気づき、アウェアネスとして生きていくって、具体的にどんなことかって思うかもしれません。
箇条書きで短くまとめると、こんなことになるのかな?
1、私は単に思考するだけの存在じゃない。 思考していることに気づいてる存在
2、私は単に感情を感じてるだけの存在じゃない。感じてることに気づいてる存在
3、私は単に知覚してるだけの存在じゃない。知覚してることに気づいてる存在
でも、それがどんな体験で、何を意味するのかを実感してもらうには、
ちょっとした実験が必要です。
原理は簡単なのですが、
聴覚→思考→身体感覚→視覚と、順番に「気づき」として捉え直す手順を説明すると、
ちょっと長くなってしまいました。
お時間のある時にでも、是非、リラックスしてやってみてください!
聴覚の気づき
目をつぶってください。
まずは、今聞こえる音、何でも、1つ選んで、その音に集中してみてください。
その後、その音を聞いてる自分を感じてください。気づいてください。
いわば、音を感じる私を感じるわけです。これが気づきです。
今度は、単に音を聞いている時と、
音を聞いてる自分を感じてるときの感じ、
この間を行ったり来たりしながら、両者を比べてみてください。
気づきの方に意識がある時の方が、音が柔らかく聞こえませんか?
身体がゆるんで、リラックししていませんか?
今度は1つの音に集中せずに、今耳に入る、全ての音でそれをやってみましょう。
まずは、全ての音を感じて、その後、音を感じている自分、気づきとしての自分を感じてみます。
音を感じてる自分を感じる。この気づきの感覚の方だけにに、じっと意識をおいて(下腹部にちょっと力を入れて凹ます感じにして、息を少し、こらすと、やりやすいかもしれません)
そこを、耳に入った音が、現れては消えていくままにして、ただ放っておきます。
どんな感じがしますか? 雑音が和らいで感じられませんか? この音、嫌いとか、気になるといった、1つ1つの音に対するジャッジメントが緩んでリラックスしてきませんか?
全体が1つの音楽のようなまとまりをもって聞こえてきませんか?
見知らぬ国の街角のバーで、一人でお酒を飲んでほろ酔い気分で、町の雑踏に耳をすませているような感じ。知らない人ばかり、意味もわからない言葉が飛び交ってる。でもなんだか、いい気分。
私の場合、気づきながら耳をすますと、ちょうどそんな気がしてきます。
音を感じる自分を感じる、気づきの感覚は、空っぽの器、あるいは舞台のよう。
この気づきの方に自分の意識をじっとおきながら、ざわめく音のこの舞台を楽しんでください。
思考の気づき
今度は、目をつぶったまま、何か考えてみてください。どんなことを考えても構いません。
重要な内容である必要は全然ありません。「今日のランチ、何食べようかな?」「こんな実験、一体、何の役に立つの?」でも何でも構いません。
その後、そのトピックについて考え続けながら、それを考える自分を感じてみましょう。
思考について気づいている、この気づきにじっと意識をおいてみましょう。
すると、この気づきの意識が、さっきと同じように、空っぽの器、あるいは舞台になって、
その中を、いろんな思考がやってきては消えていく様子が、感じられてきませんか?
*
単に考えるのと、考えていることを自覚しながら考えるのは、似ているようで、全く異なります。
気づきがそこにないと、思考は慣性に支配されます。
この世の悲劇の多くは、考えていることを自覚しながら考える人、つまり気づきながら思考できる人が、あまりに少ないことに由来しています。
高度な知能で、精緻に思考できればできるほど、そこに気づきが欠けていると、人類に対する脅威になる可能性があります。
それは、地球を何度も破壊できるほどの兵器を作ったり、ナチの強制収容所を作った思考と同質なものだからです。
でも、考えていることを自覚しながら考える、思考の気づきがはじまると、
そこに余白が生まれ、視野が広がり、インスピレーションが入ってきやすくなったり、
自分がやっていることの意義を考える深みが生まれます。
全く新たな立場から考える柔軟性や創造性、ユーモアや遊び心さえ加わります。
というわけで、思考の質を決めるのは、そこに働く知能の高さでもなければ、対象の大きさでもありません。
どれだけ深い気づきに包まれているかです。
産業革命の批判者だったイギリスの思想家、ジョン・ラスキンは、
工場で毎日、一日中ピンを作り続ける工員は、
頭の中身もピンになってしまうのではないかと、憂いていました。
でも、もちろん、そうなるとは限りません!
