ゆたかさからはじまる仕事

本当のゆたかさを見つける旅 1 「感謝のカフェ」のエンゲルハート夫妻に学んだこと

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カフェで夢心地

エサレン・インスティチュートで、「感謝のカフェ」の創設者でオーナー、エンゲルハート夫妻のリーダーシップトレーニングのセミナーを受けてきました。

私は無類のカフェ好き。でも、カフェで働いたことも、これから働く予定もありません。

ただ、オルタナティブなビジネスには興味はあって、できれば、そのうち、これについて本などしたためてみたいとも思っていました。といえば、ほとんど貯金で生活を立てている身で、大
枚はたいて太平洋を越えてきたもっともらしい口実になりますね。でお、一番の動機は、もっと直感的、衝動的なものでした。

2年前にアメリカはベイエリアのサンフランシスコにいたときに、バークレーの「感謝のカフェ」に惚れ込んで、毎日のように通っていたことがあったのです。

図書館なんて近所にたくさんあるのに、ただここでランチするための口実として、毎日サンフランシスコから電車に乗って、バークレーの図書館に通いつめたりもしていました。

何が私にそうさせたかというと、雰囲気がパッと明るくて、ウェイトレス、ウェイターもいかにもしあわせそうで、とても美しく見えたから。

メニュー名は、すべて「私は・・・」から始まる文章で書かれています。

たとえばコーヒーは、”I am lucid”「私は目覚めている」、ココナッツベースのスムージーは、”I ambeautiful”「私は美しい」といった具合。たとえば、このココナッツスムージーを注文しようとして、”I am beautiful, please!” 「というと、金髪の巻き毛に青い瞳の天使のような男の子のウェイターが、うっとりと微笑んで、”Yes, you are beautiful・・・” と答えると、注文完了。

しかも、とてもフレンドリーで、客をよく観察しながら、「今日、何かいいことありましたか?」などと、たずねてきます。

日本に戻ってから、サンフランシスコに20年ほど住んでたことがあるパートナーにこの話をすると、「いかにも、あの辺らしい、ナルシスティックなカフェだな」などと茶化されたものです。

でもそれは、少なくともこのカフェにいるときには、ちっとも不自然に感じられなかったし、無邪気によろこんだものでした。日本のように、自己肯定感を高めることがタブー視されていない、アメリカ西海岸、ベイエリアの空気の中なら、自然にそれができたのですね。

しかも、オーガニック、ベジタリアン、ローフード専門レストランでもあるので、
食後感がとても軽く、帰り道は、まるで羽が生えたような体の軽さも、堪能したものでした。

というわけで、いったいどうすれば、こんな魔法にかけられたようなお店ができるのか、どんな企業理念が背後にあるんだろうって、ずっと思ってきたわけです。だから、その創設者、エンゲルハート夫妻がリトリートをやると聞きつけて、はるばる太平洋を渡る気にもさせられたというわけです。

当時、異国の一人暮らし、英語も下手くそ、ストレスだけはたっぷりだったこの日々、
「感謝のカフェ」のランチで、女心を高揚させ若返る心地がしたり、
子供じみた無根拠な自信をとり戻すことができたのも

当時の私は、ゆたかさや自己肯定感のよりどころを、
形あるものの中に求める必要があったからです。

ただ、今振り返って見て面白いのは、
私がこのカフェが開いてくれたドアを通って、
直感に従って、このカフェの創設者エンゲルハルト夫妻の本を読んだり、
彼ら主催のエサレン研究所でのリトリートに参加したりするうちに、
その段階からも、卒業することができたことです。

というのも、二人が力説したのは、
ゆたかさや自己肯定感は、状況にではなく、特定の形にではなく、
私たちの存在の本質に根ざしていること。
だから、一見、どんな貧しく、惨めに見える状況の中でも、
その発信源になれるということでした。

そのことを知り、実践に落としこみ、いつでも、どこでも、どんな状況でも、
ぶれずに常にゆたかさを、肯定感を発散できるようになれれば、
私たちは、自分のまわりをゆたかさの国に変えることができます。
感謝のカフェのような空間を、ホストすることもできるというわけです。

私が参加したリトリートのプログラムのほとんどは、
もともと、感謝のカフェの従業員教育のために彼らがはじめたものなのですが、
誰にとっても役に立つことがわかって、一般公開するに至ったのだそうです。

ゆたかさとは?

