奇跡のコース

人間関係から自己犠牲を一掃するために 愛のお風呂に浸り続ける

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私はもともと、対人恐怖の気があって、人前に出るととても緊張するタイプ。

本当に好きな人とは、面と向かうより、ちょっと離れたところで、片思いしてた方がいいって思うほど。

その気持ちの反映か、実際、若い頃は遠距離恋愛ばかりしてました。離れている間に、あれこれ努力して、少しでもきれいになろう、痩せようとしたり、あれこれ知識や経験を積んで、自分磨きをできるのがよろこびで、このまま遠距離でいれれば、うれしいのにって思うほど。

久しぶりに会えると、今度はその時間を極上のものにするために、計画や準備に夢中になり、とっておきの場所へ出かけ、とっておきのお店に、とっておきのタイミングで行けるようにはからい、実際に一緒にいる段になると、今度は、おもてなししようと、お茶を入れたり、食事を用意したりで忙しくしてるわけです。

今思うと、人と、ただ、一緒にいることだけは苦手で、してこなかったのですね。ただ、一緒にいるだけの状況になるのを怖がって、それを何とかして避けようと、あらゆる策略をめぐらせてきたわけです。

コースを学び始めてわかったのは、私は愛そのものをとてもおそれてたんだってこと。

ただ、自分のこの根強い性癖からの一番大きな突破の体験は、コースを学び始める前、半年くらい前に起こりました。

太平洋の反対側、アメリカ西海岸の海に面した絶景地にあるエサレン研究所で、スピリチュアルなリーダーシップをトレーニングするためのリトリートに出ていたときのこと。従来の「俺についてこい」型のリーダーシップの代わりに、何も言わずとも、その人の人となりから放射される存在感、ありようで必要なことを伝えたり、グループをまとめたりするテクニックを教えてくれていて、キーワードは、「リーダーはタオイストでなければならない」というもの。

そのとき、別のメンバーと二人一組になって、何もせず、何も言わず、ただただ見つめあいながら、一緒に向かい合うというワークをやりました。

はじめはとっても居心地が悪くて、落ち着かない。チック症状のようなものが出てきた人もいた。

なぜこんなに気持ち悪いのでしょう?

心を見つめながら、まず思いついたのは、

愛される「ため」に、何一つやれないのが、どうも、心もとない。

たとえば、その人をよろこばせるようなことをいったり、一緒に笑えるようなジョークをとばしたり、お茶やお菓子をふるまったりもできないってこと。

でも、どうしてそんなことをする必要があるというんでしょう? どうして、今みたいに、ただ、黙って一緒にいるだけじゃまずいのかしら?

そんなふうに自問自答した時、もう一つ思いついたのは、

そんなふうに努力することで、私は、自分とつきあうと、いいことがある、知的な刺激や役に立つ情報が得られる、楽しい・・・って必死で相手に説得しようとしてた。

つまり、「自分は愛されるに値する」ことを証明しようとしてたんだってこと。

でもここでは、それが全くできない。それでとてもこわくなってるんだな。

だって、この努力をやめると、自分が本当は、決して愛されることのない、みじめでおぞましい存在だってことが暴露されてしまうんじゃないかって、不安にさいなまれてる。

でも、それって、本当なのかしら? そう自問自答しながら、目の前にいる人をながめていると、その瞬間、私はこの人が本当に本当に大好き、愛してる・・・という思いが、一挙に押し寄せてきたのです。このワークのパートナーは少しずつ、スイッチしていて、ちょうどこの瞬間、私の前にいたのはカナダ人の同年代の女の子で、偶然、いあわせただけ。田舎育ちであること以外、彼女について何一つ知らない。でもそんなこと、全くどうでもいい。今、ここでこうして、この人と一緒にいれることが、本当にうれしい・・・涙が頬を伝って流れていきました。すると驚いたことに、彼女も瞳をうるおわせて、同時に泣き始めたのですね。

海を越えた遠い異国にいて、慣れない不自由な言葉でようやく意思疎通しながら、肌の色の違う人たちに囲まれているのに、なぜか、なつかしい我が家にいるような気がしてきました。北海道の我が家に返っても、これほどくつろぐことはできないくらい、リラックスしていました。

