アートとしての人生

ゆたかさを探す旅 その4 「ありのまま」を受容しても、犯罪者にはならない理由

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具体的に、クリアリングは何をクリアにするのでしょう?

結局のところ彼女も、子育てで一番大切なのは、存在レベルで子供を無条件受容すること、無条件に愛することの重要性を語っています。

一言で言えば、「たとえどんなときも、あなたはありのままで無限の価値があり、愛されてることは揺るがない」こってことです。

このたった一つのことだけを、表情や、言葉、行動など、あらゆることを通して、またあらゆる機会を通して、子供に、伝え続ける。このとてもシンプルなことが、すべての基本だってことです。

こんなふうに、いうと、「では、自由放任主義」なのか。
どんな重大なミスも、間違いも、見過ごしちゃっていいのかって疑問が湧いてきます。

ブレーネさんの説明は単刀直入で、クリアです。子供が何か悪いことをしたときに、訂正する必要は、もちろん、ある。

けれど、そのとき何より重要なのは、「あなたがしたことは悪い」と、「あなた自身が悪い」をしっかり区別すること。そして、悪いのは、あくまで「あなたがしたこと」「あなたの行動」であって、「あなた自身」ではないこと、訂正は行動レベルにあって、存在レベルにあるのではないことを伝えることだというのです。

つまり、「何があっても、あなたがそこにいるありがたさ、あなたの存在の価値は、無限大のままで、揺るがない。
私のあなたへの愛も、びくともしない」
そのことを、まずはしっかり子供と共有する。

その上で、「でも今のやり方は、間違ってたわね」と、行動レベルでの訂正を促すわけです。

すると、まず、子供は安心できますね。
気持ちの余裕ができるので、間違いを正すのも、気楽にできます。

「悪い子ね」と言わずに、「(あなたはいい子だけど)、あなたがやったことは悪い」と伝えるのは、微妙な違いに見えます。

その違いは、逆のケースを考えると、もっと歴然としてくるかもしれません。

つまり、自分のやったことのせいで、
「悪い子だ」と言われて育った場合。

「あなた自身が悪い」と言われることは、存在レベルで否定されることです。

そこにある言外のメッセージは、私の期待通りに動かない限り、あなたは価値がない、愛される資格はない。つまり、裁かれるということです。

すると、ありのままでは、自分は存在価値はないし、愛される資格はない
人の期待に沿うように、動かない限りは・・・
という欠如感が心に植えつけられてしまいます。

自分の存在価値を示し、愛されるために
せわしなく努力して、気を使い続け
人の期待される自分であろうとする
欠如感に突き動かされるメンタリティーのできあがりというわけです。

ブレーネ さんのそんな話を聞くと、特に私なんて、子供がいないせいか、
子供の立場に、感情移入してしまいます。
私自身がすでにそうやって育ってしまったんですけれど・・・どうすればいいんでしょう?
って思うのですね。

愛されるには、痩せて、美しくなきゃいけない、
あるいは、美しいもので身を飾らなきゃいけない、
出しゃばってはならない、つつましやかでなきゃいけない、
仕事ができなきゃいけない、賢くなきゃいけない、
場を読んで、ふさわしい行動ができなきゃいけない・・・

そう思って、努力しようとしたり、
逆に、それができないので、自分を責めて、自己嫌悪に落ちいる
そんな癖がすでに身についてしまってるんですけど・・・
そう言いたくなりますよね!

それでも、大丈夫です! クリアリングがクリアにするのは、まさに、そこなのですから!

