非二元のエッセンス

気づきの海に戻る道1 今この瞬間を大切にしながら、「そのまま」逆戻り

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自分を責める癖をやめる!

ありのままの自分を、無条件に受容することで、あるいは受容してもらうことで、
存在にそなわる平安や幸せを感じるのは、割とアクセスしやすい方法ですね。

いろんな形で、自分のありのままを責める癖がついていて、
気づいてみると、いつのまにか、
あれもやってない、これもやってない。
こんな状態では、ダメだ・・・と自分に向かって言ってる。

それに気づくたびに、つらいね、いやだね。
でも、あなたのまさにそんなダメなところが、またいいんだ。可愛いんだ。
愛してるよ・・・って自分で自分を抱きしめてあげるのです。

馬鹿みたいですが、騙されたと思って、実践してみてください。

自分を責めてる自分に気づいたら、必ず、自分で自分を心の中でぎゅっと抱きしめて、愛してるよ、大好きだよって言い聞かせる。
状況がゆるせば、実際、両腕をクロスさせながら、自分を抱きしめるポーズをされてもいいと思います。

それを本当に例外なく、常にやっていると、それだけで人生が一変すると思います。

ただそれは、頑張ってやるというより、
自分にご褒美を与えるような感覚、
自分をいたわり、安らがせる、そんな感覚でやるのがいいです。

力を抜いて、愛の海の中に、心をひたひたに浸す。そんな感じです。

人によっては、状況によっては、
自分で自分を責めていることすら、気づけなくなってる可能性もあります。

無自覚な責め癖に気付くのに、いい問いがあります。

自分の望んでる状態と、自分の今の状態は、一致してるか?

と問うてみるんです。

「望んでいる状態」と、「今の状態」の間に、少しでもズレがある限り、
このズレの中に、責める気持ち、抵抗、苦しみの元、つまりエゴ、分離した心身が巣食っています。

このズレに気づいて、感じるのは、どう見ても気持ちのいいことではありません。

でも、やりがいは、あります。
このシンプルな質問は、今、この瞬間にあなたの心に影を落としてるエゴに
網を引っ掛けて、まるごと生け捕りにできるからです!

その後とうするか、これが肝心なのですが、
このエゴを退治するわけではないのに注意してください。

そうすると、エゴは、退治されるどころか、どんどん膨れ上がります。
エゴはまさにそうやって抵抗すること、否定する活動からできているからです。

逆に、このエゴのことを、「可愛い!」とか、「面白い!」とか、「いい味出してる!」って感じてる
そんな部分を心の中に探すんです。

見つかったら、その部分に、自分の意識を置いて。それこそ、自分だって思いながら、

生捕りされたエゴちゃんを、やさしくいたわり、抱きしめてあげてください。

悲しみや痛みが出てくるかもしれません。が、その中に、宝石のような美しさを見出すように、
味わってください。

怒りや悲しみを歌いながら、ゾッとするほど美しい歌でも、味わうように。

でも、少しでもその感じがつかめたら、長々と付き合う必要はありません。

重要なのは、心を、愛し、受容する部分に置くことだけ、
エゴちゃんが消えるまで、頑張るぞ! などと思わないでください。

実際、こうしたワークを繰り返すうちに、
エゴはだんだん鎮まっていきますが、
それは春になると、福寿草が芽吹くように、自然にそうなるのであって、
努力したおかげでなるのではありません。

私たちの仕事は、自分を責める側、エゴの側に自分がいるのに気づくたびに、
愛し、いたわる側に、意識を移す、それだけです。

実際には、愛し、いたわろうと努力する必要もありません。
愛し、いたわり、全ての面白がりながら歓迎する部分、
あらゆるものに対して、それしかできない部分が、
あなたの中にすでにある。
その部分を見つけて、それと合流するだけでいいのです。

理想状態は「今、ここ」に 「いつかどこか」に探さないで!

