ゆたかさからはじまる仕事

問題解決ではなく問題解消 

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昔、バークレーに、カフェ・グラチチュードというローフードのカフェがあった。

雰囲気がパッと明るくて、ウェイトレス、ウェイターもいかにもしあわせそう。しかも、とてもフレンドリー。で、客をよく観察して、いろんな質問をしてくる。たとえば、ストレートの長髪の黒髪のとてもハンサムなウェイターの人がいて、彼はある日、ニコニコしながら、「あなた日本人でしょう?」とたずねてきた。「なぜわかるの?アジア系の人もいろいろいるのに?」とたずねると、「実は僕の母親は日本人なんです。仕草が似てると思ったんだ」とのこと。

何気ない会話なのだけど、「客」としてでなく「人」として丁寧に接してくれてる、そんな様子が伝わってとてもハッピーになる。体が軽くなるローフードの効果と相まって、店を出る頃には、「私、空を飛べそう」と思うほど、ハイになってる。

なぜだろう・・・ってずっと気になっていたけれど、ある日、そのカフェをはじめたオーナーが従業員にやっている教育を応用したワークショップがあるというので、参加してみた。そこで体験したのが、先ほども話したプレゼンスを贈るワーク。ただいるだけで、もてなせなければもてなしは始まらない。その基礎の下、一人一人の客を、かけがえのない個人、まるでその人しか客がいないかのように100パーセントのコミットメントと気遣いで持てなすこと。

そこでしあわせになった客を、欠如感を癒すゆたかさの世界へいざなうゲームへと誘うようにするとのこと。そのためにさまざまな仕掛けがある。

たとえばメニューは全てアフォーメーション形式で書かれている。たとえばコーヒーは、「私は目覚めている」、ココナッツアイススムージーは、「私は美しい」と言った具合。日本でやると吹き出してしまいそうだけれど、たとえば、ココナッツアイススムージーが欲しくて、 “I am beautiful”, please!と注文すると、Yes, you are beautiful. と、私の目を見つめて、いかにもしあわせそうなウェイターが答えるという具合。

そうした仕掛けに、ウェイターが客に、さりげなく問う、「今日の質問」というならわしもある。その質問は、欠如感からゆたかさへと意識の焦点を変えるためのもの。典型的なものをあげると「今日何かいいことありましたか?」とか「あなたは何に一番感謝していますか?」「美に圧倒されたことはありますか?」。どんなにストレスに打ちひしがれて、「まだまだ」「ダメだ」「足りない」「間に合わない」という具合に欠如の固定観念に取り憑かれた人も、そんな会話を交わすうちに、すでに「ある」もの、自分がすでに持っているもの、あたりまえだとこれまで見なしてきたことのゆたかさに目を見開かされる。

そうした習わし、文化、雰囲気、インテリアデザイン、出される食べ物の質の高さ(完全無農薬、多くはエンゲルハルト夫妻の持つ自家農場からきたもの)などがすべて合わせられ、この場所をゆたかさあふれかえる「聖なる場所」にしている。「聖なるあきない」にとって、職場づくりは聖所づくり。そこで働く人、そこに来る客など関連する人たちすべてが聖なるものにすっぽり包まれ、高められるようでなければならないというのである。

そこでカギを握るのは、従業員が、そうしたゴールの質を、今、ここで、しっかり放射できること。飲食店なので、もちろん彼らは忙しく動いているけれど、彼らがやってる一番根本的、本質的な仕事は、彼ら自身がゆたかで、しあわせでいること。そうでないと、いくら笑顔で型どおりのルーティーンとして今日の質問などをやっても、ちっとも説得力がない。こればかりは嘘をつけない。それこそ存在でやる仕事。

でも日によってどうしても不調だったり機嫌が悪かったりするだろうに。ぶれずにしあわせを発散するなんて、できるものなのだろうかと思ったら、とっておきの秘密兵器があった。