あなたがたとえどんなであろうと、どう振る舞おうと、
揺るがず、全く同じように愛してるという
無条件の愛を示してくれる人が現れたら、

特別な形の達成に、自分の価値がかかってる、愛されるかどうかがかかってるという信念は、
崩れていきます

つまり、無条件の愛は、
存在レベルのその人の輝きを、
その人が一時的にとらわれている形のレベルでのその人のありよう(行動、達成、外見など)
との混同状態から解き放ち、
解き放ち、見せてくれるのです。

太陽を雲の中に見ようとする過ちをやめて、
分離して、太陽を太陽として見れるようにするわけです。

これがクリアリングです。

つまり、「自分は間違った行動をしてしまった」ということ自体をクリアにするのではなく、
「そのことが、その人の本質的な価値、愛される資格を損なうことがあり得る」という思いを
クリアにするわけですね。

だから、悩みを打ち明けられたからといって、その悩みを解決するためのアドヴァイスは、少なくともクリアリングの最中はしないのです。

その代わりに、たとえどんな酷い打ち明け話があっても、
「それにも関わらず、あなたの価値は変わらない。私のあなたに対する愛は、ちっとも変わらない」ことを全身で表現しながら、ただ聞く。

そうすることで、打ち明けているも安心し、「そんなに深刻なことではなかった」とか、「まるで笑い話だな」と思ったり、
事態の深刻さは、全く変わらないけれど、また、一からやり直すエネルギーが身体中にみなぎってくるのを感じたりと、
放っておいても、自分で問題解決することができるようになります。

そうやって、自分をクリアにして初めて、
子供も含め、周りの人もクリアにできる。

つまり、彼らにも無条件の愛を注ぎ、
何があってもあなたの価値は揺るがない。私があなたを愛する気持ちは微動だにしないことを示せるようになるというわけです。

ブレーネさんの子育て論の趣旨も、子供は親の鏡だということ。
だから、親の側がまず、こうした「欠如感」を癒す必要がある。
そうしないと、それは否応なく子供に伝わり、子供に引き継がれるということでした。

どんなに親が子供に対する言動に気をつけて「私のあなたに対する愛情は、何があろうと、変わらない」ことを伝えようとしても、
本人が、自分が自分を愛せないで、いつも自分を責めていたら、その態度の方が、まず子供に受け継がれてしまうことです。

というわけで、長くなりましたが、煎じ詰めれば、無条件の愛を自分自身に注いで、自分をクリアにできる。
必要なことは、これにつきるわけです!

ではどうすればいいのでしょう?

ブレーネ さんが提案しているのは、やはり、どんなときも、ジャッジせずに、まずは無条件受容、無条件の愛を注いでくれる仲間をつくり、大切にし、
とくに自分自身を責めたくなるような、「落ち目」の時には、
「助けて!」と、サポートを頼む体勢をつくること。
つまり、「クリアリング」ができる関係をつくることですね。

でも、私、クリアリングしてくれる人がいないのですが・・・
という声も聞こえてきそうです。
これについて、ブレーネ さんは、それ以上立ち入ったことは話していません。
たぶん、アカデミックな立場から話されているせいもあると思います。

というのも、私自身、経験からつくづく思うのは、
分離した心身としての「私」が「私」を愛するのは、厳密にいうと不可能だからです。
分離した私を超えた、それより大きなものに抱擁され、愛されてる感覚なしに、
自己愛は不可能なのじゃないかって思っています。

逆に言えば、この愛が感じられるようになれば、一人でクリアリングできるようになるというわけです。

それは、簡単な実験で、感じられます。

目をつぶって、リラックスしてください。
何でもいいので、今、ここで心に浮かんだ簡単な思考を、言葉の中でゆっくり、味わいながら唱えてみます。たとえば、天気など。「今日の空は曇ってるけど、風もなくて静かだな」でも何でもいいです。

そして、その言葉ではなく、その言葉が浮かんでる空間をじっくりと味わいます。
次に、目をつぶって、リラックスしたまま、また、何でもいいので、外で聞こえる物音に気持ちを向けてみます。やはり、聴覚そのものというより、それが浮かんでる空間をじっくり味わってみてください。
この空間は、先ほどの思考が浮かんでいた空間と同じでしょうか?
両空間はつながっているでしょうか?