余計なことをせず、ただ、ほんのちょっと視点をずらす。
この感触をつかむまで、私もかなりいろんな回り道をしました。

ついつい自分を責めている自分を責めてしまったり、
どんな悪感情も、「無条件に受け入れるぞ」と頑張ってしまったりと、
微妙な抵抗がなかなか止みませんでした。

そこから抜けるのを、手伝ってくれたのはイギリスの非二元の教師、ルパート・スパイラさんです。
彼の対話や瞑想のビデオを訳して、
字幕入れをさせてもらいはじめてから、半月ほどたちますが、

本当の幸せ、平安、天国、悟り・・・とさまざまな名前で呼ばれているものが、
何を指しているのか、身近に、肌身で感じられるようになると同時に、
これまで何十年も、全然別のところにこれを探す罠の中にいたことが、見えてきました。

何だ、こんなに簡単なのに、ずいぶん、ややこしくしてたな・・・と驚くことしきり

本当の幸せ、平安、天国、悟り・・・とさまざまな名前で呼ばれているもののありかを探すのは、とてもシンプルでやさしいこと。難しいとすれば、シンプルすぎるからです。

一言で言うと、先ほどお話しした「責め癖」「抵抗癖」を、
微妙なものも含め完全に解除することなのですが、

そのためには、まずは、今、ここ、この瞬間のあなたの状態から出発しなければなりません。
そして、そこに気持ちよく住みつき、安らぎながら、どんどんリラックスして、心を緩めていくわけです。

何か、特定の物、客体を見たり、聞いたり、考えたりしてる普段の私たちの心の状態は、緊張しています。

この緊張をほどきながら、「そのまま」、逆戻りして、全てが一体になって安心してまどろみ、安らいでいる源泉に、戻っていけば、そこに本当の幸せ、平安、天国、悟り・・・とさまざまな名前で呼ばれているものがあるのです。

ただ、今来た道を「そのまま」逆戻りするのが、なかなか難しいみたいです
というより、あまりにも簡単過ぎて逆に難しくて、
ほとんどの人は、いつの間にか、別の道にそれてしまうのです。

なぜ、別の道にそれてしまうのかというと、「今、この瞬間」が、あまりに不十分で、理想状態からほど遠いように見えるので、
ついつい、別の「いつか、どこか」に、
この欠けたところを埋めてくれる特別の状態、特別の「もの」があると思って、
それを探そう、達成しようとします。
普通私たちが自己肯定感を高めようとするときのお決まりのやり方ですね!

そうやって私たちが求める特別の状態、特別の「もの」には、
たとえば、究極の「幸せ」「平安」「悟り」「天国」・・・といった名前がつけられています。

たとえば、いつかどこかに、目覚めや悟りといった特別なイベントが待ち構えていて、
努力すればそこに到達すると思って、いろんな修行にあけくれるのも、
みんなこの口だと思います。

でも、今、ここに、与えられているもの以外を、
いつか、どこかに、それを特別なもの、つまり「客体」として、
「探そう」とする姿勢がある限り、
この場所は、絶対見つからないんです。

ちょっと皮肉な言い方をすると、
悟りを、いつかどこかで出会える「もの」として探すことは、
たとえば、ポルシェが欲しい、豪邸が欲しい、そうすれば幸せになれると思ってるのと同じくらい、本当の悟りからは遠いのです。

私もこの罠に何十年もはまってきました。

究極の「幸せ」「平安」「悟り」「天国」・・・といったものが、
努力の末、獲得されるような、客体ではないこと、
何か特別なイベント、特別な意識状態でもない。

そういうと絶望的な気がしますが、実は、朗報なのです。
どこにもない代わりに、どこにでもあるからです。
ものではなくて、素地として。

この様子を表すのに、またもやルパートさんの秀逸なたとえを使わせてもらうと、
それは青空のようなものだからです。

毎日、たまに、雲の間に、青空がみえるような曇り空ばかりだと、
青空は、何か特別の状態だと思ってしまいますよね。
雲のように、空に浮かんぶもの、客体だと思ってしまいます!

同じように、憂鬱で、悩みばかり多い日々の合間に、
たまにとても幸せな瞬間、心静かになったり、感謝に満たされた瞬間があると、
それは、獲得しがたい、何か特別な状態だと思ってしまいますよね!

私たちがついつい、特別な客体として、「幸せ」や「平安」を探し始めてしまうのは、そのせいなのです。

そうすることで、私たちは、「青空とは、雲のように空に浮かぶ客体である」と思うのと、
同じ間違いを犯してしまいます。

そしてこの客体探しが、ますます心を雲で覆っていく・・・というわけです。

でも本当は、それは、覆いさえ取れれば、いつだって姿を表す、心の素地なのです。

そう思っただけで、ずいぶん楽ではないでしょうか?

