アートとしての人生

ガイダンス インスピレーションの流れにいるために必要だと思われるもの

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スピリチュアルな成長がすすみ、
自己中心的な小さな「私」エゴと自分をだんだん同一視しなくなってくると、
自然に、サバイバルや野心的な動機で動くことができなくなり、
何をやっても、底が見える気がして、無意味に見えて、
「これから何をやって生きて行こう?」と思い悩む時期があるかもしれません。

でもそれは、小さな私から、もっと大きな本当の私に、人生の拠点を移すための
過渡的な段階なのですね

この段階で必要になってくるのは、
大きな私からの促し、ガイダンスに従って生きるように、
生き方の再編成をすることです。

ただ、これからガイダンスに従って生きるぞ!
と気負うこと自体、
ガイダンスが感じられる領域と同調するのを妨げる可能性があるので、要注意です。

ガイダンスを聞く一番のコツとして、
私が経験上、言えるのは、

力を抜くこと、
余計なことは考えず、
ひらめきにしたがって、
そのとき、そのとき、できる範囲でいいので、
こまめに、ちょこちょこ、、やさしく、ちょこちょこ動くこと。

でも、立ち止まらない。動き続けるということです。

スポーツや、アート、その他の御稽古ごとをある程度、一生懸命やったことがある方なら
経験されたことがあるのではないかと思いますが、
うまくいってる時に、
一瞬、立ち止まってしまったせいで、
急に流れが止まり、うまくいかなくなったこと、ありませんか?

うまくいってる時、つまり
「フロー」の中にいるとか、
「ゾーン」に入ったと言われている状態の時、
私たちは、流れに乗って、
今、やってることに没頭しています。

頭はフルに回転して、状況を分析しながら、適切な行動をとってる。
とても活動的に動いています。あなたの全ての能力が、そこに動員されてる!

ただ、一つだけそこに、絶対ないものがあります。
自意識です!

流れに乗ってる時に、立ち止まると、途端につまづいてしまうのはなぜかというと、
その瞬間、自意識が出てきてしまうこからです!

「私、よくやってるな!」とか、「いつまでこれ、続くかな?」とか、
何でもいいのですが、我に返って、自分を振り返ると、流れが堰き止められてしまうのですね。
自意識が出た瞬間、「私」と「もの」(物や行動や思考やイメージなどすべて、形を持っていて名指せるもの、全てひっくるめ、こう呼ばせてもらいます)が分離してしまうからです。

流れに乗ってるときは、「私」と「もの」が分離していません。

流れに乗って仕事をする時、
私が使う道具や仕事は身体の延長になり、手先からするする出ていく感じです。
「私」が、「もの」に働きかけるのではなく、
ただただ、「流れ」が、身体を通って、周りに広がっていくだけ。
「私」はただ、「流れ」の通り道。
「私」を通して延長していく「流れ」がある。それだけなんですね。

「流れ」の方が重要で、「私」はそれが通る「管」に過ぎない・・・ この感覚が重要です!

ただ、立ち止まって、我に返った瞬間、「私」と「もの」が分離します。
その瞬間、「流れ」は止まってしまうのですね!

水に飛び込まなきゃ泳げるようにならないというのに似たところがあります。
毎日座学して、「泳ぎ方」についての本をいくら読んでも、泳げるようになりませんよね。
分離状態から、流れに乗った状態は、学べないのです。

私のパートナーのとしさんは画家なのですが、
彼に私はこれまで何度も、これもガイダンスからなのですが、
「私も絵を描いてみたいと思う」と漏らしたことがあります。
そのたびに、彼がいうのは、
「そんなこと言う暇があったら、描け」です。
暗中模索でも何でもいいから、とにかく描いているうちに、
何を描けばいいかも、どうやって描けばいいかも、なぜ描いているのかも見えてくるのだそうです。

たとえば、絵を描きたいと言ううながしを感じた、そのこと自体はガイダンスでも、

「えっということは、私、今の仕事をやめて画家をめざせってこと?」とか
「そこに隠れて眠ってる才能があるってこと?」とか
「絵を描くことで、幸せになれる、救われるってこと?」とか、極端になると、
「絵を描くことでみんなを幸せにする、救うってこと?」
などなど考え始める。それはみんな、自意識まんまんの「立ち止まり」なのですね。

