ゆたかさからはじまる仕事

ゆたかさを探す旅 その3 クリアリングという手法

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というわけで、エンゲルハート夫妻のリトリートでは、
どんな人に会っても、
あなたがたとえどんな人であっても、どんなに役立たずでも、殺人犯だったことがわかっても、
それでも根っこのところは、いい人であるのを、信頼してる。
その根っこのところで、私はあなたを愛している。
そんなまなざしで眺める訓練をしました。

こうした無条件に受容し、愛する能力ほど、今の世の中欠乏してるものはないし、
さまざまな社会問題や環境問題なども、そこから派生してきていることについても、話しました。

だから、ひとたび、これができるようになったら、いろんなところで、応用がききます。
中でも、リトリート中に私たちがよくやったのは、「クリアリング」、浄化という手法でした。

やり方はとてもシンプルで、
誰かが、心に浮かぶこと、何でも口にして話している間、
他の人は、この無条件受容の態度で、ただ、聞く。それだけです。
それだけで、話している人は、だんだんリラックスして、気持ちも晴れていく。
その兆候がみえたところで、終了。今度は、聞き役と話役を交代して同じことをやる
簡単カウンセリングのようなものです。

このクリアリングを、感謝のカフェのすべての従業員は、仕事に着く前に、全員、必ず行い、
その時間の時給も支払っているのだそうです。
ということは、経営者側にとっては、かなりのコストになるのですが、
それでも、絶対、ためになってる、どころか、感謝のカフェ全体が、従業員すべてがクリアリングしてから仕事にのぞむことで支えられてるとさえ言うのですね。

心に何か気がかりなことがあると、今、ここに、本当にいることができません。
目の前の人のニーズも見えなくなるし、それはサービス業としてはいただけません。

ただ、私たちが普通カウンセリングというときに連想するものと違うのは、
聞き手は、「聞く」以外に何もやらないことです。

相手の話を聞いていて、明らかに「自分は解決策を知ってる!」と思って、
アドヴァイスしたり、力になったりしたくなっても、
少なくともクリアリングの最中は、それを口にはしません。

あるいは、相手がお金に困っている話を耳にして、
自分は貸せたり、良い仕事口を知っていても、
少なくともクリアリングの最中は、それを口にしません。

ひたすら、相手に無条件の愛を注ぎながら、それでもあなたは良い人、それでもあなたを信頼しています、それでもあなたを愛しています・・・そう思いながら、話をただ聞くだけです。

それだけで、どうして心が晴れるの?と思うかもしれません。

無条件の愛は、それだけで、心を安らかに、満たされた気持ちにしてくれます。
その気持ちの中で、あらためて自分の悩みを口にすると、
「な〜んだ、こんなにちっぽけなことで、私、悩んでたんだ」と笑いとばせるような心の状態になるのですね。

あらゆる問題が「ちっぽけ」に見えてくるほど、大きな大きな愛の中に、聞き手と一緒に入っていくわけです。

そう考えると、なぜ、クリアリングでは、通常の悩み相談のように、相手の悩みにアドヴァイスをしてはいけないかも、わかります。

アドヴァイスをすることで、私たちは、相手の悩みのストーリーに加担して、その中で一役を演じることになってしまうからです。

つまり、悩みがちっぽけな、笑い飛ばせるようなものに見えてくるのを助けるというより、
「大変だ、大変だ」と、一緒に走り回り、ストーリーを、リアルにするのに、加担してしまうことになります。

たとえていえば、どんなに曇った空も、雲の上に行けば、太陽がありますよね。
クリアリングは、相手と一緒に、雲の上へと上昇し、心の太陽の側から、全てが眺められるようにするためのもので、
雲そのものをいじったり、操作することではないのです。

問題を「解決」するというより、
それらがひとりでに「解消」していく境地に到達できるように、
互いに助け合う。
それがクリアリングです。

リトリートも毎朝、このクリアリングから始まり、私自身、何度も何度も体験しましたが、
そこで学んだことを一言で言うと、

不完全さの中に完全さを見出す力を鍛えられたってことです。
ようするに、今の自分が、どんな状態でも、「それでいいんだ」って肯定する力です。

たとえば、こんなに英語が下手で、さっきも、自分が本当に言いたかったことを伝えそこなった気がする・・・みたいなことを延々としゃべっても、

目の前でニコニコしながら、陽気に、楽しそうに、そして何より
「そんなこと気にしなくても、大丈夫よ。あなたは本当に素敵、私がそれを保証します」
といったやさしさで聞いてくれる人がいるわけですね。