エンゲルハート夫妻による、感謝のカフェの企業理念は、次の通り。

感謝のカフェは、ゆたかな恵みにあふれる世界を、私たちなりに表現したものです。私たちの料理、店員は、私たちが生命に溢れ、溌剌と生きていることを祝福するものです。地球と私たち自身を祝福するために、私たちは最高のオーガニックの素材を選んでいます。地球と私たちは一つ、同じものですから。私たちは地元の農家、持続可能な農業、環境にやさしい生産物をサポートしながら、愛をこめて食べ物の支度をします。人生を愛し、ご自身を慈しみ、世界を受け入れ、寛容になり、感謝にあふれながら、必要なものはすべて与えられると思う生き方を選択できる。そんな人であることを楽しめる世界へと、私たちは毎日、あなたを招待します。ともにたわむれながら、ご自身に滋養をあたえるのを楽しんでいただければと思います。

世界と、自分のゆたかさに目を見開きながら、満ち足りた、感謝に溢れた気持ちで生きていく人を一人でも増やすのが、このカフェが仕掛ける社会運動だったというわけです。

今の世の中、多くの人がいろんなことを心配しながら生きている。心配の根底にあるのは、何か欠けてる、十分じゃない、失うのが怖い・・・
といった「欠乏のパラダイム」。エンゲルハフト夫妻によれば、このパラダイムこそ、必要以上にものをためこむ貪欲さへと私たちを動機づけ、資源の枯渇、環境破壊をみちびく張本人だといいます。

そしてそれは、必ずしも、現実に対応してるとは限りません。

私は数年前、都会暮らしから、北海道の田舎に移住してきました。その中で、カルチャーショックを味わったり、それまで見えなかったことに開眼したことは、たくさんありますが、
その中の一つに、食べ物って、有り余るほど取れるんだってことを目の当たりにしたことがあります。

まわりは、農家の方ばかり。彼らとおつきあいしたり、時々手伝ったりしてるかぎり、マーケットに出る前の、余剰生産物のおすそわけが、いくらでもいただけるのですね。

食糧生産地に住んでいる安心感を味わってから、
私自身、つい最近までその一人だったのですが、
そうしないと「食べていけない」と思って、
やりたくないこと、生きがいを感じられないこと、
世のため人のために、必ずしもなるとも思えないことまでしながら、
あくせく働くことがどれほど不条理か、つくづく考えるようになりました。

と同時に、こんなに素敵な場所にいる地元の人たちが、
私たちに、「どうしてこんな何もないところに、来たのかね?」と私たちによくたずねるのにも、驚きました。

食べ物が有り余るほど豊富なだけでなく、緑ゆたかで、いろんな生き物がいて、空が、星がきれいで、空気が澄んでて、湧き水が汲めるところも温泉もあるのに!
つまり、私たちの目からすると、「すべてがある!」場所なのですよね。

要するに、ショッピングセンターや、飲食店など、都会的な消費できる場所がないという意味で「何もない」と言われているのでしょうが、

「十分にない」「何もない」ことが、固定観念になって染みついているので、
現にあるものが見えなくなってしまってる。そんな病が、疫病のように広がってる気がします。

ここに必要なものが「ある」か「ない」か、欠如を見るか、充足を見るかは、
事実によるというより、決断の問題ともいえないでしょうか?
それが、エンゲルハート夫妻がまず強調してることでもありました。

たとえば、コップに半分水が入っているという全く同じ、「半分しかない!」と欠如に注目するか、「半分もある!」とあるものに注目することもできます。
これと同じように、現実のほとんどの状況は、このように、どちらともとれる、中間的なものだからです。

そこで、たとえばこの例でいうと、「半分もある」と思うのと、「半分しかない」と思うのは、微妙な違いに見えますが、実はこれが、人生の質を一変させる分かれ道でもあるのですね。

