奇跡のコース

心を愛で満たすためのヒント

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「愛」とは?

心のお掃除をすすめて、すっきりしたい。でも、愛が心に十分感じられない。ごちゃごちゃと心に広がる思いを一挙に溶かしてくれるこの洗剤の量が足らないので、なかなかすすまないよ・・・と感じられるときもあるかもしれません。

そのとき、思い出したいのは、ここでいう「愛」とは、
エゴが、あれが欲しい、この人が欲しい・・・と思うような「愛」ではなくて、
逆にエゴが退いた時、その分だけ、物理的法則のように確実に、どんな人の心の中にも、自然にたっぷり、流れこんでくるものだということです。

たとえて言えば、雨のように、ふんだんに、無差別に、絶えず降り注いでいるもの。
なのに、ほとんどの人は、わざわざ傘をさして立っているので、感じられずにいるのですね。
その「傘」が「エゴ」です。

とっても頑丈で、びくともしないような「傘」をさしてることもあるかもしれない。
でも、そこに少しずつ穴が開くにつれ、少しずつ感じられるようになる。それが愛です。

肥大したエゴの即効ダイエット 「私にはわからない」

でも一体どうすれば、エゴが退き、愛に道を譲っていくのでしょう?

「エゴ」というと、いわゆる「がめつい人」、自分の利害ばかり考えてる人をイメージしがちです。
私にはそんなところはないから、大丈夫・・・なんて安心しがちです。私もそうでした。

ただ、ある日気づいたのは、身の回りのことを「私にはわかってる」と思う知ったかぶりの傲慢さこそ、エゴの温床だったということでした。

こちらのエゴの方には、警戒してかからなければならない人、多いと思います。

私自身、これにはずいぶん悩まされたものですが、一番、即効を奏したのは、
「そんなの当然だ!」「あたりまえでしょう」と自分が思ってることを、
「本当にそうかな?」って疑ってかかることでした。すると、「自分は正しい」という傲慢さが、ゆるんで、心がほぐれてきます。するとそのほぐれたところに、愛が流れこんできて、柔軟で、もっと融通がきくようになります。周りの人の立場も見えてきます。

たとえば、さっきあげたシェアハウスの例で、「台所の正しい使い方を私は知ってる」と思っている人がいると、衝突が絶えなくなるっていいましたが、これは野放しにされている「知ったかぶり」のエゴのいい例だといえます。

「知ったかぶりのエゴ」を野放しにしていると、知らず知らずのうちに、みんなに自分の流儀を押しつける。高圧的な人になって、周りの人を、自分でも気づかぬうちに、傷つけてしまう。

でも、それだけじゃなくて、本当は自分も傷つけてるんですね。

愛以外の感情、たとえば怒りや不安、悲しみを感じている時には、いつも、自分について、自分を取り巻く状況について、「自分は知っている」と決めてかかってることが、あるはずです。

たとえば、アメリカのコースの教師の一人、ディヴィッド・ホーフマイスターの本、Unwind Your Mind Back to Godの中に、Radio Schackというチェーン店のディスカウントの小型電化製品店がアメリカにあるのですが、そこに買い物に行ったのだけれど、そこの店員があまりに無能で要領を得ないので、いらいらして、「こんなところで時間を無駄にしていられないぞ」と、買い物を途中でやめて出て行ってしまう話が出てきます。

でも考えてみると、必ずしもその人、そこで「いらだつ」必要はないわけですよね。
その「いらだち」はすべて、その人がそこに、いろんな期待や前提を持ちこんでいることからきています。

たとえば、安売り電器屋とはどんなところで、そこの店員とはどんな人たちか。これまでの学習、記憶にもとづいたさまざまな先入見を持っている。あるいは店員とはどうあるべきか? サービスを与える人と、受け取る人との区別、有能さと無能さの区別、比較。時間を有効に使う、無駄に使うとはどういうことか・・・などなど、山ほどの前提をかかえていて、その中で、自分が期待していた理想的なシナリオ、ストーリー通りに事が運ばないのでいらだってるわけです。

その一つ一つを手放すことができたら、彼のいらだちにも根拠はなくなり、消えてしまいますね。
でもこの前提は、どう考えても正しいぞ! 私の怒りは正当だ!と思うこともあるかもしれません。

それでも、コースのテキストの中の有名な言葉に、

あなたは正しくありたいのですか? それとも愛したいのですか?

