奇跡のコース

一人クリアリングあるいは「ゆるし」について

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クリアリングの変容をうながすこの聞き手は、私たち一人一人の心の中にも、いる。何が起こっても、それをありのままに受け入れ、無条件に愛し、抱擁してくれる存在。そのまなざしに見つめられ、そこから捉え直すと、すべての現実がリセットされて、問題も、問題であることをやめてしまう、そんな一点がある。スピリット、守護天使、守護霊・・・何と呼ぶにしろ、そんな一点がみつかれば、クリアリングは一人でもできるようになる。自分の心を曇らせ、翳らせているものを、正直に認めて、そのまなざしの下にさらせばいいのだから。

二人以上でやるクリアリングのワークはその入り口としても、役に立つ。実際、無条件の愛で、ジャッジメント抜きに、相手の言うことを受け入れる時、聞き手のスピリットの部分が表に出て、話し手を包み込む。スピリットはすべての人の中を通底して流れながら、一つにつなぐもの。だから聞き手のスピリットが露わになると、それは話し手のスピリットも呼び覚まし、引火していく。その瞬間、すべてをその視点からとらえられるようになる。これがクリアリングの仕組みだ。

では原理的に、一人でもできるはず。クリアリングがうまくいったときの「聞き手」にあたる存在を自分の中に見つけられることさえできれば一人でもできるはず。

この存在へのアクセスに役立つイメージや言葉は、人によって何が効くか、全く異なるようだ。たとえば、ありのままをうけとめてくれ、無条件に愛してる、愛されてると知ってる部分。絶対傷つけられない部分。そこに入って安らいでいる限り、安心・安全だって思う、何があっても平気で妙に落ち着いている部分。私は昔、交通事故を起こして、車がぺしゃんこになった時、その惨状(身体も幸い無傷、負傷者もいなかったのですが)にもかかわらず、全然慌てず平気、冷静な部分が自分の中にあることに気づいてびっくりしたことがある。今考えれば、まさにその存在の中にいたのだと思う。あるいは、どんな状況、ストーリーの中に巻き込まれていても、立ち直れる、全てリセットできるとわかってる部分。いい意味で健忘症、そう言う意味で、生命力の源泉。いつでも、まったく新たに始められる、なんだってできると知ってる部分。自由に生きるためのジャンプ台・・・いくらでも言えるけど、言葉はアクセスのときに役立つ道具、棒高跳びのときに地面を突く棒みたいなもので、その中に入ってしまうと破棄され、忘れられる。というのもそれは、かたちや言葉を超えたものだから。だからそこに接触するだけで、すべての知覚や決めつけ、思い込みもリセットされる強烈な浄化の体験になる。

もう少し核心に近づくと、イメージが活躍し始める。私が『奇跡のコース』の師、香咲弥須子さんに習った瞑想法では、心の中に、静かで、清らかな湖を思い描いて、「そこ」への入り口にするというものだった。私にもそれは役に立ったけれど、そのうち、太陽のような光の球の中に包まれて、まどろみ安らぐ赤ちゃんのイメージが自然に湧いてきて、その後はそちらのイメージの方がアクセスの役に立ちだしたかな? 他にも、羽ばたく翼がチラチラ見える光の渦が現れることも・・・ 自然に湧いてくるイメージがあればそれを覚えていて、ここにすぐに駆け込みたいと言う時に、ぱっと思い浮かべることができれば、それこそ一瞬でそこへアクセスできる入り口として重宝する。多分、人それぞれ、様々なイメージがこのとき、役立つんだと思う。

心の中に見つけられるこの「聞き手」、静かでやすらかな部分の中に、その都度心の中に巻き起こる気がかりなこと、心配、不安を混ぜ合わせていくのが、一人クリアリングです。投げ込む、抱きしめる、対話する、その視線にさらす(まなざしとして感じられることもあるので)・・どんなやり方でもいいと思う。

このプロセスがうまくいった兆候として、まず、1. 安心感が湧いてくる。欲しいものをすでにもう持っているではないか、すでに問題は解決しているという感覚が広がってくる。それが欠如感を充溢感に変容させていきます。といっても魔法のように欲しかったものがそのまま手に入るというのではありません。その時、欲望の対象は、内面的で普遍的な性質に変容しています。たとえば「お金が必要」→「ゆたかさの感覚を感じる」、「社会的承認・地位が欲しい」→「自己尊厳、肯定感を感じる」、「愛されているという確証、たとえば結婚指輪が欲しい」→「今ここで、愛をすでにたっぷり感じてる」などなど。つまりすべての欲望が、今、ここですでに感じられる体験の質へと変容を遂げるわけです。でも実はこれらを心ゆくまであじあうことこそ、さまざまな特定のかたちへの執着を通して、私たちが本当に求めていたものなのかもしれない。

でも、そんなの、心の中での主観的な出来事にすぎないじゃないかと思われるかもしれない。もしそこで終わっていたら実際そうだと思う。

体験が本物であれば、そこで感じるたっぷりとした「ゆたかさ」や「愛」、「尊厳」は、表現されることを求めるよう。行動したり、新しくものをつくったりするやる気が湧いてくる。それまで、受け身で、誰かに与えてもらえないかなと思っていたものは、この時、自分から形作り、与えていくものへと、変容すると言っていいかも。それが、クリアリングがうまく行ったときの二つ目の兆候。2. 「取る→与える」への態度の転換だ。

なぜそうなるかというと、私たちが抱くあらゆる欲望は、もとはとえいば創造力。それがおそれに縁取られ、その拘束下で萎縮してしまうことで、特定の外的な対象や、特定の人に依存し、すがりつくようになってしまったものだから。このプロセスを逆戻りして、おそれを安心感に、欠如感を充溢感に置き換えていくと(それがクリアリングのプロセスなのだけ)、そこにもともとあった創造力が、顔を覗かせてくる。

と同時に、この創造プロセスの中で、具体的にどんな行動をすればいいか、アイデアひらめくこともありうる。といっても、自由意志を侵害しない、大くくりのかたちでひらめくにすぎないけれど。たとえばお金がいると言う問題は、1.の段階をへて「あなたはすでにとてもゆたかです」という実感になり、3. の段階で行動力、表現力に転換されますが、それに伴い、「そのゆたかさで、人をたすけなさい」といううながしを伴うかもしれません。これが3つ目の特徴かな? つまり、3. インスピレーションが湧いてくるということ。

そこで湧いてきたやる気、インスピレーションにまかせて新しい世界をつくっていくうちに、気づいてみると、もともと「欲しかった」ものもいつのまにか手に入っているということもあるかもしれない。でも、それよりもっと大きな世界ができていて、そのちょっとした添え物、副産物としてあるというかたちになりそうだ。

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