そう言う気持ちが湧いてきても、構わないのですが、
括弧にでもくくって、とりあわないで、
ただ無心に、うながしにのって、動き出してください。
そこからのみ、意味も見えてくるし、なぜ、そうするようにうながされているのか、そのわけもわかってきます。

「流れ」を勢いよく保つには、
立ち止まらず、動き続けるのが重要だと言いましたが、
でもそれは、疲れてるのに頑張って続けよという意味では全然ないです。

頑張る、つまり力を入れすぎるのも、また、「私」と「もの」の分離のもとです!
力を抜くのも重要です。

「力を抜く」ために、私がよく参考にするのは、
ルパート・スパイラさんが、IT関係の仕事をしていて、毎日パソコンを打ってる人に、
この「流れ」を途絶えさせないために言っていたアドヴァイスです。それは、

「キーボードをたたきながら、自分の手の下に、あなたの、生まれたばかりの愛しい愛しい赤ちゃんのお腹があるとイメージするとどうですか?」というものです!

赤ちゃんのお腹は、大切に、やさしく触れる必要がありますよね。
大切にいたわりながら、愛しい愛しい存在に触れ続けてる・・・そう思うと、だんだん、分離がやわらいで、また「流れ」が感じられてきます。

愛は、分離を消してくれます!
身体の皮膚の境界線を超えた、大きな私、周りのすべてのものと一つになった私に、
意識をすうーっと移してくれるからです。

先ほどから、「我に返る」とだめだという話してきましたが、
ここで「我」と言っていたのは、皮膚の境界線の中にあると(思いこまれてる)
分離したエゴのことなのですね。
自意識が強まる時、私たちが意識するのは、普通このエゴの方です。
ガイダンスを聞こえなくし、流れを止めてしまう張本人です。

でも、愛に満たされて、やさしく、大切に、いたわりながらキーボードをたたいているとき、
キーボードも私、机も私、窓から目にする風景も私・・・私は、空間全体にみなぎる、調和と静けさの全体へと、拡大して広がっていきます。
この大きな大きな私は、いつもこの流れの中にいます。

例えば、今、身の回りを見回して、そこにある全てのもの、椅子や机、パソコンやスマートフォンや鉛筆などなどに、
いつも私の暮らしを支えてくれてありがとう。
あなたがいてくれるおかげで、私があります
と、心の中で、呼びかけてみるとどうでしょう?

馬鹿みたいに思えるかもしれませんが、少しずつ空気感が変わって和らいできませんか?
あんまり気の進まないこと、
好きではないけれど、必要からやってる
仕事をしている最中、「私」と「もの」が分離しそうになった時、おすすめします。

「これから、ガイダンスだけで、生きていくぞ!」とか、
「さあ、今から、ガイダンスを聞くぞ!」思うたびに
気負いや、思い詰めた気持ちや、おそれが出てきて、
「私」と「もの」との分離が、逆に強まってしまうジレンマがあります。
こんなに緊張して、分離の強まった状態で、「流れ」に乗るなんて、不可能です!
私が、長いこと、それこそ何年もの間、はまってきた罠です!

これも「立ち止まり」の一種ですね!

そんなふうに、気負わないで、ちょこちょこ動くといいと思います。

あれこれ迷って考え続けたり、
これは正しいガイダンスだろうかと思って、迷っても、
「私」と「もの」との分離は強まるばかり

心にひらめいたこと、何でも、とりあえず、軽くちょこちょこ始めてみてはどうでしょう。

コンディションがどうも・・・準備ができてない・・・資格がない・・・
いくらでも、「立ち止まって」る言い訳、できますが、

その時、どの場で、できる範囲で、動けばいいのです。

見切り発車で、とにかく出発してみましょう!

動き出すと、「私」と「もの」との分離は、自然に和らいできます。
そうやって動いているうちに、いきおいに乗ってくるかもしれません。
見当違いの方向に走り出していても、
動いているうちに、自然に、修正されて、
正しい方向に向かっていくかもしれません。

動いているうちに、きっと、ガイダンスが作用し始めます。

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