幸福な状態が去ってしまったと思うたびに、
「幸福は本当は、去ったりしていない、そこにあるけど、覆われて見えなくなっただけ」と
試しに、自分に言い聞かせてみてください。
ずいぶん楽にならないでしょうか?

そうなると、どうにかしてこの雲を晴らしたいって思いますよね。

そこにもう一つの罠があります。
「この雲さえなければ!」「この不機嫌、この悲しみさえなければ!」と思った瞬間、
今この瞬間の「ありのまま」は、不完全、不十分だから、
より良い状態を、いつかどこかに求めようとする、分離した心身、エゴによる抵抗が始まってしまうからです。

その瞬間、「雲のない、心の晴れた状態」が、
客体化されて、
それ自体、空に所々浮かぶ、特別な「物」として求められることになっています。

源泉にもどれるか、
それとも、別の道へ逸れて、
別の特定の物、客体探しを始めてしまうか
その分岐点になるのは、

今、この瞬間の自分の「ありのまま」を否定せず、そこに敬意を表せるかどうか、
そして、そこから、一歩も離れないかどうかにあるわけです!

逆説的に聞こえますが、雲からの突破口はむしろ、雲を受け入れ、雲の只中をくぐっていくところにあるというわけです。

たとえ、それがどんなに不十分、不完全に思われようと、
今この瞬間の「ありのまま」に敬意を表して、
まずはそれを受け入れ、じっくり感じてみてください。

それを不快だ、嫌だ、みじめだ、とか、不甲斐ないと思って、
「何とかして晴らしたい」「除去したい」と抵抗しているエゴが感じられるかもしれませんが、

それと並んで、
愛情深く、いたわりながら、見つめている部分があります。
それを自分の中に見つけるのが、出口です。

こんなに頑張って、こんなに緊張して・・・ちょっと休んでみたらどう?
このままで、大丈夫、ありのままで大丈夫よ
と、やさしく、見つめてる、先ほどの、自分を抱きしめる側の自分です。

なかなか、ありのままが受け入れられなくて、抵抗がやめられなくて、
どうしても頑張ってしまうの・・・

と言っても、そんなあなたも、大好きよ。

と、ありのままと、あるべき自分の葛藤そのものも、愛情で包んでくれるような
やさしさを見つけるのです。それが青空、あなたの中の本当のあなたです。
そしてこの部分と一つに合流することで、
心の素地として、いつもそこにある青空としての幸せを思い出すことができます。

この本当のあなたの側から、
分離した心身の方を自分だと思ってるあなたを振り返ると、
実際、本当に、緊張しています。

ルパートさんがよく使うたとえがあります。
手をぎゅうぎゅうに握りしめる動作を、
何時間も何日も何年もやり続けた人が、
手を開いて、力を抜いて、リラックスして、休んでいいよ
といわれても、
もう手が固まってしまっていて、なかなかできるものではないですよね。
私は一人ぼっち、分離した自己だと思って生きている状態は、この握りしめた手に似てる。
とにかく不自然に、力んでるのです。

何か、特定の物、客体を見たり、聞いたり、考えたりするだけでも、
私たちの心は、この安らぎの場所から出て、ぴんと張り詰め、緊張しているからです。

身体の筋肉が凝ってるのと全く同じように、
客体に向かう心って、実際、無理してるんですね。
みんなと、すべてのものと一体につながっている自分
その絶対的な安らぎ、心満たされた状態に戻るには、
とにかく、緊張をゆるゆると、ゆるめていく必要があります。

でもあくまで、出発点は、この緊張、この苦しみです。
今、ここには苦しいから、いつかどこかに苦しくない場所を見つけようと、
あちこち探し回っても、うまくいきません!

今、ここにある、苦しいあなたのこの手を、ゆるめなければ、はじまらないのです。
そのためにはこの苦しさにまず向き合う必要があります。
雲から出る道は、雲の真っ只中を通る必要があるのは、そのせいです!

