アートとしての人生

隠遁生活5年目の総決算 少しはスピリチュアルになれたかな?と思う時、言えること

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スピリチュアルに生きるってどんなことか。
私なりにまとめると
愛を感じるための戦略を
自分は、皆とは違い「特別」なことを示し、分離をどんどん強めていくことから、
自分がどんなにみんなと「同じ」で、すべての意識と一つにつながっているかを、
深く実感することへと変えることだと思ってます。

奇跡のコースの言葉を使うと、「尊大さ」から「壮大さ」へと、
モチベーションを移していくことです。

ここ数年感の私の人生を一変させた大発見は、
誰をみても、何をみても、自分との共通点をみて、一体感を確認するという
馬鹿みたいにシンプルなことを続けているだけで、
「自分は、皆とは違い特別だ」ってことを証明するために、躍起になっていたときよりずっと、
揺るぎない自己肯定感が得られるということでした。

しかも、そこにはボーナスとして、安らぎや、愛情の増大、
宇宙の荘厳さ、自然の美しさに、しみじみと心動かされる気持ちの増大、
なによりそれらを自分自身と全く一つのものとして感じられることなどが伴っています。
「壮大さ」と言う言葉は、全然大げさではないのですね。

自己肯定感は、自分は人とは違う、そして優れていることを示すことからしか得られないと
ずっと思ってきた私にとって、これはまさに、革命的なことでした!

でもこの移行には、試行錯誤、ありました!

いい研究者になろう、大学教員になろうと、
知識や理論で武装すればするほど、
「自分はダメだ」という気持ちはおさまるどころか、
やればやるほど、まずます不十分なところが目につく悪循環にはまり。
これはキリがないなと思って、早々に大学を辞め、田舎で隠遁生活をはじめたのが、5年前。

それと同時に、奇跡のコースを始めとした、スピリチュアルな世界の探究も本格的にはじめました。

ただ、しばらくして気づいたことがいくつかあります。

一つ目は、スピリチュアルな学びそのもので、
研究者をしていた時と同じパターンを繰り返している自分に気づいたことです。
そういう場合、いくら頑張っても、心の安らは得られません

ありのままの自分はダメ、でも、スピリチュアルになり、悟りを開くことで、完全になれるかもしれない・・・という動機が、背後に隠れている場合、
スピリチュアルな学びや修行が、本当にスピリチュアルになることを妨げる可能性があります。

自分がそうしていることに気づいたら、すぐに立ち止まり、心を見つめる必要があります。
たとえば、コースのワークブックレッスンを1日でもやらないでいると、不安な自分に気づいたら、
レッスンをやって不安をなだめるよりも、
逆にレッスンをやるのは中止して、レッスンをやれないことで浮上してきたこの不安の方を、癒しが感じられるまでしっかり見つめ、ゆるす方が、ずっとスピリチュアルなことだと思います。

もちろん、そのあとで、自然に「レッスンをしたい!」という気持ちが内側から湧いてきたら、ぜひ、やってください。
ワークブックレッスンに「おすがり」するようにやるよりも、ずっといい状態でできると思います。

もう一つは、「自分はダメだ」と頻繁に感じる状況に身をおくこと、それ自体は、決して悪いものではないということです。

「自分はダメだ」と感じるのは、欠如感で、コース的にはもちろん、ゆるしの対象です。

でも、本当にそれをゆるして、そこから解放されるためには、
自分の中に、少しでも残ってるこの感情を、
どんどん浮上させて、しっかり感じる必要があります!

