非二元のエッセンス

気づきの海として生きるのは 隠者的な生活とは程遠く・・・

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自分のやることなすこと、全て、
宇宙の意識ある存在すべてがそこに浸っているスピリットの海に立ちのぼる
波だってことを自覚している時、
どんな小さなことも、宇宙全体の意識ある存在とつながっている感じがして
迷いというもの完全になくなってしまいます。

私自身が、何処かに向かうというより運ばれていくよう。
なんであれ、最高度に集中して、忙しく立ち回っているのに、

努力なしにすべてが進んでいく感じです。

いつも、そうやって生きていければ、どんなに幸せだろうって思うのだけど、
普段の私は、波というよりは魚。
本当は波なのに、自分が海の一部なのだと認めるのに抵抗して、

私は違う。あなたと違う。
あなたは敵。私は自分を守らなきゃ。
私は、周りよりも自分が有能である必要がある・・・

そんな具合に
周りから自分を隔離する境界線を
躍起になって引き続けてる。

魚として海から分離して
境界線を引きながらやることは、
すべて自己中心的でぎこちないものになります。

そうした魚をすべて流れの中に溶け入らせ、
自分は波だったことに、気づかせていくのが、私の仕事。

人前で自分の力を示さなければならなくて、上がりそうなときには、
自分の力だと思いこんでたものが、どれほどみんなに負ってるかを思い出して。
親に、先生に、会ったこともない、遠くの国の、
あるいは、すでに亡くなってるかもしれない先達に・・・

そうして、ありがとう、ありがとうって、感謝の念にひたされながら、
彼らから引き渡されたバトンを先へつなげる役目
それを支えてくれてる無数の人のことを思う時、

承認欲からくる緊張もほどけ、
魚は波へと、戻ることができます。

波の中にあるとき、
「私」が、何かを「する」という主客の分離がなくなり、
ただ、「する」働き、
と同時にそのことに「気づいている」働きがあるばかり

「気づいている」といっても、
「私」が、一人でただ「する」ことに「気づき」ながら、
それをたとえば、あれこれ批評してる「気づき」の働きではありません。

逆に、指一本動かすようなちいさなことであれ、
「する」ことすべて、宇宙の意識ある全ての存在からなる海の一つの波頭として、
全てにつながって、全てとともになされてることに「気づいてる」働きです。

全てに全てを負っていることに「気づいている」。
だから、いつも感謝と愛に満たされています。

分離した私がなくなったからといって、
無の中へと戻り、全てを放棄した、隠者的な生活が始まるわけじゃない

魚でなく、波であるということは、
逆に、自分のやることなすこと、すべてを
全てとの協力関係の中で、ともにする
公共プロジェクトへと、変容させること

スポーツ選手や音楽家が流れに乗り
「ゾーン」に入って、卓越したパフォーマンスをする状態に
い続けることを選ぶことなのです。
宇宙を浸す気づきの海に立つ波の
思いもかけぬ多様性や、壮麗な美しさを少しでも感じ始めると、
波として生きる人生こそ、未知の世界への冒険にあふれた手に汗握る、
輝かしいものになることが、想像できるでしょう。

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