奇跡のコース

弱さではなく、強さからくる癒しというのもある! 癒しという言葉が真に意味すること

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簡単な瞑想をすれば、一時的に、
気づきの海のなかで、すべての意識ある存在は、一つにつながってる。
その一つにつながった意識こそ「私」だと感じることは、できます。

ただ、「常に」この状態こそ本当の自分だと思いながら、首尾一貫したかたちで、生き続けるのは、難しいです。

もちろん、普通に生活し続ける限り、皮膚の境界の中にある身体と、そこに結びついた分離した心や身体(以下「分離した心身」と呼ばせていただきます)に、一時的にフォーカスする必要がある時は、ありますよね。物理的な用事を済ませている時、車の運転をしている時など。

そんなときは、たとえば、俳優が自分の役を演じているような感覚で、動けばいいのです。丁寧に、注意深く、そこで必要と思われることはやるけれど、そうしている自分は、本当の私ではない。

そんな感じで、私も、日々、「堀田真紀子」という役柄を演じてるという感覚で生きてます。役柄は本当の私ではない。

とはいえ、この役を演じることは、俳優としての私のライフワークなので、できる限り、美しく演じたいって思っています。

私たちの分離した心身とは、世界という舞台上の、芝居の役柄のようなものにすぎないとすれば、
舞台上で、どんな悲劇が起こっても、舞台衣装を脱いで、ステージを降りれば、すべて、ちゃらになる気楽さもあります。

そんなふうに言うと、「それは、死ぬこと?」って思う方、多いかもしれません。私もそうでした。

私が学んだのは、必ずしもそうではないことです。気づきの海を感じながら、そちらこそ、本当の自分だと思うとき、私たちはもはや、舞台上の俳優ではないということ。

今、この瞬間にも、できることなんですね。
気づきの海にいることからくる一体感の方にあくまで拠点がある。
そこからくるしずかな幸せ、やすらぎをあくまで基調にした上で、
分離した心身の大冒険も、演じてるときは、何の問題もありません。
ただ、時々、舞台上のドラマにあまりに没頭してしまって、「それが現実」だと思ってしまうことがあります。

ルパートさんがよく使う比喩で言えば、名優、ジョン・スミスは、家族関係にもめぐまれ、とても幸せに暮らしているのに、ある日、自分が演じたリア王役にのめりこみすぎて、芝居上の現実を彼自身の現実と取り違えてしまい、自分はイングランドの王様で、娘たちとうまくいっていないと思いこんでしまう。

この世界が全て、皮膚の境界に囲まれた小さな身体と、そこにしがみ付いている分離した心が全てだと思い込んでしまってる私たちみんな、ある意味で、
リア王だと思い込んでしまってるジョン・スミスのようなところがあります。

でも、ある時、誰かが、「あなたはジョン・スミスで、家族関係にもめぐまれ、幸せにくらしているよ」と言ってくれたことなどがきっかけで、
ああ、自分はジョン・スミスだったと思い出す。それが、癒しなんですね。

この世界で自分が演じている役柄を演じながら、
同時に、自分の本当の故郷はこの一体性なんだってことをどこかでいつも、ちゃんと覚えてる。だから何が起こっても、どこかとぼけたような、能天気なところがある・・・・そんな状態でいる限り、癒しは必要ないというわけです。

いきなりたとえ話から始まったので、今度は実体験に即した話をしましょう。
これまでの人生の中で、人や自然や、あらゆるものとの一体性の体験をしたことはありませんか?

「体験をする」というと、何か特別な状態のように聞こえますが、
そう見えるのは、分離した心身の側から、この状態を眺めた時だけです。
さっきのたとえ話で言えば、自分はリア王だと信じこんでいる心から見ている時だけなのですね。

本当の私たち、つまり一体性の側にいる私たちにとって、それは本性、ありのままの姿、あたりまえの状態なわけです。「リア王を演じていたのは、実はジョン・スミスだった」というのと、同じくらい、それは単純で、自明な真実です。

この単純な真実を受け入れて、この一体性の状態の方に、分離した心身の方が合致して動くように調律し直し、その全てが、この一体性に仕えるように再編成していく覚悟はありますか?

この問いに「YES!」と答えるだけで、素晴らしいことです。

ただ、その場合も、もちろん、分離した心身の古い習慣、癖は、何度も何度も執拗に出てきます。だってこれまでの人生のほとんどを、その中で暮らしてきたわけですから。輪廻転生を信じる人は、何千年もの間って言うでしょう。いずれにしろ、無理もないです。

どんな時にこの癖が出てきているかは、すぐにわかります。全ておそれの動機に縁取られているからです。負けるんじゃないか、うまくいかないんじゃないか、ひとりぼっちになるんじゃないか、病み衰えていくんじゃないか・・・様々な形を取ってはいますが、一皮剥くと、分離した小さな自分を守るために、何であれ、必死になってしがみついてるものが奪い去られるおそれが顔を出します。

その全てが癒しの対象というわけです。

つまりここで言われる「癒し」とは、分離した心身の癖が浮上するたびに、それに気づいて、一体性の現実に合うように訂正していくことなのです。分離した心身が、完全に一体性の現実に仕えるようになるまで続くプロセスです。

「癒しが必要だ」というと、
「別に病んでも、困ってもいないし・・・」
「いつまでも、いつまでも、個人的な痛みや問題にしがみ付いていないで、前向きに生きなさい、前に進みなさいよ」
なんて言われます。自分はどこか欠けてる、だからそれを埋め合わせるために癒しを求めている・・・って受け取られてしまうのです。

でも、ここで言われる「癒し」は逆に、「自分には何も欠けているものはない。なぜなら全てと一体だから」ということを受け入れていくプロセス、弱さではなく、強さを受け入れるプロセスです!

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