奇跡のコース

せせらぎにひたしながら、思いを見つめる

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最近私が力を入れているのは、
心の奥に流れる川のせせらぎの音にひたされて
あらゆることをする練習です。

そうやって、心を流れるせせらぎの音に聞き耳をたて続けることは、
ここのところ、私にとって、聖霊とともにいることのシンボルになってます。

いつのまにか、思いが一人歩きして、
せせらぎのことを忘れてしまうことも、しょっちゅうです。

そんなときは、もう一度、せせらぎの音に聞き耳をたてて、
それに包まれながら、
うっかり一人歩きさせてしまった思いを反芻します

たとえば、今の私が一人歩きさせてた思いは、
大正時代、アメリカに単身で渡ったひいおばあさんのこと
彼女はすごいな。私も彼女みたいになりたいな・・・ なんて考えてるのに気づきました。
昨夜、彼女について、文章を書いていたせいです。

この思いに没頭して、すっかりせせらぎについて忘れてた。何と、私としたことが!
と、ハッと気づいて、せせらぎに包まれながらもういちどその思いを見つめます。

すると、そこに、「こんなひいおばあさんの血を引く私」という自慢したり、誇示したい気持ちがあるのに気づかされました。
そしてそこに、「だから、こんな私は特別!」とでしゃばりたくなるきつい気持ちがひそんでることも!
何気ない、罪のない思いも、せせらぎにひたしてみると、
後から後から、黒々としたものが出てきます。

自分にはこんな立派な家族がいるんだ、
自分にはこんなにいっぱい自慢できることがあるんだという気持ちのそのまた奥をのぞくと、

その手の物語でいろいろ、ごたごたと飾り立てない限り
自分の価値を実感できない無価値感が顔をのぞかせます。

一見、意気揚々だった気持ちの奥に、
思いもかけない悲しみや虚脱感が、どんどん出てきて、びっくり。

それもせせらぎにひたすと、洗い流されていきます。

今は、赤ちゃんみたいに、まっさら、すっきりした気分。

「私が私であるために、何の物語もいらない。
私は私が誰なのか、何なのか、全くわからない。
そのわからなさが、また、心地いいじゃないの」
って大笑い!

この澄んだ心の中、ふたたびひいおばあさんのことを思うと、
彼女がこれまでよりぐっと私に近く感じられて、
微笑みかけているように感じられてきました。

彼女を一見、崇めながら、その実、自己宣伝の道具にしてしまうあざとい気持ちが消えたので、
完全に対等な、親しい親しいお友達として出会う余地が生まれたんですね。
本当に、そうやって、誰とでも接していきたいです。

これは、全く小さな小さな、一瞬の思いの例にすぎません。
この手の何千、何万もの思いが、毎日毎日、心を通り抜けていきますが、
そのすべてをせせらぎにひたしながら、見つめていけるように、
こんなふうにうっかり見逃すことがないようにと、
日々、精進の毎日です。

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