ガイダンス

走り続けながら考える うながしに乗りながら、メッセージを感じるコツ

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昔、アメリカにあるサイコセラピストがいました。
彼の仕事は、まず、とにかく人の話を聞いて、
その後で、
あなたは、パラノイアです、共依存です。病気です、大変ですね・・・
でも、こうすれば治りますよ・・・私のいうことを聞いてくださいとアドヴァイスすること。

そうする中、彼が、ある日気づいたのは、
そうやって病気診断して、レッテル貼りすることが、
逆にその人を病気に仕立てて、いつまでも彼に頼らなきゃいけないようにしてるんじゃないかってこと。

もう一つ、気づいたことがあった。
エンターテイメントのメッカ、アトランティック・シティ出身の彼はもともと、物語好き。
この物語好きの観点からみると、
患者の話は、いつも最高に面白いのに、
それにセラピストが一言返すと、とたんにその面白さが消えて、
とたんにつまんない、灰色の世界が広がってしまうことでした。

そこで、今度は試しに、患者の話が始まると、
症例としてではなく、お話しとして聞き
口を挟む時も、一緒にその話にのって、続けるように勇気づけ
話そのもの展開をうながすように、心がけてみたのです。
すると回数を重ねるごとに、患者は話がうまくなり、
楽しんで、ユーモラスに、余裕を持って話せるようになり・・・
次第に症状もやわらいでいきました。

こうした経験から彼が始めたのが、
ソウル・メイキング
心魂作りをうながすという方法。

心魂は、物語られ、生きられることで、生き生き、のびのび、形成され
その中にたっぷり含まれている知恵やめぐみを、あらわにしていく。
そのプロセスを完成させればいい・・・というわけです。

心魂は、心魂は、夢や言い間違いや、
妙に引きつけられたり、気になる特定の物など、
いろんな形で私たちにメッセージを伝えようとするけれど、
精神病の症例もその一つと見るのです。

というわけで、このセラピストの名前はジェイムズ・ヒルマン。
ユング派で、元型心理学の創始者です。

たとえば、夢の中で、あるイメージ、たとえば蛇が出てきたという人がいたら、
それはペニスの象徴で、ファザーコンプレックスが背後にあり・・・
とレッテル貼りし、概念でくくって「わかった気分」になる代わりに、

「それが出てきた時、どんな感じがしましたか?」
「それは、何をしたがってますか?」
「それは、あなたに何をさせたがっていますか?」
と言った質問をして、
イメージと一緒に行動するよう、うながしていくのです。

というのも、イメージの中にあるパワーやめぐみ、知恵をあらわにするためには、
それと対話したり、一緒に行動して、物語を続ける必要があるから。

これに対して、「蛇はペニス!」と言った具合に、
「これって結局、こういうことなのね」と決めつけ
固定した概念でくくってしまうと、
心魂の活動は、たちまち動きを止めてしまいます。

なぜこんな話をしたかというと、全く同じことが、私たちがガイダンスに従う時にも言えると思うからです。

もちろん、ヒルマンが心魂、ソウルというとき、
それは、私たちの個体化をうながすもの

ガイダンスによって、分離した自己の個体性を超えて、
ワンネスを目指す私たちの案内人になる、スピリットとは異なるもの。
途中で手放す必要があると思うのですが。

流れに乗って一緒に動いてはじめて、
その含意が姿を表すところなど、
そっくりですよね

概念思考による決めつけ、レッテル貼り、結論づけ、「結局・・・でしょ?」
が始まると、とたんにアクセスが途絶えてしまうところも、全く同じです!

というわけで、どんな小さなうながしにも、とりあえずは、のって、ちょこちょこ動きつつ、

余計なことを考えず、
その意味や効用を、いちいち頭で考えて、結論づけ
例えば、何となく、歌を歌いたくなったら、ぜひ歌ってください!
踊りたくなったら、踊ってください!

そうしながら、
「どんな感じがするかな?」
「この感じは何をしたがってるんだろう?」
「それは、私に何をさせたがってるんだろう?」
「こうしながら、どちらに向かってるんだろう?」と問い、
その感じと、対話してみるのはいいと思います。

こうした問い方、見つめ方は、概念思考ではありません。
そこに個人的な動機付けは一切なく、
事象そのもの、流れそのものを見つめているわけですから。
没個性的で、どちらかというと、客観的、科学的な観察に近いかも。
でも無味乾燥とは程遠く、
うながししに乗って夢中になって歌ったり、踊ったり、文章を書いたりしてる
ノリノリの状態を推し進めて、、
それを一つの力強い、勢いのある「流れ」にするのを手伝ってくれます!

するとだんだん、次にすることが、見えてきます!

これに対して、「これは何だろう?」とか、
「何の意味があるのだろう?」
「何の役に立つのだろう?」
「それによって私は、やっと救われる」
「幸せになれる」とか
「認めてもらえる」とか
「こんな隠れた才能があったんだ」
といった思いはみんな、概念思考。

分離したちっちゃな「私」という主語がついている思いは、みんなそうです。
ガイダンスに乗りたいときは、手放したほうがいいです。

でも、そういう気持ちが湧いてきても、困った困ったと思ったり、
抵抗する必要はありません!
そこからフォーカスを外せばいいだけの話なので。

「私」という言葉を主語から目的語にずらすだけでも、役に立ちます。

たとえば、
「私は何をするのだろう?」と問う代わりに、
「この感じは、私に何をさせたがってるんだろう?」と問うてみる

そうするだけで「私」は、主体から、管、
この「感じ」、つまりこの「うながし」、この「流れ」の
通り道になりますから!

ものの意味を問い、結論づける概念思考を黙らせながら、
うながす「感じ」を見つめながら、それに従うのは、
最初は恐ろしく感じられるかもしれません。

ガイダンスに従うことは、本当の意味で、未知の世界へ足を踏み入れること
ここから何がはじまるか、なぜ自分はこれをやろうとしているのか、
それどころか
これをやってる自分が何なのか、わからない状態に耐えることですから。

ガイダンスに従って動くたびに、自分の未知の部分が現れてきて
自己定義を、毎日新しく更新するような日々が待ってるかもしれません。

ある時点で、「自分」はこんなものだという括り、
自己定義をすること自体が無意味に思えてきます。

自己定義を放棄した分だけ、流れは強まり、はっきり、感じられるようになります。
そして、この流れに、しっかり流れにのれば、流れそのものから、
「これに乗っている限り、私、大丈夫」といった安心感がにじみ出てきます。

奇跡のコースでは、ガイダンスに従う時の心構えとして次のようなアドヴァイスをしています

私には、これを含むあらゆることが、何を意味しているのかわからない。それに対してどう応答すべきかもわからない。だから私は、自分の過去の学びを、今、自分を導く光として用いることはしない(テキスト 14章6節、真理の識別法、6段落目)

「過去の学びを、今、自分を導く光として用いる」というのが概念思考です。
自分が概念思考していると気づくたびに、手放す。それを繰り返すうちに、ある日次のように、安心して言える日がくるかもしれません

私は、私が何かを知らない。
だから私が何をしているのか、
どこにいるのか、
あるいは、この世界や自分自身をどのようにみたら良いのかも
知らない (テキスト 31章6節 スピリットを認識する 17段落目)

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