ゆるしをどんどん進めて、解放感を味わうには、
恥ずかしい、気が滅入る、できれば避けたい・・・そんな状況にすすんで身をさらした方がいいのですね。
逃げたり、ごまかしたりせず、この気持ちをしっかり感じれば感じるほど、
その分、深い癒しが得られ、心の平安やよろこびが得られます。

ところで、大学を早期退職して、隠遁生活5年目の私。
自分のやりたいことだけに集中できる自由も謳歌させてもらってますし、
後悔はしていませんが、
ただ、かすかな閉塞感や、退屈さも感じられてきました。

そんな気持ちを感じだしたのは、田舎生活そのものが悪いのではなく、
「もっと世界で自分の実力をためしたかった」という思いが、私の中にまだ残っていたからなんですね。
一種の自己承認欲で、エゴから来る思いの典型なのですが(笑)、
ゆるされ、昇華されるうちに、真のコミュニケーション、聖霊の体験を分かち合うところまで高められるかもしれません。

心の底に残っている、まだ成仏されないこうした思い(笑)を、しっかり見つめ、成仏させる必要を感じ始めました。

しかも、そこには深い恐れもまとわりついていることにも気づきました。
この恐れこそ、この思いがエゴから来ているということの証明なわけですが、
すると、さらに気づいたのは、私の田舎での隠遁生活の全体が、
この恐れを直視しないでいるための見事な防衛になっていたことです。
つまり、田舎に引っ込んだ動機の中には、
自分の仕事に対する批判が届かないところ、叩かれないところに逃げたいという思いが
微妙に混ざり合っていたのです。

つまり心安らかに隠遁するには、まだまだ時期尚早だったわけですね!

というわけで、成仏されていないこの思いをしっかり癒すためには、
もっともっと、自分のアイデアをいろいろ公表して、たくさん叩かれて、傷ついて、ゆるして・・・を繰り返す必要があるのも、見えてきました。

もちろんそうした一切が、コース的には「幻想」だってことも、重々承知ですが、
そのことが頭でわかるだけでなく、
心底、実感され、腑に落ちるようになるには、
癒しのプロセスを、深く、深く、くぐっていく必要があります。

つまり、心にまだまだ残っている、成仏しない思いを、
光にさらさずにはいられないところに、追い詰めていく必要があるのですね。

このことにはっきり気づく、きっかけになったのは、アメリカの社会心理学者、ブレーネ ・ブラウンさんの”Darling Greately”(邦訳『本当の勇気は弱さを認めること』)という本です。コースの本でも、非二元の本でもない。アカデミックな実証研究の成果に基づいた本です。

細かいところを見ると、意見が分かれるところも多いのですが、
全体の主張は、うなづけました。
快適な状況、コンフォートゾーンから抜け出て、
後生大事に隠してきた、自分のおそれに直面したり、
あえて傷つきやすい状況に身をさらすことを厭わないでこそ、
本当に「生きてる!」という感覚、真のよろこびを感じられるし、
自己肯定感も強めていけるというものです。
(興味がある人は、ぜひ、彼女のTEDトーク、覗いてみてください。

私の言葉で言えば、一番避けたいところ、こわいところのただ中に飛びこむ勇気がなければ、
それを超える癒しは起きないということですね。

実際、周りを見回してみて、生き生きと生きている人たちは、みんなそうだってことに気づきました。必要とあれば、リスクを犯したり、傷つくことを恐れず、事の核心にとびこめる勇気の持ち主ばかり。

私のように早々と敵前逃亡して、隠遁している人はいません。

では結局、どうすればいいのか。
5年間の私の試行錯誤の成果が、もしかしたら、お役にたつか方もいらっしゃるかもしれないので、簡単にシェアさせていただきます。

まず、「ありのままの自分じゃダメだ」「不完全だ」という欠如感、不全感を感じた時、
私たちは普通、そこで
「では、完全になろう、欠如した部分を埋め合わせ、パワーアップして出直そう」と、
努力し、頑張りますよね。

そして、自分の人生を少しでも「素敵」にしたり、「パワフル」にしてくれる、
物や成果や能力や資格や地位や所属や関係性を手に入れようと、
あくせく動き始めます。

これは、学校教育から始まり、世の中でも、奨励されている生き方ですよね。

でも、この対策法を選ぶと、やればやるほどダメなところ、不十分さが感じられてくる、欠如感の悪循環にはまります。

それが見抜けるようになると、

「一抜けた! こんな際限のないラットレースから、私、降りるわ」と、

この修羅場そのものから逃げてしまうことになります。

そしてそれがスピリチュアルに生きること思いこんだりします!
大学を辞めて、田舎に引っこんだ時の私もそうでした。

収入も下がるし、地位もなくなるし、スピリチュアルな生活がはじまったって気分にだけはなれますが(笑)

この時点で、欠如感から来る自己承認欲など、すでに完全に癒されていれば、
そこには何の問題もないです!