するとこちらもだんだん気持ちが楽になり、
「そうね、言い損ないも、愛嬌かもしれないわ」などと思えてきます。

で、その後、ディスカッションが始まったときにも、自分の下手な英語に懲りて、引っ込んでいるどころか(笑)
物怖じせずに、性懲りもなく参加できるようになるというわけです。

自分の「不完全さ」を責め続ける代わりに、
そのまっただ中に完全さを見て、「まっいいか」と思う気持ちは、
完璧主義的なメンタリティから見ると、いい加減で、居直ってるように感じられるかもしれません。

でも、私自身、長いこと、完璧主義者だったこともあるので、自信を持っていうことができますが、
完璧主義は、本当に人が伸びることを妨げるし、
何より人とつながることからくる、幸せを殺してしまいます。

完璧になりさえすれば、傷つくことはなくなる。承認してもらえる・・・不完全な自分のありのままを隠すために、完璧にならねば・・・という動機が背後に隠れているときは、特に要注意です。

というのも、完璧主義のこの壁を逆に外して、
不完全に見えるかもしれない自分をさらすことではじめて、
本当の能力向上も、まわりの人とのつながりの感覚も、生まれるからです。


無条件に受容されると、自分も、同じ態度で人生を受容できるようになります。
それは、与えられた現実に対する
「こうあるべきなのに、そうではないじゃないの!」という
完璧主義的な抵抗をすべて解除していくことです。

すると、今、お話したように、不完全に見える自分自身だけでなく、周りの人や、自分の人生全般にも、完全さを見出すのを助けてくれます。

最近、読んで、感動した話が一つあります。最愛の人を失った人に、「その人との生活で、あなたが今、一番、懐かしく思っていること、もう一度、体験できたらいいのにと思っていることは何ですか?」とたずねると、帰ってくる答えは、いつも、その人との生活のごく普通の瞬間の話なのだそうです。

たとえば、「夫が台所のテーブルで、新聞を読んでいて、私が何をたずねても、生返事。かと思うと、新聞に書いてあることに怒って、急に叫んだりしてる、その場面」とか、「母が、いつまでも使い方がわからないスマホのことで、私を何度も呼び出して、見当違いの操作の後始末をさせられたこと」とか、「息子が、犬の尻尾にリボンを結び付ける悪戯をして、途方にくれた犬と庭でぐるぐる追っかけっこをしている姿」などなど。

興味深いのは、彼らが口にする「懐かしく思い出される」瞬間は、ごく普通の、とても不完全に見える瞬間ばかり。たとえば、その人が、とても素敵なプレゼントをくれたとか、あるいはとても良い子にしていて、自分を喜ばせてくれた瞬間などではないことです。

本当の幸せは、実はこういう不完全なことだらけの日常の中に隠れているんじゃないでしょうか?

でも、なぜ、私たちはそれに現場では、気づけないのでしょう? 失って初めて気づかされるのはなぜなのでしょう?

「こうあるべきなのに、そうではない!」という完璧主義的な抵抗があるからです!
至るところに、輝いてる幸せに蓋をして、躍起になってそこに「問題」を見出す癖が、やめられないからです。

この抵抗を解除して、ごく普通の毎日に、無尽蔵に隠れいる幸せを、しっかり受け取る。
その秘訣は、感謝の念です!

唐末の禅僧雲門文偃は、「日々是好日」(どんな日であれ、毎日が素晴らしい)という言葉で知られていますが、その後に、ただ、「日々・・・」とだけ言ったそうです。
好日か、そうでないかということをジャッジするのも、手放せってことなのですね。

欲しかったものを、プレゼントしてもらったり、子供が良い子にしているときに、感謝する、「特別なもの」への感謝の念だけでなく、
「今日もみんな無事」「家もしっかり建っていて、雨風しのげてる」ことに対する、「日々」への、存在への、感謝の念。

これを育んでいけさえすれば、その人は、世界で一番ゆたかな人だって言えるんじゃないでしょうか?

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