全従業員、仕事に入る前に、必ずやっている、「クリアリング」(浄化)と呼ばれる即席カウンセリングをお互いにやりあっているという話。

といっても、それはとてもシンプルなもので、やることといえば、二人で組んで、一人が心にひっかかる気がかりなことを話し、もう一人は、暖かく見守りながらもただひたすら聞くだけ。話が終わると、聞き手は、自分が聞いたことを、ほとんどオウム返しに「あなたは、・・・・なのですね」と言う。今度は相手の口から自分が述べたことを聞くのだ。その間に、だんだん気持ちが楽になったり、自己相対化できるようになる、というもの。

切り出しの質問は、
「あなたが今、ここで最高の幸せを味わえていないとすれば、何のせいでしょう?」「どんな欠如感、不全感のヴァージョンを今、あなたは感じていますか?」といった理屈っぽいものから、単に「今、気になること、ありますか?」までさまざま。

その答えを聞いている間、聞き手はただ、聞く。言っていいことといえば、自分は聞いていますよというサイン、「そうですか」くらい。

相手が自分をよく見せるために、ちょっと取り繕っているなとか、自分の言っていることをそんなに実感していないなと思ったら、もっとオーセンティックになるための誘導質問、「どんな感じがしますか?」といった質問をしたりする。

これらの質問は、ひたすら、相手が、もっと正直に、自分の問題を深く感じて、自覚してもらう手伝いをするためのもので、聞き手が自分の意見を押し付けるためのものではない。つまり、ジャッジメントもなしで、善悪判断一切なしでありのままをただ受け止める。また問題解決を手伝おうとさえしないで、相手が自分の問題を感じたり、自覚したりする手伝いをするだけというのが、クリアリングの聞き手の役割だ。

実際、クリアリングのやり方を学んだとき、私が一番ショックを受けたのは、クリアリングの聞き手は、話し手にどんな問題を打ち明けられても、少なくともその場では、解決に乗り出すようなことを言ったりしたりしてはいけないことだった。たとえば、お金の悩みを打ち明けられて、「どこにいけばお金になるバイトができるか」とか、「お金を貸してあげるよ」といった答え方をするのは、普段の生活では当然のことではあるけど、クリアリングの場でやると、クリアリングにならないので、やってはならないことになっている。

問題解消のために、あえて問題解決はやらないというのが、クリアリングなのだ。問題解決の手伝いを始めるということは、その人のストーリーに加担して、その登場人物の一人になるということ。「心配、気がかり」なストーリーは、ほとんど「欠如のパラダイム」内にある。だから、そのストーリーを中に自分も入り込むことで、その人が欠如感をいつまでも引きずったり、増殖、蔓延させる手伝いをするだけだって考えるんだ。

「じゃ、何のために相談するわけ?」と思われるかもしれないけれど、実はこれをするのとしないのとでは大違い。

クリアリングの場が暖かい、愛にあふれた、サポートする雰囲気に包まれている時、話し手は、すべての人や生きとし生けるものがつながった一体感、ワンネスに近い地点から、今の自分を受けとめ、眺め直すことが、できるようになる。自分はすでにゆたかで、愛されていることが実感できる。

また、自分が一番否定、抑圧したい「嫌なこと」「気がかりなこと」をそこで話す。ということは、自分自身に対しても否定することをやめて、ありのままをそのまま認めるということでもある。相手からと、自分からと、両方から、無条件の愛による肯定の雨がそそがれるというわけ。

すると、自分がそれまで悩んでいた問題の全体が笑い話のようにみえてきたり、小さい、どうでもいいことに見えてきたりする。つまり、問題が問題であることをやめてしまう。事実は事実として依然としてあっても、それが「問題と」して自分の心に貼り付いた、気がかりの種であることをやめる。

欠如のパラダイム内にあるストーリーを、根っこから丸ごと引き抜くために、愛を込めて傾聴するけど、一切加担しない。聞き手のこの様子は、観客席から、芝居を眺めてる人に例えることができるかもしれない。舞台上で起こっていることに涙したり、手に汗を握ったりと、我がことのようにコミットはするけれど、同時にこれを距離をとって、眺めてる。

