非二元のエッセンス

身体は実は「ない」ことに気づく誘導瞑想スケッチ

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最近、イギリスの非二元の教師、ルパート・スパイラさんのティーチングに夢中になってます。
彼のウェブサイトに、これまで彼が世界各地で行ったリトリートやイベントの映像アーカイブがあって、
数え切れないほど見せてもらいましたが、
とくに、ヨガ・メディテーションと呼ばれてるセッションが素晴らしいです。

非二元のティーチングをほぼ完璧に頭で理解してはいても、情緒不安定がおさまらなかったり、どこか「癒されてない感」が残るのは、身体がその理解について行っていないから。私にも大いにそんなところがあったのですが、どうやらそういう人、世界中にいるみたい。

その人たちに向けて、そのギャップを埋めるために考案されたのが、ヨガ・メディテーションです。

これこそ、ルパートさんの精髄と思えるのですが、皆さんにシェアするにはいくつか難関があります。
一つは、もちろん理由があってだと思うのですが、ヨガ・メディテーションの映像は、YouTubeなどで一般公開はほとんどされていない(少しはあります)有料コンテンツになること、
二つ目は、目を瞑るように指示されているので、字幕をつけても、使いようがないことです。

将来的に吹き替え版をつくってみたいって思ってるのですが、
その前に、私、自分が「ヨガ・メディテーションのここがすごい!」と思ったところを、あれこれ組み合わせて、すでにお友達と一緒にシャアしはじめました。

今月は北海道で、自然と一つになるテーマのお祭りの行事の一環として、来月は熊本で、この手の瞑想を中心にしたイベントをさせていただく予定です。

その準備をしているうちに、ヨガ・メディテーションをベースにした誘導瞑想のアイデアが、私の頭にも次々と浮かび始め、まずは自分で瞑想して試しながら、内容を少しずつ書き下ろしはじめました。

ルパートさんのビデオなどから、基本的な構想を含め、アイデアをもらったところ、たくさんありますが、組み合わせ方や順番を変えたり、新しいアイデアを加えたりと、かなり自己流になってます。

だから、彼にたくさんのことを負っていることをはっきりさせて、彼にクレジットを与えながらも、
やってみたけど、全然効果がなかったり、とんでもないことが起こっても、
私に全責任があるかたちで、シェアさせていただきますね。

ルパートさん自身も、彼の師、フランシス・ルシールさんに学び始めて程なくして、
自分流の誘導瞑想づくりをはじめたそうです。そんな彼なので、きっと喜んでくれるはず。

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これから、直接体験されることだけに基づいて、身体を探る冒険をはじめます。

身体についての思考やイメージは、身体そのものの体験ではありません。

これから探求する身体が何で「ない」かをはっきりさせるために、
まず、自分の身体について思考してみてください。
たとえば、国籍、人種、ジェンダー、年齢、健康状態、体重・・・などについて考えることができますね。このすべては、身体についての思考で、直接体験ではないので、脇に置きます。

次に、自分の身体のイメージを思い浮かべてください。写真や鏡で知ってる姿などを思い起こすといいでしょう。このすべては、身体についてのイメージで、直接体験ではないので、脇に置きます。

これからの探索中に、身体についてのこうした思考やイメージが出て来たら、
すぐに脇においてください。

後に残るのは、内から直接、感じられる、身体感覚です。
それがこれから探索する対象です

ゆったり椅子に座り、目をつぶって、リラックスします。
両手のひらをゆったり合わせてください。
両手の間に感じる触感を意識してください。
右手と左手のひらがあるにも関わらず、そこで感じられる触覚そのものはたった一つですよね。
そのたった一つの触覚をじっと感じてると、
だんだんそれがゆったり脈打つバイブレーションや流れのように感じられてくるかもしれません。
その動きを追いながら、だんだん、物理的な手がそこにあるのは、忘れてしまうほど、それだけを集中的に感じてみてください。

この脈打つバイブレーションを、同じくらい強く感じ続けながら、
両手のひらを、少しずつ開いていきます。

最初は指先だけくっついた状態で、
この脈打つバイブレーションのエネルギーの球を、丸めた両手に抱えたまま、
少しずつ、少しずつ、両手を離していくのです。

ある程度離したところで、両手を離す動きを止めてください。
そして、手の間に感じられるエネルギーを、まわりの空間全体を満たしているエネルギーと比べてみてください。

手の間にあるものの方が、少し濃度が強いのですが、基本的に同じ質のものが、周りの空間全体、世界全体にみなぎっているように、感じられないでしょうか?