この空間が、本当のあなた、より大きな、スピリットとしてのあなたなんです!
「えっこんなごく普通に感じられるものが、本当の私?」なんて拍子抜けするかもしれません。

でも、これは、スルメのようなものなんですね。
スルメは、最初は単にゴムのように感じられるけれど、辛抱強く噛み続けると、深い味わいがじわじわ感じられてきます。

ちょうどこれと同じように、この種の馬鹿みたいな実験を何度も繰り返すうちに、
だんだん、この空間の驚くべき、そして甘美な性質が少しずつじわじわ感じられてきます。

たとえば、この空間は、思考抜きに私たちが何かを感じたときの、感じやすさ、受容性そのものでできています。全てに気づいていながら、ジャッジしない。

だからたとえば、「また失敗をやらかしてしまった、私ってバカね」とか、「また上司にしかられてしまった」などと、落ちこんで、自分を責める癖がでてくるたびに、
その思考が、この空間に浮かんでる様子を、先ほどのように観察して、
この空間の「側」から、その思考を感じてみます。

するとだんだん、楽になってこないでしょうか?
この空間はいつも安らか、こちらからものを眺めると、何でも「大丈夫」に見えてくるのです。

人といるときに、その人よりも、私自身よりも、両者をとりまく空間の雰囲気がどんな状態かに気持ちが向くことってありませんか?それも、この空間のことです。

そこで私たちは、皆と一つにつながり、溶け合っています。
愛、といっても、努力の全くいらない愛、一体感そのものがそこにあります。

じゃあなぜ、この空間の方こそ、本当の「私」だって思っちゃいけないでしょうか?

写真のネガポジを反転させるようなものです。

写真に一人の人が写っています。

これまでは、この人影を、「私」だと思ってきました。
つまり、皮膚に囲まれたこの「身体」と、その内部にあると思われる「心」こそ、「私」だと思い込んできました。
(私はこれを「分離した心身」と呼んでいます。他の人や環境から、皮膚の境界線で区切られ、分離してると捉えられているからです)

でも、そうではなくて、この人影の外側の空間全体の方、ネガの方に、本当の「私」があると、アイデンティティを移動するわけです。

と言っても、分離した心身の私は、否定されることはありません。
逆に深く、深く、愛されます!ネガの私、空間の私は、受容性そのもの、愛そのもの。
この空間全体に、このちっぽけな心身が、無条件に、そのすみずみまで愛され、抱擁されてる様子を、思い浮かべ、感じてみてください!

これが本当の自己愛です!

分離した心身としての「私」は分離した心身としての「私」を愛せません。
空間としての私に、こうやって、無条件に愛され、抱擁されているのを、感じてはじめて、
自己愛は可能になるのです。

もう一つ、驚くべきことがあります。
空間としての私は、分離した心身としての私だけでなく、すべての分離した心身を、全く同じように、無条件に愛してます。

逆に言えば、誰かを心から無条件に愛したとき、何だか、自分が膨張したように感じられたことはないでしょうか? 「空間としての私」の側に意識があるからです!

というわけで、子育てにおいても、人間関係においても、自分の自分に対する関係においても、それを整え、自他共に癒してくれるのは、
この空間としての、大きな私の側から、すべてを捉えること=愛そのものに浸されること

なのですね。

愛そのものに心浸されたとき、私たちがどんな行動に出るか、
目の前の人を抱きしめるか、歌い出すか、踊り出すか、全力疾走するか、がむしゃらに働きだすかもしれないし、クリエィティブで前代未聞なこと、一見はちゃめちゃなことが始まるかもしれない。全く予測がつきません。

でも、それが、愛の延長であることは確か。だから安心して、驚いていられます!

あなたの心が、愛に浸され、愛そのものになったとき、そこからは愛の延長しか出てきません。
特定の行動をとることで、愛していることを証明しようとか、愛されるに値することを証明する必要も、まったくなくなります。

人の期待に沿うために、「ああしなきゃいけない」、「こうしなきゃいけない」といった欠如感からくる行動は、すべて影も形もなくなります!