そんな聞き手の態度にうながされて、話し手も、まるで自分の人生を観客席から見れるようになる。それができれば、クリアリングは大成功だといえる。

ただ、以上のプロセスをうまく促すためには、間の取り方も重要だ。

話し手が自分の問題を話した後、
聞き手はゆっくり、自分が聞いたことを「あなたは〜なのですね」と、そのまま相手にまた繰り返す。その後の間は、相手の心の動きを、表情などで見計らいながら、
「今、どう感じますか?」と質問する。

その答えを待った後、聞き手は話し手について、自分が感じたことを、「あなたは〜ですね」というふうに、感想を述べる。そうすることで、今度は変容のプロセスをくぐったあなたを無条件に受容し、祝福するのだ。

クリアリングがうまく行った後には、まるで雲が晴れた空のように明るく澄み切った心の状態。サービス業に従事する人には、これがとても大切なのだという。

実際、心配、気がかりなことがあると、そのことに気をとられて上の空になってしまう。それらは視界を覆う雲のようなもの。自分の「気がかり」を投影してしまい、「今、ここ」で起こっていることを見えなくしてしまう。

たとえば、助けが必要な人が目の前にいても、気づかない始末。でも、クリアリングを経ることで、視界からぱっと雲が晴れるように、周りで起こっていることが見え始め、それまでよりも大きな視点で、自分のいる位置が見え始める。

「私には〜が必要だ」「助けてくれ」といった「欠如のパラダイム」のモードから、「ゆたかさのパラダイム」の安心感、エネルギーの余剰が生まれて、それが、「私に何ができるでしょう?」といったサービス、奉仕のモードに切り替わる。

もちろん、問題は物理的にまだ存在しているので、解決行動も必要だけど、余裕をもって、もっと自由に、クリエィティブに行動できるようになる。たいていそちらの方が、根本的にみると効果的な解決ができたりする。

たとえば、もらった喧嘩を受けて立つような条件反射的な反応以上のこと、建設的で、長期的視野に立った行動などがとれるようになる。

新しい世界をつくるためのナウトピア的な直接行動も、この地点からはじまるといえるかもしれない。

クリアリングは、普段の何気ない会話でもできる

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といっても、私たちの日常で、「クリアリングしましょう!」と呼びかけるのは、敷居が高い。

エンゲルハルト夫妻によると、クリアリングは特にその場をもうけなくても、普段の何気ない会話で、相手も気づかないうちにやることもできるとのこと。「元気?」とあいさつした後の答えが、不調を訴えるものであれば、その場ではじめることもできる。

相手が、悩みをうちあけたり、不快感をあらわしたり、イライラしている時、全関心と愛情をこめて一生懸命聞く。ただ、自分の意見は言わず、問題解決のための行動もとらず、ただ聞く。意見を言わないのは無関心からではない。あなたは一人ではない、私がそばにいる。今、取り乱したり怒っていても、どんなあなたも、変わらず、無条件に好きですよ、・・・と安心感を与えながら、そばにいて、話を聞き続ける。あるいは、相手の言っていることを、ただくりかえすような相槌をうつ。そうやって、相手がだんだん変容してくるのを待つ。

とくに相手の怒りや不機嫌が、自分に向けられている時など、これをやるのはとても難しい。喧嘩が売られたときに、乗らないだけでも難しいのに、相手のそばにいて、愛情をそそぎながら、まるで悪天候の経過を待つように待っていろというのだから。静かに、相手が自力で変容するための、サポートに満ちた場所だけは確保して・・・これをエンゲルハルト夫妻は、「愛の空間を保持すること」と呼んでいる。

助け手は、何にもしない。でもまさに何もしないことが、実は一番根本的な問題解消(問題が問題であるのをやめるのを目指すのだから)になるというのだから、まるで老子のやり方だ。実際、『聖なるあきない』の中には、「マネージャーはタオイストでなければならない」という言葉も出てくる。

文学の中のキャラクターで、クリアリングの聞き手に一番似ているのは、ミヒャエル・エンデのモモだろう。モモは聞くこと以外に何もしないのに、彼女の周りでは喧嘩がおさまり、絶望した人に希望がもたらされ、貧しい人も自分がどんなにゆたかかに気づくというのだから。