「半分もある!」と思うと、感謝することができますよね。
リラックスできて、心に余裕が生まれます。
今、ここにしっかりグランディングして、その質感や味わいを楽しんだり、祝福することができます。

つまり、そこにあるものが十分だと思う充足感は、
私たち自身を十分だと思う気持ちも養ってくれます。

肯定する働きは、ものと私たちの両方に作用して、両者ともに、一つのゆたかさの味わいの中に、溶け込ませていくからです。

あるものに充足し、感謝して受け取れる人は、貪欲にはならないし、自然、コミュニティ、地球を慈しみ、祝福できる人になれます。

そういう人も、どう見ても、欠如の時を迎えることはあるでしょう。
それでも、心の充足感が強ければ、「今は冬で、もう少ししたら花咲
く春、実りの秋を迎えることができる」と思うことすらできます。

感謝のカフェのロゴは、実際、こういうものでした。
状況によらない心のゆたかさが、彼らの目指すところだってことを、シンプルに物語っています。

「半分しかない!」と思うと、こうしちゃいられない、何とかしなきゃと行動したくなってしまいますよね。
つまり、その瞬間、私たちは「今、ここ」でリラックスするのをやめて、
から離れて、「あるべき」状態を探し、獲得するために動き始めます。

たとえば、田舎を見て、「ここは何もない」と口をそろえる人たちは、都会へ出ていき、
過疎化を進めることもあります。
あるいは、ここにとどまることを選んでも、何とかここを、「何か」ある場所にしようとして、いろんなものを誘致したり、開発を始めようと働きかけるかもしれません。

でも、すでにここにある空や緑や生命の営みのすばらしさを、「何もない」と言う言葉とともに無視してしまった以上、それらに対して、破壊的に振舞う可能性、十分あると思います。

エンゲルハルト夫妻が強調するのも、そんなふうに「不十分さ」を見る働きも、状況によらないことでした。現実をどう見るか、決断してえらんだ、私たちのありよう、存在の問題なのですね。

以下、二人の共著からの要約です。

ヴァカンスに出かけ、素晴らしい景色の素晴らしいサービスの素晴らしい場所にいながら、悲惨な気分だった経験はありませんか?

すばらしい夕焼けを見ても、心が乱れているせいで、いいと思えなかったことはありませんか?
私は摂食障害だった時、どんなにやせても、それでも太ってると思いこんでいました。

反面、皿洗いや床みがきをしているにすぎないのに、しっとりと幸せな気分や充足感を味わっていたことはありませんか?

つまり、自分がいかにあるか、自分の「存在」は、自分がどんな状況にあるかに左右されるものではないのです。

それにもかかわらず、私たちは、望ましい状況を手に入れれば(お金があれば、才能があれば、~に行くことさえできれば・・)、幸せになれると信じこんでしまっています。

教育にはじまり、私たちの文化全体が、何かをやって、手に入れて、どこかに到達して、状況をコントロールすることばかりにあけくれています。

これに対して、自分がいかにあるか(being)をコントロールして、状況に左右されず、どんなときにも幸せで、満足していれるような、存在beingのトレーニングは、まったく受けてはいません。

とくに、コマーシャリズムは、「これを手に入れさえれば、あなたはしあわせな存在になれる」という発想を、私たちに日々、叩きこんでいます。
でも、それは間違いです。いくら理想的な状況を手に入れても、それだけ
では、幸せな存在beingにはなれるものではありません。

理想的な状況をいくら手に入れても、それでも、欲求不満がのこり、それがさらに、もっともっとエスカレートしたものが欲しくなる、渇望が消えないことがあるのはそのせいです。
環境破壊や資源の枯渇も、元をただせば、そこから来ているといえます。

幸せになるために、状況をいくらコントロールしても、求める方向が間違っているので、決して満足することはない。それは、きれいになろうとして、鏡に映った自分の姿に、お化粧をつけていくようなもの。自分自身の存在にお化粧をつけなきゃいけないのに。

エルヴィス・プレスリーやジュディ・ガーランドやハワード・ヒューズは、どんなにすごい状況を手に入れても(巨万の富を手にしたり、才能を高く認められ、大成功をおさめたわけですから)しあわせな存在beingになる保証はないことを、身をもって示してくれているいい例だと言えましょう。

これに対して、状況がどんなにひどいものであっても、その人の存在さえしっかりしていれば、その状況を超えていけることを示す実例として、
ネルソン・マンデラやマハトマ・ガンジー、アーネスト・シャクルトンをあげることができます。

状況によらないゆたかさを感じ続けるには?