とあるように、「自分は正しい」という思いは、「愛すること」と反比例するって考えるんですね。

いつも穏やかで平和な心の人が時々いますが、そういう人はたいてい、この手の期待や前提、思いこみをほとんどかかえていないことがわかります。だからとても柔軟で、融通無碍。何でも初めてみるかのように、子供のようにまっさらな心で体験できるわけです。

ただそれは、自分が心に抱いている前提や期待を頭から否定してかかるのとも、ちょっと違う。

たとえば、「店員は、商品について、詳しく知っていなければならない」という前提を否定して、
「店員は、商品について詳しく知っていなくてもいい (私の寛容さ、ゆるしがためされているのだから)と180度反対のことを考えても、肥大したエゴのダイエットにはなりません。

何が正しいかが「自分にはわかってる」っていう傲慢さは、変わらないからです。
「寛容で、何でもゆるす私の成長」のドラマの中にはまってしまっただけ。その主人公を演じながら、またいくらでもエゴを肥大化させることができます。

ではどうすればいいのでしょう?
ただ、ここで何が起こっているのか、「私には、わからない」、「さっぱりわからない」って思う。
それだけでいいんだと思います。
そうやって、心をどんどん空っぽにしていくと、
リラックスしてきます。
くつろいだ感じ、しずけさが広がってくる。

これが、エゴが退いた時、流れこんでくる「愛」です。
この「愛」の中に、本当の私、スピリットがいます。そしてこのスピリットこそ、実は全てを知っている存在なのですね。

「私にはさっぱりわからない」と心を空っぽにすればするほど、感じられるこの「愛」をじっと味わっていると、まず安心感が心に広がり、
そしてその安心感の中に、しずかな確信のようなものが感じられてきます。
それをまたしずか〜に味わっていると、
そこにだんだんメッセージがこめられていることが感じられてきます。

そのメッセージは多くの場合
「これでいいんだ」ってことだったり、
すべてのものへの愛おしさや感謝の念だったりします。

場合によっては、具体的な洞察がひらめくこともあります。たとえば、頭にきた人、先ほどの店員が、実は自分の別の人との未解決の関係を思い出させているのに気づき、実はそっちの方に動揺していたのに気づいたり・・・・

いずれにせよ、
1、自分が物事に対する前提や期待でいっぱいになって、特定のストーリーを押し付けようとしてるのに気づいたら、

2、それを否定してかかるのではなく、ここで本当は何が起こっているのか、「私にはわからない」と、退きます。

3、すると、そうして空っぽになった心に、「愛」が流れこんできて、安らぎ、静けさ、よろこびが感じられます。この感じをゆっくり味わい、直感的にひらめいたことがあれば、それに従います。というのも、この「愛」の中に、私の代わりに全てを知っている存在、本当の私がいるからです。
この1〜3を繰り返すたびに、エゴの肥大した部分が少しずつ解きほぐれて、心が軽くなっていきます。
肥大したエゴの贅肉を落とすためのエクセサイズのようなものだと考えてもいいでしょう。
キーワードは、「私にはわからない」です。

というわけで、気持ちがざわついたり、動揺することがあったら、
そんなふうに自分の心の中にある「知ってる」つもりになってること、前提や期待を吟味してみられるといいと思います。

どれほどたくさんのことについて、「自分は正しい」、「当然だ」と決めてかかっているかにびっくりされるかもしれません。

そして、それらの前提や期待こそが、知らず知らずのうちに自分の心を暗く、狭いところに閉じ込めているってことも。

そんなふうに心を観察する癖をつければつけるほど、ほとんどのいらだちや心配は、自分が勝手にでっちあげた一人芝居、取り越し苦労にすぎないって気づかれるかもしれません。

自分を閉じこめる檻を作ってるのは、自分だった。と気づいてしまえば、解放は真近というものです。

自己概念のダイエット

激しい怒りのようにドラマチックではないけれど、たとえば、何となく、気分が冴えない、無気力に感じられるときなども、なぜそう感じられるんだろう? と自問自答しながら、前提をさぐっていく習慣、役に立ちます。

例えば、この文章を書いている私。今日は何となく気乗りがしなくて、昨日のように書いていても楽しくないし、そもそもなかなか書き始められなかったのですね。なぜだろう? って、ちょっと心を見つめてみました。

すると出てくるわ出てくるわ・・・こんな時によくありがちなことですが、まずは、良いものを書かなくてはならないという、プレッシャーがあります。なぜそこでプレッシャーを感じるかというと、書き手として成功したいとか、コースの深い内容を平易な言葉で語るいい教師でいたいなどといった思いがある。自分が自分について抱くこのようなイメージのことを、コースでは「自己概念」と読んでいます。

