと、完璧に満足させたり、人の羨むような特性を
こう見えて欲しいな・・・と普通みんな思っている、
その手のナルシシスティックな自画像がどんどん崩れていくことだと思っています。
それはみんな「嘘」の私。「リアル」、「本物」ではないのですね。

本当の意味で愛し愛されて、一緒に一つの光の中に溶け込んでいくためには、
これらの嘘の自画像は、傷ついてぼろぼろになって、裂けていきます。
でもそうして穴だらけになったおかげで、その隙間から、
どんどんスピリットの光が入っていくというわけです。

そうやって、ピカピカだけど、抱きしめられることはないぬいぐるみのように、
クールでパーフェクトな人から、痛いほどオープンで、かっこ悪いけど幸せな人へと
少しずつ変貌できるというわけです。