しばらく、目をつぶったまま、それを感じてください。

そうやって世界を浸し、自分も浸すこのエネルギー、この意識を
静かに感じてると、
だんだん、身体感覚が薄らいでいくのに気づくかもしれません。

たとえば、今、自分の身体の境界線がどこにあるか感じられるでしょうか?

そこにあるのは、中身の詰まった固体というよりは、
脈打つ波のようなバイブレーションのようなものではないでしょうか?

両手が足に接するところや、
腰が椅子に、足が床に接するところでは、
まだ重みや、接触の感覚が感じられるかもしれません。

「ここに身体がある」とか「そこに椅子がある」とか「床がある」といった思考やイメージもすべて外して、
今、現に感じていることだけに、ただ集中してみてください。

すると次第に、こうした重みや、椅子や床と接触しているという感覚自体もまた
同じように、脈打つ波のようなバイブレーションでできているのに気づくかもしれません。

もっとくわしく調べるために、もう一度、自分の手のひらの間や、自分の周りや、自分の身体が同じ脈打つバイブレーションでできていることを感じてきた、これまでのプロセスを、
さっとおさらいして、もう一度なぞってみます。

ただ、今回は、両手の間の触覚が、エネルギーの球のように感じたり、
周囲の空間とひとつながりの脈打つバイブレーションの波のように感じているのは、
一体、誰だろう?
ということに集中しながら、あらためて意識しながら、やってみます。

とらえにくいかもしれませんが、
そうしたものをずっと感じられたからには、そこにそれを感じる存在がいたはずですよね。

それができたら、今度は、あなたの中の、この一部始終を感じ、見とどけてきた、
この「感じる」部分を、
今度は、「鳥」のイメージに凝集させてみてください。

この鳥は、今、現にあるものを、感じ、気づくことしかできません。
生まれたての赤ちゃんのような存在で、
過去の記憶もなければ、未来をわずらうこともなく、
とにかく思考することが、全くできない。
無邪気で無垢な存在です。

と同時に、全身が、感じ、気づく意識だけでできた、いたって明晰な存在です。
どこでも自由に飛びまわりながら、自分が飛んでいる部分を、思考抜きで、
全身で感じ、気づいています。

この鳥を放って
あなたの身体感覚のバイブレーションの中を、
頭から順に、感じ、気づきながら、飛んでもらってください。
とくに密度が濃いように感じられるところはありますか?

そんな箇所があったら、そこも鳥に念入りにしらべてもらいましょう?
そこと、もっと軽く感じられる箇所とを比較して、
両者に本質的な違いがあるか、調べてもらってください。

今度は鳥に、身体がかつてあったと思われるところから、周囲の空間に飛び抜けてもらいます。
その瞬間、この鳥は何か抵抗を感じますか?
そもそも、この鳥は、いつ身体と、周りの空間の境界線を越えたか、感じているでしょうか?
そのあたり、とくに行ったり来たりして、鳥に調べてもらってください。

この鳥に行き来しながら、比較してもらってください。
頭からだんだん下に降りていきます。

身体の境界線があったと思われるところ、椅子や床など、他のものと接すると思われていたところは、
特に念入りに、この鳥に行ったり来たりしてもらいましょう。

その時、この鳥が抵抗にぶちあたるところ、あるでしょうか?
そもそも、どこが境界線か、わかりますか?
気づいたら、椅子があると思われるところも、
これまでのようにスイスイと飛んでいないでしょうか?
あるいは、ちょっとだけ濃度が高いけど、
基本的に同じものでできているように感じられないでしょうか?
そこにあるのは、継ぎ目のないたった一つの空間の広がりではないでしょうか?