人を喜ばせるために、おべっかづかいや、ご機嫌とり、愛を得るための下心に由来する取引めいたこと、もなくなります。

「愛そのもの」の充溢の只中にいるので、
「愛のために」何もする必要がなくなるのですね!

だから一見、冷たく見えたりもします。モラルのない、アナーキーな人、犯罪者の心理に近いように見えたりするかもしれません。

でもそれこそ実は、本当のモラルの始まりなんです!

本当の理念は、そうした自由な形でしか共有されないことを示した人に、
18世期のドイツの詩人、フリードリヒ・シラーがいます。ベートーベンの第九の喜びの歌の歌詞を書いた人です。

彼の心を離れなかった一つの問題は、自由平等博愛の理想を掲げていたはずのフランス革命がなぜ、恐怖政治に終わったのかです。

彼の結論は、関係者たちが、この理想を、頭だけの概念や、道徳的な理想として共有しようとしたけれど、「美的状態」として生きるところまではいっていなかったからというものでした。

「美的状態」という言葉で彼が言おうとしていたのは、ここで私がお話ししている、空間全体に広がる本当の私でいる状態

自由や平等や博愛「そのもの」なので、
自由や平等や博愛の「ために」何もする必要はない状態のことです。

シラーはこの状態を説明するのに簡単な例え話をしています。

誰かが道端に倒れて、苦しんでいるとします。よく見ると、その人は自分の敵だった。
それに対して、無関心に素通りする人もいるかもしれないし、「自業自得」だと思ったり、復讐のチャンスにする人がいるかもしれない。助けたいけれど、勇気がでない人もいるかもしれないし、道徳的義務感や人道主義の立場から、助ける人もいるかもしれない。敵を助けることで、心の葛藤を感じながら、それでも人類愛の方が優って助ける人もいるかもしれません。

そこまでいくと、かなり美しい話になりますが、
それでも、シラーに言わせると「美的状態」とは言えない。

では美的状態にある人はどうするかというと、やはり、助けるのですが、思わず知らず駆け寄って、ただ、助ける。それだけです。

助けることが、呼吸をするように、動物が本能に従って生きるように、天性として、自然に出てくる。そんな状態で助ける人です。

他の人たちの場合のように、強制感や、義務感や、「やってあげている」感じも、自己犠牲感も、そこにはありません。
人類愛は、その人にとって概念でもなければ、モラルでもない。
その人自身が人類愛そのものだからです!

シラーは、この「美的状態」を共有するためには、芸術による美的教育が必要だと考え、
生涯を、これにささげました。
そういえば、彼の手によるベートーベンの第九の歌詞、よろこびの歌にも、その精神がみなぎっていますよね。

そんなふうに、自由、平等、博愛など、普遍的価値を持つ理想はすべて、
その「ために」生きる段階と、
その「中に」生きる状態があります。

たとえば、博愛の「ために」生きてるけれど、博愛の「中に」生きれない人にとって、
「博愛」は、自分の外にある、抽象的な概念に過ぎず、
自分がその中に全身浸ってるような、生きられた体験ではありません。
だから、同じ理想を共有できない人をギロチンにかけたりなど、
どう考えても「博愛」と矛盾するようなことを、「博愛」のためにできることになります。
フランス革命が恐怖政治に終わったのはそのせいだと、シラーは考えたわけです。

その対策として彼が考えたのは、芸術の力で美的状態、
つまり理想を単なる抽象的概念ではなく、実感として生きている状態に入る力を培うこと。
もちろんそれも有効ですが、
無条件に受容されてる感覚を、クリアリングで培う方法も、おすすめ。
実際、そうやって本当の自己愛が培われていくと、あそび心が自然にわいてきて
芸術との関係も、自然に深まっていきます。

自由・平等・博愛のような普遍的な理想は、私たちの本性、本当の自分、神性というたった一つのものを、
さまざまな角度からながめたものです。

だから、それらの「中に」生き始めると、本当の自分を自覚できるようになります。

さっきのたとえでいうと、雲をいじくりまわし、操作をするのをやめて、
ただ、太陽に至るということです!