というのも、その工員は同時に、ピンについて考え続ける自分を感じたり、考えたりすることもできるからです。
ピン自体は小さな有限のものですが、
ピンについて考える自分は、もっと大きな、無限の広がりを持つ存在です。
それについて感じ、考えることで、心はピンの小さな世界を離れて、大きく広がっていきます。
*
この思考の気づきの感覚を、先ほどの聴覚の気づきの感覚と比べてみてください。
もう一度、音を感じる自分を感じて、聴覚の気づきに戻ってみましょう。
そして、思考の気づきとの間を行ったり来たりして、両者の感じをくらべてみましょう。
ちょっと色合い異なるけれど、両者は同質のもので、一緒に混じり合うように感じられませんか?
ぜひ、混ぜ合わせてみてください。音の気づきと思考の気づきが、ひとつながりの、継ぎ目のない一体をなすのを、確かめてみてください。
下腹部にちょっと力を入れて凹ます感じにして、息を少しこらしながら、この聴覚と思考の気づきの混合体にじっと置いたまま、
この器、舞台の中を、いろんな音や、思いが、現れては消えていく様子を、眺め、楽しんでみましょう。
身体感覚の気づき
今度は、目を閉じたまま、身体感覚に注目します。痛みや違和感を抱えているところがあったら、特にそこを感じてみてください。とくになければ、椅子と腰が触れ合う接触感など、何でもいいです。
その後、これまでと同じように、この身体感覚を感じてる私を感じてみます。
身体感覚と、その気づきの違いは微妙ですが、気づきの方に意識を置くと、
たとえば椅子と腰の間の接触面が感じられなくなり、どこから椅子が始まるかわからなくなったり、身体の輪郭が消失してしまったように感じられます。
それはうまく行った兆候です! 気づきにとっては、身体は存在しないからです!
チャレンジしてみたい人は、身体がそこにある感覚が全く消えるまで、気づきに焦点をあわせてみてください。
うまくいかない場合は、あなたが自分の身体について抱いているイメージや概念が邪魔をしています。
目をつぶったまま、感じられる身体感覚だけを意識した時、
その身体感覚に、名前や容姿、スタイル、性別、年齢があるでしょうか?
写真や鏡の中で知ってる自分の姿形が、直接の体験として、そこに感じられるでしょうか?
もし感じられないなら、それらは脇にどけて、
気づきとして、空っぽの器、舞台になったあなたの中を去来する
音や思いのダンスの仲間に加えてあげましょう。
それらのイメージや概念は、気づきの空間であるあなたの中をうごめくアクターではありますが、
この空間そのもの、つまりあなた自身ではありません。
気づきとしてのあなたには、名前も、性別も、国籍も、人種も、年齢も、強さ、弱さも、経歴も病歴もありません。
そこには、生まれたばかりの赤ちゃんのような空っぽの初期状態、無垢な状態があるばかりです。
そんなふうに、今、身体感覚を感じられるところすべてを感じながら、
そのように感じてる自分を感じる気づきの方にぐっと意識の焦点を合わせて、
そちらのボリュームを大にしてみましょう。
今の時点で、身体がそこにある感覚が全く消えるところまでいかなくても、大丈夫です。
まだまだ残る身体感覚を、ありのまま、じっくりと味わってください。
そんなふうに、あなたの身体感覚を、気づきそのものとして十分堪能したら、
これまでと同じように、これを他の気づき、聴覚や思考の気づきと比べてみます。
それらとの間を行ったり来たりして、
全く継ぎ目を感じることなく、移行できる、一つながりのものだってことを確認してください。
聴覚、思考、身体感覚は、それぞれ全く別物だって思いますが、
それぞれに気づいている感覚は、同質のもので、分かち難く溶け合っていきます。
聴覚、思考、身体感覚を感じる気づきの溶け合った大きな器、舞台として、自分を感じてください。
その中を、あなたの全ての体験が、音や思考や身体感覚といった様々な形をとりながら、
自由にうごめき、踊りながら、現れては消えていきます。
その一部始終を、あなたはじっと、気づきながら眺め、楽しんでいます。
でも、気づきとしてのあなた自身は透明で空っぽの器、舞台そのものなので、中の輪舞に加わることはありません。
ちょっと脇道 純粋な気づきとしての私に、インタビューしてみる
今度は、そこで繰り広げられている輪舞は、そのまま放って置いて、
この空っぽの器、舞台としての私だけを、意識してみてください。
体験の輪舞には加わらないけれど、
そこに、みんな、いてちょうだいと、
それがありのままに、繰り広げられるのをゆるし、かくまい、
静かに感じ、見つめている私です。
気づいている「内容」を取り払ったあと、
気づきの働きだけになった純粋な気づきは、
感じやすさと受容性そのものとして、太陽のように、輝いています。
これが本当の私です。
この本当の私、純粋の気づきに、今、インタビューをして、本当の私について、教えてもらおうと思います。
まずは、次のように聞いてみましょうか?
