気づきの中にのみ本当の私、本当のしあわせがあるとわかると、
幸せをどこかに探そうという態度が、なくなります。
探そうとすると絶対に見つからないのが気づきだからです。
気づきとして生きるのに必要なのは、ただ、
1、思考する自分に気づいている
2、感じる自分に気づいている
3、知覚する自分に気づいている
ことだけ。
思考する内容、感じる内容、知覚する内容については前回の記事の中でも、
何も話してきませんでした。
何を思考し、感じ、知覚するかは、
別に何だっていいからです。
写真家、エドワード・ウェストンが、野菜の切れ端を被写体として追いかけたように、
対象はなんだっていい。その辺に落ちてる石ころでもいい。
ただ、それをどこまで気づきのまなざしに浸して見れるかどうかが問題なのです。
私たちは、何か特別のことを考えると賢くなれるとか、
すがすがしい、いい気持ちやうれしさを感じることこそ幸福なんだとか
美しいもの、気持ち良いものを目にしたり耳にしたり、味わったりすると、幸せになれるって思いこんでいます。
客体中毒なのですね。
「今、ここ」以外のどこかに、何か究極のものがあると、探し回ってばかりいます。
探そうとすると、絶対に見つからないのが、気づきです。
だって、いつもいつもそこにあるものだからです。
探そうと身構えることで、すでにそこにあるものが、視界に入らなくなってしまいます。
たとえていえば、首飾りを探していて、どんなにくまなく探しても見つからない。
それもそのはず、すでにあなた、それを身につけているじゃないの! そんな感じです。
でもこの比喩はあまり正確なものではありません
気づきは首飾りのような物、つまり客体ではない、
あなた自身であることです。
首飾りと違って、あなた自身はあなたから外して、目の前に掲げて見ることはできない。
といっても、ここでお話ししているのは、
身体としてのあなたではなく、感じ、気づく働きそのものとしてのあなたのこと
そこから、全ての体験が知られ、現れる、太陽みたいな存在としてのあなたのことです。
太陽が自分のことを知るにはどうすればいいでしょう?
太陽は太陽自身をつかんで見ることはできません。
ただただ、輝き続けることで、内側から自分を感じることで、自分の本性を知ることができます。
だから、その都度の自分の体験を、ありのまま受容して、
感じ続け、気づき続けてください。
そうすれば、あなたが目にし、耳にし、考え、感じるすべてのものが、
気づきとしてのあなたのことを教えてくれます。
全てが、自分と不可分な一体をなす、愛しい、なつかしいものに感じられてきます。
*
ふたたび、気づきは探しても見つからない話に戻りましょう。
「探す」という行為自体、
探されるものが、「今、ここにはない」こと、
想像上の「いつか、どこか」で見つかることを前提にしています。
でも、気づきは、「今、ここ」でしか見つかりません。
どんなに「今、ここ」が見すばらしくて、無意味で、居心地悪く、不快に感じられても、
そこにあえてとどまって、
ありのままの状態を、感じ、見続けることができれば、
変容のプロセスが始まります。
実際のところ、それだけが、不快さからの本当の出口。幸せの本当のありかなんですね。
何か足らない、何かが十分だと思われない「今、ここ」から逃げて、
「いつか、どこか」に何か、もっといいものがあると、「探し」、気晴らしなどに走りそうになった瞬間こそ、
その不十分な感じ、何か欠けた感じを、感じ、気づき、見つめてください。
*
気づきであることの中に、本来の自分があり、究極のしあわせがあることがわかると、
しあわせのために、今、ここ以外のどこかに、何か特別なものを探し回る努力が、終わります。
そういうと、禁欲的な毎日が待ってるように聞こえるかもしれません。
でも、それはとんでもない誤解です。
逆に、うっとり、じっくり、人生を細部まで味わう、やさしい日々がはじまります。
どこかにきっと、愛せる人がいると探し回る代わりに、
道で偶然すれちがう全ての人が愛しく感じられるし、
別に美術品を求めなくても、
たまたまそこに落ちてる紙くずの、
その皺のより具合と、そこに反射する光のやさしさに
美しさを感じて、いつまでも見とれていれる。
そんなほろ酔い気分の人生が始まります。
***
写真は、エドワード・ウェストンの「夢」