高邁な理想のように聞こえますが、とても効率のいいことでもあるのですね。
感謝のカフェの従業員が、唯一、義務として課せられているのは、クリアリングをして、仕事を始めることだけ。

クリアリングさえうまくいけば、あとは自由に、自分のイニシアティブで動いてもらって、大丈夫だからです。

もう一つ、無条件の受容、無条件の愛にについて、
こんな疑問を持つ方がいらっしゃるかもしれません。

どんな人も、どんなものも、受け入れ、愛する・・・
ということは、どんなひどい人がいても、その人の言いなりになるということなのかとか、
向こうから攻撃をしかけてくる危険な状態でも、ただそこで、その人のやることを甘受するようにといって言っているのか・・・というものです。

これも、それはピンポイントで心の状態にだけ働きかけることを、はっきりさせれば良いかと思います。

誰であれ、「無条件」に受容したり、「無条件」に愛するというとき、
この「無条件」と言う言葉がまず意味しているのは、
「条件」でできた、物質、身体からなる世界を超えた、心の状態であること。

『奇跡のコース』ではだから、これを「この世界を超えた愛」と言ったりします。

それは努力して到達するというより、
全ての人の心の中にもともと備わってるもので、目覚めさせられるのを待っているだけ。

いったん目覚めると、他の人の心に触れて、その人の心の条件づけられていない、世界を超えた部分に働きかけ、
同じ質の心の状態を目覚めさせるというかたちでパワーを発揮します。

その人の話を聞くだけで、その人が、「条件」づけに覆われた雲を抜け出て、
燦々と輝く太陽の元にいたり、
心をクリアにするのを助けます。

でも、物理的法則をはじめ、さまざまな「条件」でできている世界の状況は変えません!
たとえば、無条件の愛を発したからといって、
自分の方に向かう銃弾が突如消えたりすることはありません。
そんなときは、逃げるしか、ないです(笑)

身体は、雲の上の太陽へと出ることはできない。
私たちにできるのは、意識を太陽の方に、気づきの空間の方に置いて、
そこから、身体を、愛し、いたわることです。
それは、危険なところは避けるように、
体質、気質に、あったところに住んだり、口にしたりするように促すでしょう。
身体をいたわることは、本当の私は身体ではないと思うことと、全然矛盾しないと思っています。

身体を問わず、
無条件に受容し、愛せる・・・この心の状態に本当に入ったら、
条件づけられた世界の中で、さまざまな条件に従いながらも、
先ほどのシラーのたとえ話の「思わず知らず」助ける人のように、
自然に振る舞えることができるようになります。

先ほどのブレーネ さんの子育て論にもあるように、
子供に、条件づけられた世界のルールに沿う行動を正しながらも、
同時に、「それがすべてじゃない。本当のあなたの価値は、太陽のように、雲に条件付けられることは決してないのよ」ということを、伝えることもできるんですね。

問題は自分を雲の集積、条件づけの集積(=分離した心身)と思うか、
それともその上の太陽(空間としての私)と感じられるか、
どちらにアイデンティティを置くか。

「雲」の世界が要請するルールに完全に添えなくても、それが全てじゃない。
「太陽」としての私の価値は揺らぎもしない。
そう思えるから、ルールにも、まるでゲームのルールに従うように、気楽に従えるようになるし、
「雲」の世界の中で、何があろうと、耐えていける、寛容になれる、ゆるせるわけです。

無条件の愛が、条件だらけの世界の中でどう発露するか、
そのこと自体とても興味深いテーマですが、
これについては、「インスピレーション」をテーマにした他の著作で、詳述することにして、
ここでは、この愛にどうやって達するか、それにはどんな性質があるかに、
話をしぼっていけたらと思います。