あなたは、死ぬことはありますか?
「人間だから死ぬに決まってるでしょう?」などと、思考で答えてはいけません。
思考には黙ってもらっていてください。
思考も含め、聴覚、身体感覚などに由来する、他の体験についても気づいている、
気づきの意識に答えてもらいます。
あなたの全ての体験を感じながら見つめ、ありのままであることをゆるしている、気づきの太陽に答えてもらうんです。
気づきの太陽から、先ほどの質問に対する答えが返ってきたと思ったら、今度は次のようにたずねてみましょう。
あなたは、生まれることがありますか?
うまくいけば、「私は生まれることもなければ、死ぬこともない。いつもいつも恒常的に存在している」という感触が返ってくるはずです。
でも、私がそういうからといって、そういう思考をこちらから押し付けないで、自分で、答えを聞いてください。
そして、その答えが、あなたを心の底から、ほーっと安堵させ、満たされた気持ちにしていくのを、実感してください。
気づきは時間を知らないので、老いることもなければ、生まれたり死ぬこともありません。
それが本当のあなたの姿です。
*
時間を超えたこの気づきの本性に近づく別のやり方もあります。
子供の時の自分のこと、ティーンエイジャーの頃の自分のこと、若者としての、壮年期・・・の自分のことなど、違う時点の自分のことを思い出しながら、
「身体の細胞もすべて入れ替わっているし、姿形も、その都度関心のあることや頭の中身も、周りの状況も全く違うのに、なぜ、これらの人物が、みんな自分だってわかるのだろう?」
と問うてみるんです。
すると、「私だから!」という当たり前の答えが返ってきますよね。
その後、これらの様々な人物を、全て「私」だって感じさせてるこの共通項、
「私」の感覚に沈潜してみます。
子供の頃の私、ティーンエイジャーだった頃の私・・・今の私で、この「私」の感覚に違いがあるだろうか?それは同じものじゃないだろうか?
そう思いながら、この「私」の感覚を味わっていると、時を超えた「私」、
ずっと忘れていたけれど、なつかしい、誰よりも、何よりも親密な「私」の
なんとも言えない甘美さがじわっと、静かに心に広がるのを感じられないでしょうか?
これが気づきとしての「私」です。
輪廻転成を超えて、ずっと一緒にいる「私」です。
この私には国籍も、人種も、性別も、年齢も、職業も・・・ありません。
生まれたばかりの赤ちゃんのような無垢さと、
どんな高齢に人にもかなわないような智恵の両方に満ちた存在です。
この「私」に意識がある限り、私たちは人の間のどんな垣根も知らないコスモポリタンになれます。
*
話をインタビューに戻してみましょう。
この気づきとしてのこの「私」へのインタビューの続きです。
今度は、
「あなたは自分を何と呼びますか?」
とたずねます。くれぐれも、頭で答えないでください。
気づきの太陽から、答えがじわっと返ってきて、感じられてくるのを静かに待ってください。
一番ありそうな答えは、「私」です。
ただ、私がそう言うからといって、頭で納得するだけじゃなくて、
自分でたずねて、この答えが返ってきた時の感触の全体、不思議さ、驚異の感覚の全体を、あますところなく、味わってください。
それができたら、今度は次のようにたずねます。
「あなたは何をしていますか?」
これも頭で答えないでください。実際に、答えを聞いてください。
そうたずねた時に、私がいつも、真っ先に感じられる答えは、
「私は愛してる」「私は自分を愛してる」
というものです。
「自分を愛してる」と言うと、ナルシシストに聞こえますが、
後ほど、確認できればと思いますが、
すべての体験は気づきからからできているので、
気づきにとって「自分」とは「全て」と同じ。
「全てを愛してる」というのと同じなんですね。
あるいは、「私は気づいてる」「自分自身に気づいてる(「全てに気づいてる」と同義)」
あるいは、「私は存在する」かもしれません。
それが組み合わされて、「私は自分に気づきながら愛してる」
「私は存在しながら、存在する自分に気づいてる」など、いろんなバリエーション、考えられます。