この時、ひらめいたのは、愛というのは、誰かが誰かに対して、意図して与えるものでも、もらうものでもないこと。むしろ、空気のように、海のように、あたり一面に、無限に漂う実体で、私たちはただその中に、怖がる心、抵抗を捨てて、一緒に入っていくだけでいいってこと。心地よい温泉の中に、一緒に浸るように、この愛の海の中に一緒に浸る。それが、本当の意味で、愛し合うってことなんだ。

そのために、何かしなければならないことなど、何にもないんだ・・・・たとえば、愛してることを証明するために、あれこれ相手にサービスする必要もなければ、自分が愛に値することを証明する必要もない。美しく、痩せる努力もいらなければ、興味深い会話で、惹きつける必要もない。

その瞬間、もう一つひらめいたのは、愛していることを証明し、愛されるに値することを証明するためにこれまで自分がやってきた、そうしたいとなみの全てが、この愛の海に浸ることに対する抵抗だったってこと。この海の中にとびこむことがおそろしくて、高い高い防壁を立て続けていたんだってこと。

これまで、こんなにいそがしくしてきたのも、何もしないで、ただ、誰かと一緒にいると、今、実際そうしているように、愛の海が人との間に広がっていることに気づいてしまうからだったんだ。

でも、これだけは避けたい・・・とおそれていた当のものが、これほど甘美なものだったとは! 自分が心のそこで、本当にのぞんでたもののすべてが、ここにある。

その後半年くらいして、コースを学び始め、「あなたは何もしなくていい」という節や、「神聖な瞬間」、「聖なる関係」について読みはじめ、この時に自分が何を体験していたのかが、少しずつ明らかになってきました。

この体験をたとえるのに、一番ぴったりするのは、やはり、とっても気持ちのいい暖かな露天風呂に浸っている感じでしょうか。

外は寒くて雪が降ってるかもしれない。けれどお湯の中につかってる限り、本当に気持ちいい。

外の寒さは、空間のへだたりや、死へと過酷なく足を進める時間の進行に例えられるでしょう。それらは、寒さのように、私たちに迫ってくるからです。

でも、このお風呂の中にいる限り、距離の隔たり、会える、会えない関係なく、一体感を感じることができます。

どんなものも時間の中で朽ちていき、私自身もゆっくりと病み衰えていく・・・っていう法則も、このお風呂の中にいる限り、侵入してこない。ここでは私は、死んだ人とだって、一つになれる気さえするのです。

露天風呂の外の寒さは、他にも、カルマの法則、過去の記憶で自動的に展開していく容赦ない人生のシナリオにたとえられるかもしれません。

怒り狂ったり嘆き悲しんだり、感情の嵐がそとでは吹き荒れてるかもしれない。でも、このお風呂の中は、いつも安らか。

コースにでは、人生のシナリオは、すでに書かれていて、私たちがそこに変化を加えれるのは、ただ一つ、エゴとではなく、スピリットとともに、スピリットの視点から、それを体験するってことだけだって言っています。

それは私の言葉で言えば、どんなときも、心の中にこのお風呂を見つけて、どぶんと浸かるということですね。そこにいる安心感、一体感を育んでいくわけです。

だんだんそれがうまくできるようになり、いわゆる入浴上級者になると、

目の前で人が怒り狂ったり、自分に向かって小言を言ってる時も、そんなときこそ、このお風呂にどぶっと浸って、そこから全てを眺めてみると、だんだんその人が、可愛く見えてきます。

そうやって一生懸命愛を求めて叫んでるわけね。じゃあ、一緒にこのお風呂に浸かりましょうよ。というより、この人、もうすでにこのお風呂にどっぷり一緒に浸ってる。自分ではそれに気づいてないだけ。それに気づいてもらうためには、どうしたらいいか・・・なんて悠長に考えてる。

心の中に育んできた愛のお風呂が本物だったら、どんなときも、そこに浸っていれるし、どんな人も、そこに誘い入れることができるようになる。なぜなら、愛のみが本当に存在するもので、すべての幻想が去った時、すべては、この海の中に、遅かれ早かれ、溶けていくのだから。外の寒さも、吹きすさぶ風も・・・

辛い体験も、お風呂を拡張して、ひとまわり広げて、海に近づけるための突貫工事にたとえられるかもしれません。穴を掘ろうとしても、そこに大きな石があったり、岩がへばりついていたので、ちょっとした力仕事が必要になっただけなんだ。目の前に広がる過酷な光景も、実は、この障害物を、取り除けるように可視化してくれたありがたいチャンスだったというわけです。

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