心の大掃除をこころがけていると、
これまでだったら、立ち止まらないところで立ち止まる癖がついて、
あらゆることが、ゆるしと手放しのチャンスになっていきます。
たとえば今日は、お手紙を書こうって思いながら、何となく、それを後回しにしてる自分に気づく。なぜかしら?
それは本当に、かすかな、かすかな躊躇感にすぎないのだけど。
その感じを見逃さず、じっと見つめると、こういうこと、よくあったな・・・・って次々と昔の記憶がよみがえってきました。たとえば、いろんな方から、どっさり手紙をもらいながら、全然返事を書かないまま、罪悪感にだけさいなまれるってパターン。それをこれまでの人生で、何度も何度も繰り返してきたのに気づきます。
そのときの「悪いな~ でも気が重いな~ 面倒くさいな~」という気持ちをさらに見つめると、
何だか焼きごてでも当てられたかのような、ひりひりするような感覚が心にあるのに気づきました。
もっと見つめると、それは愛を受け取ることへのおそれだってことがわかり。
さらに見つめると、愛を受け取ると、私は崩壊してしまうとか、
どうせ裏切られるのだったら、予防線を張って、距離を置いていたいとか・・・
わけのわからないおそれが、まるでパンドラの箱を開けた瞬間みたいに、次々と出てきて、びっくり!
そこですかさず、心の大掃除のはじまりです。
それは二つの側面からなってます。
一つは、せっかく開いたパンドラの箱だから、開け切って、中身を出し切ること。
つまり、一番痛いところを、たじろかず、感じ続ける作業。
と同時に、二つ目に、
心の中の本当の私、スピリット、助け手に、身体の重みすべてをあずけるようにすべてを明け渡して、
「これについて、あなたの見方を教えて」「あなたの見方で、私の見方を置き換えて」ってささやき続けること。
この二つを同時にやるのです。
するとだんだん、ふ~っと楽になり、痛みも消えていき、大丈夫、大丈夫。
あなたの愛をすでにこんなに受け取ってるのだから。私は誰の愛も、いくらでも、受け取れる・・・ って、とにかくスピリットに感謝の気持ちが、湧いてきます。
裏切りへのおそれも妄想にすぎないし、そのために予防線を張っておきたいなんてのも、ひとりよがりにでっちあげてた被害妄想のドラマにすぎないとわかり、
大笑いのうちに、すべて、跡形もなく消えていきます。
そして、いつのまにか手紙を書くのを楽しんでる自分を発見するわけです!
「どこかに出かけたい」気持ちをゆるす
そういうことが、私、最近、1日の間に、何度も何度もあります。きっかけは、見逃してしまうほど小さな心の動き。でも、そこをじっと見つめるうちに、心の深い闇が姿を表すのです。
さっきも、「どこかに出かけたいな」と思いながら、お正月で、どこも開いておらず、「どこも行くところがない!」その悶々とした気持ちを見つめてるうちに、
昔、自分が無類のカフェ好きというより、カフェ依存症、重症のカフェ中毒だったことを思い出しました。
家にじっとしていられず、いつも、「今、ここ」以外の「どこか落ち着けるところ」を探してうろうろさまよう癖があって、毎日毎日、カフェに行かないと、目が覚めないし、仕事も始められなかった。
今の気持ちに重ね合わせながら、そのときの気持ちも呼び起こして、心を探っていきます。すると、
ありのままの私は、みじめで、疲れていて、貧しくて汚れた場所でドブネズミみたいに震えてる・・・
こんな私が、背筋を伸ばして、きちんと人並みに生活したり、ぜいたくでゆたかな気分を味わうには、
お掃除、お手入れが行き届いた気持ちの良い空間、素敵な景色やインテリアに囲まれて、大切にもてなしてもらわなきゃだめ、
そうやってサポートしてもらうしか、もう手はないって思ってる・・・・そんな気がしてきました。
でも、実際には、私が普段いる田舎の家は、大抵のカフェよりも眺めがいいし、
掃除だって、それほどサボってるわけじゃない。
だから、ほとんどこれは妄想ですね。
またもや、心の大掃除の絶好のチャンス!
そのみじめさをうんと味わって、心の一番痛む箇所をのがさず、じっと見つめながら、
心の中のスピリットに、「あなたの見方を教えてください」と祈ります。
すると、自分が、何と、幸せになることに対して、おそれを抱いてるのがだんだん見えてきました。
しかも、猫が総毛を逆立てるような、激しい怖れです。
とくに、「今、ここ」、「ありのまま」、「何も持たず」、何も特別なことをしなくても、満ち足り、幸せになってしまうのが、怖くて仕方ない・・・らしい。
それで、「ここにはいられない」「ここにはいられない」とジタバタもがいているわけです。
しあわせが怖いなんて、不思議な話。なぜこんな馬鹿なことをしてるのでしょう?
エゴの生き残り戦略
エゴはいつも、幸せになるためには「~する必要がある」「~へ行く必要がある」「~を食べたり飲んだりする必要がある」と、特別な「形」、特別な「行動」へと、私たちをいつも誘導しようとします。
そうすることで、幸せは本当は、形のない「心の状態」であり、そのためには、スピリットを感じる以外、何にもする必要がないってことを、
私たちに気づかせないようにしてしてるわけですね。
本当のしあわせのためには、本当に、何にもいらないし、どこにも行く必要もなければ、何をする必要もない。ただただ、スピリットと一緒にいるだけでいい・・・
なのに、良い気分になるには、カフェに行かなきゃとか、おいしいお茶やお菓子を味わえなきゃとか・・・無数の「形」や「儀式」がなきゃだめだって思うことで、
スピリットとの水入らずの出会いを妨げるバリアを張っていたわけです。
というわけで、ここはもう、すかさず、心の大掃除をするしかありません。
まずは「こんなところにはいられない」「何とかしなきゃ」とジタバタもがいてる自分をぐっとつかんで、そこにあるおそれをじっと感じながら、
同時に、このおそれをまるごと、本当の私、心の中のスピリットにゆだね、明け渡していきます。
するとふ~っと落ち着いて、あらためて周囲を眺めると、
「やっぱりここが一番じゃないの?」「どこへ行く必要があるの?」と思えてきて
「今、ここ」にどっしり根っこをおろした定住のよろこび、じわじわ感じられてきました。
というわけで、今日も一日中家を出ず、どこにもいかなかったのですが、本当に楽しく過ごすことできました。
別の活動性のはじまり
どこにもいかず、何もせず、退屈な生活がはじまるように見えます。
でも、スピリットと水入らずの生活は、驚きや、冒険にあふれたものになります。
インスピレーションに従って、自然に動いて、偶然に見えるけど、必然なこと、シンクロニシティを楽しむ人生がはじまるからです。
今も私はカフェに行きますが、そうしなきゃ何もやる気がでないからではなくて、
そんなふうに、促されるから。流れの中で、そうするように誘われるから。
同じことも、「こうしなきゃ」「ああしなきゃ」良い気分になれないわ・・・と中毒や依存や、不安から思いつめてやるより、インスピレーションからやる方が、ずっと楽しいし、罪悪感を持たずにいられます。