身体や床や椅子の感覚がすべて、脈打つバイブレーションとして感じられる今、
身体と周囲の空間や、これらの物体との境界線は、国境と同じで、実際はどこにも存在しない。
人の頭の中、思考の中だけにある架空のものだということがわかるかもしれません。

あるいは一足飛びに、そこにあるのはただ空っぽの空間だけだということが、わかるかもしれません。

私というこのバイブレーションは、世界にみなぎる意識、気づきの海が立てる波にすぎないのですね。この海と一つになって、波に揺れ、漂いながら、安らいでください。

痛みや凝りとして感じられる、身体感覚の濃度の高い部分が、
この海に溶けこむことに抵抗をするかもしれません。

あるいは、海に溶け込むことに対する、心理的な抵抗も出てくるかもしれません。
「いや、そうじゃない! 私は私! 海に溶けこむなんて真っ平ごめん!」と抵抗し、叫びあげるものが、自分の中に感じられるかもしれません。

その感覚がどこかに集中的に、
たとえばかつて胸やお腹があったと思われる部分に、
感じられるかもしれません。

物質としての身体こそ、自分だと思い、そこにへばりついていることで、
世界全体にみなぎる気づきの海から分離したままでいたいと今も思っている
自己感覚の名残、エゴの残滓です。

あなたの意識は、すでに世界全体を満たす気づきの海の全体に広がっているのですが、
身体に、ちょっと忘れ物をしてきたのですね。
それを感じたら、抵抗したり、責めたりせず、
断罪したり責めたり、嫌がったりせず、
そっと優しく、中をじっとのぞきこんでみましょう。

何か、ぞっとするような、恐ろしいものが見えるかもしれません。
大声を上げて身をもだえながら泣き叫びたくなるような悲しみが感じられるかもしれません。
そうした気持ちをいたわりながら、そして、敬意さえ払いながら、抱きしめてあげてください。

これまで私が、自分は身体だと思い、全ては自分でやらなきゃいけないって頑張ってきた間、
私をずっと支えてきてくれてありがとう。
でも、もう、あなたの助けはいらなくなりました。
今はどうぞ休んでください。
そうしながら、じっとそれを感じ、見つめてください。

恐ろしいものが見えたり、感じられたりしても、
それは、リアルな立体映像の映画を見てるようなもの
見かけの恐ろしさに負けずに、勇気を出して近づいて、それをじかに触ると、
そこには真っ白なスクリーンしかないこと、すべては投影された幻だったことが、わかります。
どんな暴力的な映画をそこに投影しても、スクリーンは真っ白で無傷なままです。
この真っ白な素地に触れた瞬間、そこから癒しが流れこんできます。

このスクリーンを分厚く覆う幻は、思考やイメージでできています。
それらを、かき分け、脇にどけながら、素地であるスクリーンの白さが少しでも感じられる隙間を探して、スクリーンに触れたと思ったら、がっしりと、つかんではなさないでください。

痛みや凝りが感じられる時は、
まずそれが、嫌なもので除去しなければならないという思考や、
病気だから、年だからといった思考も捨てて、
いたわりながら、客観的に、観察してください。
この身体感覚、絵や模様にしたら、どうあらわせるでしょう?
心の中で、絵を描きながら、点や線の間の「空白」がそこにないかに注意をして、
「空白」が感じられたら、そこにじかに触れて、つかんで離さないでください。
真っ白なスクリーンがそこに姿を現しますから!

それでも、もし、そこで見えたもの、感じられたものに圧倒されて、
呑みこまれそうになったり、
自分を見失いそうになったら、
先ほどの気づきの鳥にご登場を願いましょう。
この鳥に、そのあたり一面を、
さーっと、突っ切って、縦横無尽に飛び回ってもらいましょう。

そうすれば、どんなに恐ろしげに見えても、
そこに何の固体のような実質はないこと。
それは雲や幻、煙のようなものにすぎず、ボタン一個も支えられないことが、腑に落ちるはず。

*****
実はこの瞑想には、続編があります。「身体に残るエゴの残滓のお弔いする瞑想」(笑)という題ですが、これだけでも十分長いので、それはまた次回に!

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