心安らかに満ち足りて、隠遁もできるかもしれません。

でも、そうでない場合。つまり、まだ成仏していない欠如感、不全感、無価値感が心身に残っている場合、
逆に、そうしたものが、ひしひしと感じられる修羅場にあえて身を置くことが、
真の癒しや成長のために、必要なことなのではないかと思います!

つまりそんな場合、あえて修羅場に止まる方が、時期尚早にそこから逃げるよりスピリチュアルといえるわけです。

ただその際、決定的に重要なのは、

修羅場で、「ありのままの自分じゃダメだ」「不完全だ」という欠如感、不全感、無価値感などを感じた瞬間、

それを補うための行動に走るのを、ストップできるかってことだと思います。

この瞬間、「もっともっと勉強しなきゃ」「がんばらなきゃ」、そして「見返さなきゃ」と、
そこで感じられた欠如を補う行動へ走りたくなる気持ちをグッと抑えて立ち止まれるか。

あるいは、とにかくこの堪え難い気持ちを晴らすために、お酒や甘いものやコーヒーなどの嗜好品をつまんだり、ショッピングをして気持ちを高揚させたり、SNSをのぞいて、
欠如感を麻痺させる行動に走る前に、
立ち止まれるかどうかということです。

なぜ立ち止まる必要があるかというと、
せっかく心の奥に隠されてきた成仏されていない
エゴの思いの残滓が、浮上した、
癒しのための、またとない絶好の機会を逃してはならないからです。

ここで気晴らしや、補完のための行動をはじめると、またそれは覆い隠され
心の奥深く、無意識の中へと沈んでしまいます。

深海魚が、水面をかすめたその一瞬を、逃さず、しっかり捉えて、
この感情を、ごまかさず、とことん感じてください。

はじめはとてもきついかもしれません。

一瞬だけでも、ジャッジメントをゼロにして、
自分も含め誰も責めず、ありのままに、
それを除去したい、厄介払いしたいという気持ちも忘れ、
一生つきあっていくつもりで感じます。
つまり抵抗のゼロ値(=愛そのおの)に達しながら、
それでも、この感情をじっと感じ続けると、
必ず、聖霊と合流できて、ゆるし のプロセスがはじまります。

すると、自然に、内側から、「こんなことで、私の価値はびくともしない。本当の私は、もっともっと大きな存在だ」という確信が湧いてきます。

心の一番痛いところ、きつい箇所にあえてとどまると、
闇の、痛みのただなかから、だんだん光と安堵感がひろがっていく
この癒しは、圧巻で、
言葉ではとても尽くせません。

とにかく、どうぞ、実践して、体験してください。

欠如感を感じるたびに、それを癒すことの方が、
欠如感を埋めるために、完全になろうと、あくせくいろんなものを探し回ったり、
再現ない努力を続けるより、
ずっとずっと、簡単だということに気づくでしょう。

このずっと簡単なプロセスが、
そして、私たちみんなが、結局のところ、心の底では望んでいる
本当の安らぎやしあわせに、まっすぐに運んでくれるというわけです。
ついつい、その偽物ばかりを追いかけてしまい、際限なく探究ばかりを繰り返す
悪循環の迷路にはまることも、もうありません。

長くなってしまいましたが、5年もかけて私が学んだこと、ここでシェアしたかったことは、ごくごく単純にまとめられます。

つまり、まだまだ癒されなければならないものが心に残っている限り、
修羅場を避けるのは、スピリチュアルではないこと。

かといって、修羅場のただ中で、中毒行動で修羅場をごまかすのも、スピリチュアルではないこと、
修羅場の中で、修羅場をごまかさず、しっかり見つめることからのみ、スピリチュアルがはじまること、

以上です。

読んでくださって、ありがとうございます。

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