いずれにしろ、すみずみまで受け入れる愛と、
すみずみまで見渡し、感じ、気づく知性がそこに息づいているのが感じられてくるのではないかと思います。
インタビューの続きですが、そこまでたずね終わったら、今度はぜひ
「あなたは、動揺することはありますか?」
とたずねてみてください。
他にも、「あなたは、悲しむことはありますか?」 「怒ることはありますか?」 など、
同じことを、別の形でたずねられてもいいと思います。
その時、一番切実で、リアリティのある質問の仕方をされるといいと思います。
たずねている相手が、純粋な気づきであり、
知覚され、感じられ、思考される体験の輪舞の中の誰かでなく、
それをかくまう器、舞台そのものである場合、
そこからは、ただ、絶対的な平安が放射されるばかりです。
*
今後も、たとえば、動揺したり、自信喪失することがあって、
もう一度、本当の自分、自分の本来の姿を取り戻したいと思ったら、
その都度、こうしたインタビューをするといいと思います。
気づきとして生きるとは、
思考が語る私の定義に耳を貸すのをやめて、
気づきの語る私の定義に耳を傾けること、
平安で、愛に満ち、不死。
疲れを知らず、老いもしらない存在として生きることです。
視覚の気づき
ここまできたら、最後の難関、視覚の気づきを、そこに加えてみましょう。
まずは目をつぶったまま、
そこに去来する音や思考や身体感覚そのものではなく、
そうした全ての体験を感じている自分を感じている、気づきの方に、じーっと意識の焦点をおきます。
ちょっと下腹を凹ます感じで力を入れて、息を少しひそませると、やりやすいかもしれません。
とにかく、自分は空っぽの器、舞台であることに徹して、
自分の中を、そこをうごめく音や思考や身体感覚の体験の輪舞自体には触れず、
ただそれをかくまってる。
この状態で、少しずつ、1ミリずつ、ゆっくりと薄目を開けながら、
そこにぼんやり、少しずつ目に入る色の揺らぎを
この体験の輪舞の中へと加えていきます。
あなたの気づきの舞台上ですでに繰り広げられているこの輪舞の中に、視覚的な体験も招待するのです。
そうやってゆっくり目を開き、
目がしっかり開いた時には、目に見えるもの全てが、この輪舞の中に加わるようにします。
普段とどう物の見方が違いますか? 全体が静かな、やわらかく、やさしい質感に浸されて、静物画のように見えてきませんか?
*
このやり方でうまくいかないときは、
これまでと同じプロセスを視覚で繰り返してみます。
まずは普段と同じようにただ物を見てから、
次に物を見ている私を感じます。
両者の感覚を比べながら、
だんだん視野を広げて同じことにチャレンジ。
目に入るものすべてを眺めながら、
それを眺めている自分を感じることができたら、
だんだん、後者の方、視覚に気づいている私に意識を置いて、
そちらのボリュームを大にしていきます。
そして、それを、これまで確認してきた聴覚の気づき、思考の気づき、身体感覚に気づきと比べながら、それらと混ぜ合わせ、一つながりの空間をなしていく様子を確かめてください。
今や世界全体に広がった、あなたのこの気づきの器、この空っぽの舞台に、
今や全ての体験が勢ぞろいしました。
それらの体験が、色鮮やかに、輪舞する様子を楽しみながら、
これからもずっと、できる限りこの観察者の状態のままで、1日を生きてみましょう。
この実験・瞑想をしても、しなくても、体験の内容が変わるわけではありません。
私たちの日々の体験に、新しく何かを付け加えるわけではありません。
ただ、いつもいつも、そこにある体験の核心、本性を自覚しながら、
この深みから、同じことを体験するだけの話。
でもこの自覚があるかないかで、人生の質は一変してしまいます!
静けさ、平安、美と、すみずみまで自覚しつくす知性にひたされた1日が始まります。
(画像は、アメリカの写真家、エドワード・ウェストンの貝殻。私は彼の作品に、視覚の気づきを、強く感じます。視覚の気づきについて、彼にたくさん教えてもらいました。)