アートとしての人生

思考は本当に邪魔者? 気づきの一体感は、赤ちゃんや動物が感じる一体感とどう違うの? 

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自分は皮膚の境界に閉じこめられた、他の全てから分離したちっぽけな存在にすぎない・・・
この分離した自己の感覚からあらゆる恐れや悩みが生じているわけですが、
それを癒すためには、

自分は思いやイメージや知覚や身体感覚ではなく、
それらに気づき、かくまう空間なのだということに気づく。
壺の絵だと思ったゲシュタルト図形が向き合う二人の横顔に見えてくるような
「地と図の反転」が、欠かせません。

それが、習い性になり、意識しなくても、
当然の前提にして生きれるよう
本当に、楽になります。

気づき、かくまう空間としてい続けられるようになればなるほど、
見るもの、聞くものすべてを、はっきりした輪郭で区切り、
「〜にすぎない」と見限りながら名付けてきた、概念的な思考がだんだんゆるんできます。

それにつれ、見慣れたものも、

私はこれが何なのか、全く知らない・・・

未知のものに見え始める。これについて、これまでお話ししてきました。

こういう話をすると、

じゃあ、思考はなくなればいいの? ということは、幼児や動物の状態に戻ればいいの? 
といった疑問を持たれる方、よくいらっしゃいます。

そういうわけでもない、と思っています。

これをやっぱり、頭でだけでなく、実感として理解していただくために、
おなじみの簡単なワークをしてみましょう。

たとえば、今、目をつぶってみてください。
いろんな思いやイメージ、物音の知覚や身体感覚が、現れては消えていっていると思います
その全体を、静かに眺めてみてください。

でも本当のあなたは、こうした思いやイメージや知覚や身体感覚でもなく、その全てを、見守り、かくまってる空間だと感じながら、

この空間の方に意識を向けてみてください。
頑張ることは何もありません。
前回のブログ記事でも書きましたように
壺の絵だと思ったゲシュタルト図形が見えてくるように
これまで図と思っていたものから、その背景、地へ、視点をちょこっとずらす。それだけでいいんです。

思いやイメージや知覚や身体感覚そのものではなく、
それらをもてなす暖かく明るい空間になった感じを存分に味わったら、
目を開いてください。

実は、今、あなたがされていた作業そのものもまた、思考なのですね。
私は思考や知覚や身体感覚ではない・・・と、そこから区別する働きですから。

その後、地と図を反転させて、これまで図、背景だと思ってきたものこそ、自分だと思う。
これもまた高度な思考の働きです。

「私は知覚ではない、身体感覚ではない、自分が抱くイメージ、思いではない・・・」
これを、ルパート・スパイラ さんは、私たちが赤ちゃんの時から繰り返してきた
正常な発達の延長上にあると言います。

生まれたばかりの赤ちゃんは、お母さんのおっぱいと自分を区別しません。お母さんや、その他の人たち、自分が横たわってるゆりかごとも、一体です。

でも、次第に、「私はおっぱいではない」「私はお母さんではない」「私はゆりかごではない」ことに気づき始めます。そうして、身体に象られた分離した自己の輪郭が次第に姿を現し、

物心がつく頃には、
「私は自分の身体だ」
もうちょっと詳しく言えば、
「私は身体と、身体の皮膚の境界の中に閉じこめられ(ているように見える)知覚や感覚や思いの寄せ集めだ」
と思うようになります。

ほとんどの人は、この段階で止まって、それ以降の人生を送ります。

でも、これは、「ああでもない、こうでもない」と切り捨てていく「否定の道」を、
道半ばの中途半端なところで放棄したにすぎない! もっと徹底させなさい!
と言うのが、ルパートさん。
あるいは、そう言う時、彼が依拠してるヴェーダンダ哲学の伝統なのです。

つまり、「私はおっぱいではない」「私はお母さんではない」・・・の延長上に、
「私は身体ではない」
つまり、「私は身体の皮膚の境界の中に閉じこめられ(ているように見える)知覚や感覚や思いの寄せ集めではない」
「私はそのすべてに気づき、かくまう気づきの働きなんだ」

そう感じられるようになったとき、また、すべてのものとの一体感に戻ります。

とはいえ、それは、赤ちゃんが、お母さんのおっぱいや、おかあさんや、ゆりかごと自分が区別できなかった時に感じる一体感と、似ているようで全く異なるんですね。

一番の違いは、身体的な要素、その自己中心性、誰かや何か、特定の形を特別視するところが、こちらには全くないこと。

私は『奇跡のコース』を一通り学習したことがあるのですが、そこでは、目の前にいる任意の誰か(つまり誰とでも!)と、一つになる体験を持つことが、すすめられています。

これを初めて読んだ時、「気持ち悪いな〜 とても私にはそんなことできない」と少し恐れを感じたものでした。

でも実際に体験してみると、ちっとも、「気持ち悪く」などないのですね。
この一体感には身体的な要素が、全く含まれないからです。
そこが多分、赤ちゃんが感じている一体感と異なるところなのですね。

身体がそこに介在していないので、当然、皮膚の輪郭の中に閉じこめられている(と思われている)あらゆる個人的な思い、知覚、感覚とも無縁です。

だから、性的な一体感とも、質を異にするものです。

つまり、時間空間の中に定位置を持たない、「昔々あるところに、ある・・・」で始まるおとぎ話のような、自由に遍在する一体感です。それを感じている人と、どんなに離れていようと、どれだけ別々でいようと、まったく問題にならないような、そんな一体感です。

そして、この一体感を維持するためには、
分離した自己、身体の中に閉じこめられた自己に由来するおそれベースの思いや知覚や感覚が浮上するたびに、
例の「地と図」を反転させて見つめ直す、高度な思考の働きをフル稼働させる必要があるというわけです。

私は「身体」でもなければ、その中に現れるように思われる「知覚」でも、「感覚」でも、「思い」でもないことが分かった後も、
それらは気づきの空間の中に現れ続けます。ただ、それらが仕える主人が、
「分離した自己としての私」から、「分離を知らない気づきとしての私」へと変わっただけ。
新たな主人が身にまとう衣類や乗り物として、しなやかに再編成され、
コミュニケーションのために、創造的な活動のために、使われていくことになります。

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