アートとしての人生

思考の溶解としてのゆるし・そこから生まれる別の強さ

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何であれ、目の前のものを、特別なもの、自分のもの、すでによく知ってるものと見るのをやめて、初めて見るように、見直す。「いったいこれは何なんだろう?」「誰なんだろう?」と思いながら。

それは、英語で、すでに自分が知ってる、馴染みのものを指す時に、the をつけますよね。このtheを外して、a に置き換えたり、「何らかの」という意味の some に置き換えていくような感覚です。次第にそれは何が何だかわからないものになり、未知のものになり・・・

この遊びの中で、たとえば人の姿はどんどん無垢な姿を現し、子供が描いた無邪気な一筆書きの絵みたいになり、暖かな、しっとりした光の中に溶けていきます

嫌だなと思う出来事や、この人苦手と思うときには特に、丁寧にこの遊びをやるのを、おすすめします。

どう見ても、自分に意地悪、攻撃をしているとしか思えない。
その人が、誰なのか、何をしているのか、全くわからなくなるまで、ただ見つめてください。

攻撃されているように思われるその現場ではできなくても、大丈夫。
その後、一人になったときに、心の中にその人を招き入れ、思い浮かべながらやれれば、十分です。

子供めいた、他愛もないことに見えますが、
これは、悪を退治するよりずっと重要なこと
悪が存在する基盤を、崩していくことだから。

というのも、そこで本当に悪さをしているのは、
その人自身というよりも、その人を、その行動を「悪い」とみなす
解釈と判断のシステムであり、
それを支える思考や概念だからです。

「私にはわからない」感覚を大切にしながら、
ここで本当のところ、何が起こってるのか、これが本当は、何なのか、
私にはわからない・・・と思いながら、ただただ、見つめるうちに、
もののはっきりした輪郭がだんだんぼやけていき、
その内側から、やさしく、あたたかい光が漏れでてきます。

その瞬間、そこで本当に起こっているのは
そこに自分がかぶせてきた、
無数の決めつけや思いこみの溶解。

無意識のうちにオートマチックにスイッチが入って、
自分でも気づかぬうちに、前提にしてしまってることも含めた思考の数々。

その結果、出来事がどうしても「そのように」見える、感じられる・・・
この知覚を成立させ、支えている
思考の溶解なのです。

ものの価値を貶め、攻撃してやまない
無数の思考が世界をとびまわっています。

少なくとも、自分のもとにそれがきたときは、それを溶かす
家庭や職場の一コマとしてであれ、メディアを通してであれ、

これが何なのか、さっぱりわからないって、思いながら。

分離の思考を溶かした時に現れる別の強さ

そんなことをすれば、自分を守ることができなくなる。
人を守ることもできなくなる。
こんなに無防備でいていいの。

そういった疑問を持つ人がいるかもしれません。
でも、他の守り手が現れます。

こうした作業を繰り返すたびに、
思考が溶けて、溶けこんだ空間の輝きは増し、
それこそ、魔法の国のような壮麗な姿を呈してきます。
この空間こそが、現実、この空間こそが、本当の自分だって思えるようになります。
この空間が、これからのあなたの守り手です。

といっても半信半疑かもしれません。
実験してみましょう。
一度でも自分で直接体験してみるのは、
何百冊本を読んだり、何千回人から話を聞くより、何万回アフォーメーションを繰り返すより、
効きます!

目をつぶって、この空間を感じてみましょう。

いろんな雑念が湧いたり、
肩や背中が凝っていたりと、身体感覚で気になるところがあるかもしれません。

でも全く大丈夫。今、私たちが意識しようとしているのは、
そうした思考やイメージや感覚全てを、丁重にもてなし、かくまってる空間なのですから
壺の絵だと思ったゲシュタルト図形が向き合う二人の横顔に見えてくるように
これまで図と思っていたものから、その背景、地へ、視点をちょこっとずらす。それだけでいいんです。

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これまでぎゅっと握りしめて来た手をゆるめるような、ほっとした安らぎが心に広がっていくと思います

何かを見よう、感じようと身を乗り出すのの逆で、
みんなうっちゃっておいて、居心地のいい椅子にどっしり背をもたせかけるように
力を抜いて、リラックスして、沈みこんでいくような感覚です

自分自身に対して「わからない」感覚を持つのも、いいやり方です。
私は自分が誰なのか、何なのか、身体の輪郭がどこにあるのか、まったくわからない・・・

実際、この空間に名前や国籍や年齢や性別や、ヒストリーがあるでしょうか?

