エサレン研究所でのエンゲルハート夫妻のリトリートで、
何も言わず、何もしないで、人と一緒にいながらリラックスすることを学び、
(一言で言えば、猫になる練習ですね!)
何にもしなくても、いや、何にもしないからこそ、
人と直接、心通わせることができるし、
存在レベルで無条件に愛されてることを実感できる・・・ということに気づいた話を、前回しました。
このちょっとした悟りの後、私の人間関係は、一変してしまいました。
ゆたかになったと同時に、努力のいらない、くつろいだ、楽なものになりました。
愛されるために、こうしなければ、ああしなければならない・・・と思って忙しくする
そうした一切の活動の奥には、
「自分はありのままでは不十分だ」
とという気持ちが、前提として、ひそんでいます。
それをごまかすために、
相手のために尽くしたり、喜ばせようとしたり、
自分を実際よりよく見せようとするわけですが、
そうした一切が馬鹿馬鹿しく見えて、できなくなってしまったのですね。
と同時に、無条件の愛以外の「愛」に対して、不感症になってしまいました。
理由があってあなたが好き、何か期待を満たしてもらえるからあなたが好き・・・・
そんな条件づきの愛は、すべて愛の名に値しないし、ちっともうれしくない。そんな感覚です。
「無条件の愛」なんていうと、天上的で、高尚、あるいは、宗教的に響きますが、
ぶっちゃけて言えば、なんてことはない。
「あなたが、たとえ、どんなに役立たずの、出来損ないの、嫌な性格の持ち主で、
かつて殺人犯だったことがあることがわかっても、
それでも、根はいい人だってことを、信頼しています。
そしてその根っこのところにあるあなたを、
私は愛し続けます」
ってことです。
この世の誰か一人でも、そう言ってくれる人がいて、
その気持ちを受け入れることさえできれば、
それが、本当のゆたかさの基盤になります。
でも、今の世の中、この存在レベルの愛、無条件の愛を体験するのは、とても難しいですよね。
「あなたが〜だから、私はあなたを愛しています」という条件づけられた愛ばかりが蔓延してるように見えます。
この「〜だから」には、地位や収入や名声や才能、性格の良さ、容姿の麗しさ、その人が帰属する集団の放つ威光といった型にはまったものから、
もっと個別的なニーズに応える、こだわったものまで、さまざま。
物質的、世俗的なものもあれば、精神的、スピリチュアルな価値まで、さまざまです。
内容のいかんにかかわらず、この「〜だから」がそこにある限り、
そこには条件づけられた愛特有の、共通のさびしさを分かち持っています
ありのままの私ではなくて、「〜だから」という、この衣服をまとってるから、
あなたは私を愛しているんだ・・・というさびしさです。
と同時に、この「〜だから」の部分を何とかして満たそうとする努力がはじまります。
でも、そうやって努力することそのものが、その奥にある「そのままでは不十分」という前提を裏付けることになるので、
やればやるほど「そのままでは不十分」という欠如感が定着していきます。
この欠如感は、自分の能力、キャリア、所有物、蓄えなどに投影されることにもなり、
資本主義の足るを知らない貪欲さ、働きすぎ、摂食障害など
さまざまな中毒的な活動の種がまかれます
こうして愛は一種の取引、
報いとして期待されるものに成り下がってしまいます。
そこから、「こんなに尽くしたのに報われない」、
「裏切られた」「犠牲にされた」といった
よくあるドラマのシナリオが紡がれることにもなります。
でもそこに、たった一人でいいから、
「あなたは何者でなくても大丈夫。
どんなに役立たずで、出来損ないで、ひどい性格で、殺人犯でも、
それでも、根はいい人だって私は知っています。
そんなあなたを、どんなときも、愛しています」
と無条件の愛を伝えてくれる人がいれば、
満たされない欠如をなんとか埋めようとするこの努力も終わりをつげるのですね。
それが、本当のゆたかさの体験です。
このゆたかさの体験を、自分が出会う人に伝えて
欠如感から生きている人を、充足した人に変容させる役回りを担うのが、
エンゲルハート夫妻が夢見た
地球のサバイバルを助ける、
これから必要なリーダーの資質。
「感謝のカフェ」の従業員教育のゴールだったというわけです。
無条件の愛は、無条件に伝える必要がある。
というわけで、彼らはそんな未来のリーダーを、「タオイストとしてのリーダー」とも呼んでいます。
何もしないで、存在の力、プレゼンス だけで、人の心を充足させ、安心させる人。
たとえばピンチの時、窮地から抜けるためにリーダーシップを発揮する従来のリーダーも、もちろん必要。
だけど、「そんな時でも、大丈夫。あなたは、愛されてます」ということを感じさせ、まずは、リラックスさせてくれる存在も欠かせません。
そもそも、カフェに私たちが行く動機そのものが、忙しさの只中、「ほっとしたい」オアシスを探してるわけですから。
たとえば、「自分が有能だ」ということを、証明したいために、あれこれ気を配り、完璧な接待をするウェイターがいても、なんとなく落ち着きませんものね。まず本人が満ち足りていてはじめて、人も満ち足りた気持ちになります。
タオイストとしてのリーダーが、少なくとも、カフェには必要!というわけです。