エンゲルハルト夫妻が、感謝のカフェの従業員訓練の目標にしたのは、
状況によらない「存在」のゆたかさを最大限に発する人。

そのために、一体どんな訓練を、リトリート中にしたかというと、
それはそれは変わったものでした。

たとえば、何もしないで、人といること。

え〜っそれだけ? って思いますが、
実は、理にかなってるんですね。
というのも、私たちは、充足して、満ち足りているとき、何もしないものだからです。
何かしなきゃ・・・と落ち着かないとき、自分の心を問い質してみると、
そこには必ず、「このままでは不十分だから」という気持ちが見つかるからです。

たとえば、以前の私の場合。
誰かと一緒にいるときは、いつも、
自分と一緒にいると、楽しいよ、いいことありますよ、
自分とつきあうのは有益ですよ、
自分は付き合うに値する、興味深くて、魅力的な人間ですよ・・・
ということを伝えるために、
お茶を出したり、手作りまでしたお菓子を出したり、
注意深く話題を選んで、相手を楽しませようとしたり、
とにかく、心身とも、大忙しでした。

裏を返すと、何もしない、そのまんまの私、つまり私の存在 being だけだと、不十分。
共にいるに値しない、愛されるに値しないって、思い込んでいたのですね。

エンゲルハート夫妻のトレーニングでは、この真逆のことを、やれというのです!

実際やってみると、これって、状況によらないゆたかさや、自己肯定感を、今の自分がどれだけ感じられているかがかなり正確にわかる、テストになります!
実践も簡単です。

家族でも、友達でも、誰でも身近な人といるときに、何もしゃべらず、何もせず、
ただ一緒にいるのを、どれだけリラックスして楽しめるか、
それとも、そわそわして、落ち着かなくなるか、確かめてみてください。

だんだん、アイコンタクトを避けるように、キョロキョロし始め、
さまざまな用事を、この決まり悪さから逃れる口実のように
必死で思い出しては、忙しいふりをしてその場から逃げようとしたり、
それができなければ、その場にあるテレビやパソコンや、雑誌など、手元にある印刷物をのぞきこんだりし始めないでしょうか?

家族がやっと、一堂にそろったというのに、
みんなテレビを見入ってたり、新聞から顔を上げないまま食べてる人もいたり、
誰かと「ただ、一緒にいる」ことを避けるためならなんでもやるといった具合です!
一種の対人恐怖ですね。

でも、他方で、私たちは、誰かが、何の理由も、用事もないのに、
自分とただ一緒にいるために、一緒にいてくれることに飢えていないでしょうか?

たとえば、本当に久しぶりの人が会いに来てくれたり、電話をしてくれたりして、よろこんでいると、挨拶すると間もなく「実はここに来たのは・・・」と用件を切り出されて、がっかりしたことはないですか?
なーんだ、ただ、私に会いたくてきたわけじゃないんだって思って。

巷には「あなたのしあわせを願っています」と表向きはいいなが
ら、本音は「ただ、あなたに商品を勝って欲しいんです」というだけの広告が溢れています。

以前の私はそういうことに、とても敏感でした。
何の隠れた動機もなく、全く利害関係抜きに、ただ私と一緒にいてくれて、
私の幸せを願ってくれる、そんな人、どこかにいないのかしらって、ずっと思ってたのです。
今思えば、無条件の愛に、本当に飢えていたのですね。

そのリトリートでは、8人のグループが、4人ずつ向かい合って、何も言わず、ただ見つめ合うことから始めました。しばらくしたらパートナーをずらして、別の人と同様のことをします。
そんなふうに、最初は途中でスイッチした方が、やりやすいかもしれません。

馬鹿みたいにシンプルなワークですが、
気まり悪さが途中で弾けて、
パートナーと一緒に、無条件の愛に抱き留められているような、
心地よい安心感に変わる瞬間が来ます。

私の場合は、かねがね、素敵で気が合いそうだと思ってきたカナダの田舎出身
のおっとりとしたローリーとペアを組んでいる最中、われ知らず、どっと涙が溢れてきました。
ローリーの目にも涙が浮かんでいました。

何にもしない、言わない。ただそこにいるだけで、受け入れてもらえるんだ!ってことが、
その瞬間、腑に落ちたのです!