たとえば、「私は私、日本人で、女性で・・・」といった異議が湧いて来たら、それも一つの思考ですね。
大切にもてなし、かくまってあげてください。
あなたは今、そうした一切をホストする空間なのです。

実際この空間を感じていると、深い眠りのような心地よさと、
この心地よさにただ身を委ねて、すべて忘れてしまっていいんだ・・・といった忘却の感覚が広がっていきます。
ものの輪郭がぼやて、やさしく溶けていく力の源泉がここにあるのですね。

この状態をゆっくり味わった後、この空間の中を探検してみます。

まず確かめて欲しいのは、この空間に切れ目があるかということ。
ここまで行ったら、もうオシマイといった切れ目、感じられますか?
それとも、果てしなく続いてる感じがしますか?

この空間こそが私と、感じられて来たら、インタビューしてみてください。
あなたは、死ぬことがありますか?
生まれることがありますか?
老いることがありますか?
病むことがありますか?
苦しむことがありますか?

この空間を意識しながら、この空間に招き入れるように、誰かに会うと、いつもとどう違うでしょう?
その人が抱えている空間と私のこの空間が一つに溶けていく気がしませんか?

この空間を探索するごとに、明らかになるのは、
それがゆったりと広大で、自由そのものであること。
すべてをやさしく包みながら、それ自体、何者にも触れることはない。不滅で、傷つくことのないこと。

だから、この空間を感じながら、以上のような探索を何度か繰り返しているうちに、
だんだん、自分は守られてる、大丈夫だという安堵感が心に満ちて来ます。

これこそ、決して裏切ることがない、一番頼りになる強さです。
皮膚の境界に閉じ込められた、分離した小さな私が企てるあらゆるつじつま合わせ、小細工の防衛よりも、ずっと頼りになる強さです。

しばらくは、心身にしみついた癖が、なかなか取れない習慣のように現れて、
身体に閉じこめられた、この小さな私を守らなければ、頑張らなければ・・・という思いが湧いてくるかもしれません。

でも、本当の私はこの空間であることを忘れないで、
これらの思考も、その空間の方からながめていると、
こうした思考もまた、だんだん輪郭を失い、溶けていくのに気づくでしょう。

「私」は身体の輪郭で囲まれた、自分以外のすべてのものから分離した個体であると思うこと。
それ自体が、「この小さな私を何とか守り、防衛する必要がある」というすべての恐れの根本にあります。だから、この概念さえ消えれば、おそれも消えます。

ルパートさんの世界創世神話

ここで起こっていることを、神話の形にまとめたお話がありますj。
イギリスの非二元の教師、ルパート・スパイラさんが、あるリトリートの中で語っていたものです。

シバ(意識)と、シャクティ(宇宙)は、仲睦まじい夫婦で、
二人の抱擁から、見る働き、聞く働き、味わう働き、触覚を感じる働き、思考する働きなどが生まれます。

そうした子供達が、いろんな組み合わせで抱擁しあううちに、芳しく、目にも彩な風景が、どんどん生み出されていきます。すべて生命と美に満ちて、自由な舞踏をくりひろげながら、一つにつながる一体感、愛に貫かれています。

ただ、ある日、二人の子供たちのうちの一人、思考が、全てを自分の配下におさめたいという野望にとりつかれ、みんなを縛り上げ、概念の監獄に閉じこめてしまいます。

その瞬間、仲睦まじかった、シバとシャクティは離婚してしまいます。

その後、シバは思考によって輪郭を切り取られた、身体という小さな容器の中に幽閉されます。
見る働き、聞く働き、味わう働き、触覚を感じる働きといった子供達は、この父親とともに、
この小さな容器に幽閉されます。
身体に閉じこめられてからというもの、
概念思考の檻という、このフィルターを通してしか、みんな働けなくなり、
生命力を失ってしまいます。

他方、シャクティは、その容器の外側へと締め出され、物質という死んだ素材に身をやつして、ちりちりばらばらに広がっていきます。

シバとシャクティは、いつになったらまた一つになれるのでしょうか?
私たちの五感は、いつになったら、思考の幽閉から解かれ、
生命力あふれる、輝かしい世界を再び生み出すことができるようになるのでしょうか?

この解放のための合言葉こそ、「私は何も知らない」なのですね。
思考の独裁制の産物の一つ、身体に閉じこめられた分離した私が、空間全体に溶け出た後に
感じられる強さは、シバとシャクティの結婚の回復から流れこむものです。

二人の結婚が回復すると同時に、思考はあるべきもとの位置にもどり、兄妹たちとふたたび、世界創造のダンスを再開するというわけです。

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