握りしめた指を一本、一本、ゆるめるように、
「自分は一人ぼっち、だから頑張らなくては・・・」
「世界は危険がいっぱい。あれも、これも、備えておかなければ・・・」などなど、
分離に基づくエゴの思いこみに、頑なになってる心に、
本当のあなたの安らぎを、愛を注ぎ込んで、解きほぐしていきます。

そうやって、緊張でこわばっていた心をゆるめながら、来た道を逆戻りして、源泉に戻ってくのですね。
といっても、今この瞬間の「ありのまま」、その緊張、その苦しみに触れたまま、
それがだんだん、あたたかく、やさしく、ゆっくりと溶けていくのを感じながら、
私たちがもともといたところ、源泉に向かって、
文字通り、後ろ向きにとことこ歩いていく感じです。

後ろ向きに歩くのって、不安ですよね。
進む先が見えないわけですから。
それと全く同じ感覚で、後戻りするのです。

私たちが、物を見たり、聞いたり、考えたりするたびに、
そこから外へ、緊張して身を乗り出している
大元。この源泉は、それ自体、客体ではないので、見ることも、捉えることもできません。

そこへ意識的に戻ろうとすると、
それこそ、未知の場所に向かって、後ろ向きに歩き、
どすんと、そのまま後ろ向きに倒れて落ちこむ感じです
勇気がいります

でも、ずっと触れ続けてる、今この瞬間の「ありのまま」が、
緩み緩んで、どんどん優しく、甘美になってくれ、
道案内人を引き受けてくれます。

これまで、今、この瞬間の「ありのまま」をひたすら無視したり、拒絶して、
「いつか、どこか」に、愛であれ、安らぎであれ、悟りであれ、何かいいものがあると追いかけていたのは、本当に馬鹿だったなと思います。

だってこれこそが、道案内人だったのですから!
どんなに惨めで不完全に見えても、今、この瞬間の「ありのまま」の手を離してはいけません。

すると、この道案内人は、気づいた時には、
私たちがそこから出てきた、源泉そのものになって、
もうすでに自分が両手いっぱいに源泉を抱えているのがわかるでしょう。
だから、後ろ向きに、安心して、落ち込んでいけるというわけです。

この中にいることが、本当の瞑想だと思います。
心が客体に向かい過ぎて、ちょっと疲れたなと思うたびに、
今来た道をそのまま引き返すように、後ろ向きに歩き、
海に背中から落ち込むように、思い切って、どさっと落ちこみます

そこにこそ、しあわせ、愛、全ての価値、ゆたかさの源泉があります

最初は、ただ、くつろぎ、休んで、静かな気持ちでいれるなと思うだけ
エゴが大好きな、センセーショナルで劇的な歓喜の瞬間とは違う、
あまりに普通な感じなので、
そのまま通り過ぎることも多いかもしれません。

それでも、そこへと繰り返し戻るうちに、
少しずつ、少しずつ、この領域の深さ、広大さがじわじわと、感じられてきて、
まさに、海のよう。

ああここが、本当にしあわせ、愛、全ての価値、ゆたかさの源泉なのだなってことが、
次第にわかってきます

この海の中にいるのが、本当の瞑想です。
だから瞑想は、いつでも、どこでも、できます。

今この瞬間の自分の「ありのまま」に敬意を表し、
それを抱きしめたまま、緊張をゆるめながら、後ろ向きに歩いて、
みることも、捉えることもできないけれど、抗いがたい魅力と、吸引力を放ちはじめる
この海に、どさっと後ろから落ちこむだけでいいのですから。

人生の中で、疲れを感じるたびにこれを繰り返すといいと思います。
そのたびに、
分離した心身の緊張を溶かしてくれる海の体験は、どんどん深さと広がりを増していきます。

これこそが、本当の私だという思いが、高まっていきます。
それが本当の自己肯定感の源泉になります。

なんだか雲をつかむよう。わかったような、わからないような・・・
という気がするかもしれません。

大丈夫です。この「海」を自覚したり、
いつ、どこからでも戻ってくるためのヒント、
私自身、大いに助けられたこと、今も助けられていること
これからいくつか述べさせていただきます。
人それぞれ、効くものが違うかもしれません。
どれかヒットしてくれたら嬉しいなって思いながら。
というわけで、もう少しお付き合い願えたらうれしいです。

とりあえず、今の時点では、今、この瞬間こそが、海への入り口。
それが気に入らないので、そこから目をそむて、
「よりよい未来」を求めて、いつか、どこかにそれを探し回るのをやめる必要があることだけ、どうぞ、押さえておいてください。

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