受け入れてもらえるというより、一つの、暖かい雲の中に溶け込んで、一体でいる感覚です。
その雲の中に、一瞬、すとんと落ち込んだのです。

身体にしがみついた小さな私、エゴ同士で向かい合うと、どうしても、自分の足りなさを感じて、落ち着かなくなります。

でも、もっと大きな私、スピリット同士で出会うと、
それはすでにつながっているので、
その人と一緒に、たった一つの暖かい、愛にあふれた雲に包まれ、抱かれているような安心感に包まれます。

その瞬間、ローリーだけでなく、そこにいるすべての人とも、
一緒にこの雲の中に入っているのに気づきました。

何もせずに、この雲の中で安らっていればいいんだ・・・

それは、、無条件に、無限に、愛し、愛され、受け入れられている感覚をともなっていました。

ただ、誰かとこの中に一緒に、ありのまんまでいるだけで、十分なんだ。
何にもしなくても、100パーセント受け入れてもらえるんだ。

受け入れてもらうために、私は自分が魅力的で、有能で、あなたの役に立つ人間だって証明する必要なども、何もない。教養を身につけたり綺麗な英語が話せたり、
痩せて、きれいでいなきゃいけないなんてことも、何にもないんだ。

これほどほっと安心できる状況はありません。
太平洋の反対側、カリフォルニアのビッグサーの海辺の下手な英語がろくに通じない場所にいながら、
不思議なことに、生まれて初めて、「やっとわが家に帰ってきた」と心底思えた瞬間でした。

その後、一つ進んだプレゼンスの練習は、一人ずつ、20人ほどいた、リトリート参加者全員の前に立つものでした。

何もせず、何もいわずにみんなの前に、ただ立ってるだけです。

その間、全員は、その人をサポートしながら、愛情深く見つめます。
あなたのため、何の下心もなく、ただ、そこにいる人が、今や大量にいる状態です!

誰かとただ一緒にいて、満たされる、この一体感は、
私たちのすべての欠如感、「ありのままではダメ、不十分だ」という感覚を癒し、ぬぐい去ってくれます。

この感じを十分堪能して、しばらく経った後、最後に、
みんなに見つめられながら、立ってるその人は、その時自分が思いついたことを、
なんでもいいから、口にしたり、行動にあらわしたりするように求められます。

でもそれは、前もって計画したり、考えたりしてはダメ。あくまでその時に自然と
頭に浮かんだことでなくてはなりません。

普通、私たちが何かものを言ったり、行動したりするとき、そこにある動機は、
そのとき自分が感じている「不十分さを埋めたい」「欠如を覆い隠し、格好のいい姿を見せたい」というのが、ほとんどじゃないでしょうか?
エゴでいる時の私は、そうですね。

充足し、満たされた感じを背負いながら、即興的に何か語ったり、行動する。
文字通りインスピレーション、(スピリットの中で行う行動)になるわけですが、
それまでの私には、そうした経験、ほとんどありませんでした。

人によっては、チック症状が出たり、身体が震え出したり、あるいは、泣き出したり。ただただ、「ありがとう」という人とか、一人一人にあなたは素晴らしいと言ってまわる人などさまざまでした。

私は「天国にいるみたい」「死後の世界にでもいるみたい」と言いながらまたまた涙ぐんでしまいました。そのときは、深く考えてそういったわけでもなくて、直感的に出た言葉に過ぎないのですが、スピリットとして、一つの心として、人と出会うとき、私たちは、実際、「天国」と呼ばれる心の状態の中にいるのだということを、その後、知ることになりました。

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