世間では、そうした、夢や理想を持つことは、いいことだって、思われていますよね。でも実際には、刃物さながら、私たちの心を傷つけています。こうした思いがあるせいで、たとえば読んでもらえないと傷つき、お話し会をすると来てくれる人の数が気になり、書く前から、発表した後のプレッシャーを感じて書けなくなる始末。

これもすべて、自分ででっち上げたお芝居の中での独りよがりの苦しみにすぎません。

この苦しみを避ける方法は、もちろん、そうした前提の一切合切を手放すことですよね。

でもそれは、夢や理想を「否定する」こととは違う。

「私にはとてもそんなことできません」というような謙遜や、自己卑下、自己否定とも違う。
それもすべて、「自分は自分が何なのか知ってる」という点で、傲慢。エゴは依然として肥大したままだって考えるんですね。

そうした否定的、卑下的なセルフイメージも含め、
私は自分が誰なのか、何ができるのか「わからない」って思うこと。
それだけが求められてる。

「私は誰なのか」について、決めつけるエゴの手をゆるめ、解きほぐしていく。

するとそこには、必ず、愛が流れこんできて、
その愛の中には、スピリットが息づいています。
そそのときに流れこんでくる愛に、その中に息づいているスピリットに、本当のことを教えてもらえるというわけです。

たとえば、今日は、どうも冴えない、筆が進まないと思って、
心を見つめ、始めた私ですが、
私は今、依然として書き続けてはいますが、何のために書いているのか、これが何の意味を持つのか、自分ではさっぱりわからない・・・そう思いながらただ無心に書いています。

そう思うと、心がどんどん軽く、明るくなってきて、筆の勢いもどんどん速まってきます。

理由は簡単。書き手として成功したいとか、コースの深い内容を平易な言葉で語るいい教師でいたいなどといった肥大したエゴの思い、自己概念のプレッシャーから解放されたから。
自意識過剰で身動きつかない状態が、今や過ぎ去ったからです。

また、エゴが退いて、心が空っぽになったところに「愛」が流れこんできたから。
そして、愛の中に息づく本当の私、「わからない」私の代わりにすべてを知っているスピリットのサポートが感じられるからです。

私がもし何か意味のあるものを書けるとしたら、そこからなんですね。

でも、そこで仮に、何かいいものが書けたとして、それで調子に乗って「私は著作家として生きていく」とか、「教師として、もの書きとして、人を助け、世界を救う!」などと自己概念をたてて、思いつめると、大変! エゴでガチガチに固まってしまって、途端に、スピリットのサポートが感じられなくなってきます。インスピレーションは無心だからこそ続くものだからです。

ここのところで、私は何度も何度も、道を誤りました。

逆に、そんなこと、自分にはわからない。今、自分が何のために書いているのか、これが何の意味を持つのか、さっぱりわからない・・・こうやって書いている私が誰なのかも、わからない・・・というふうに、「わからなさ」を最大にキープする限り、一緒にいてくれる。
それがスピリットなのですね。スピリットは私たちの自己概念をゆるめるのを助けてくれる存在なのです。

だから、たとえ、スピリットからのインスピレーションにうながされてやっていることであっても、自己概念にはしない方がいいです。

自然に湧いてくるものを自然い受け取り、淡々と、そのままみんなに流し続けるだけ。その結果、みんなが自分をどう思うかにも、無関心。ただ、一体感だけは、深めていきたい、感じていきたいって思ってる。

名もない、空っぽの私、自分が書き手だとも、教師だとも、みじんも思わない。自己概念を放棄した私、無心にただ書き続ける私がただそこにあるばかり。

だからこそ、その無心さの中に、愛が満ちてきて、スピリットのサポートも感じられる。
というわけで、自己概念はゆるめればゆるめるほど、私たちは活動的、生産的になり、
自己概念でめざしていたものに、実質的には近づいていくといえるのかもしれません。
何だか矛盾していますが・・・

いずれにしろ、確かに言えるのは、そちらの方が楽で、しあわせだってことですね。

というわけで私は、
自分がやろうとしていることに関して、結果がどうなるか不安になったり、
結果をコントロールしようとして悪あがきする自分に気づくたびに、
即、一歩退き、そこにある自分の期待や前提を取り出して、眺めることにしています。

だって、この期待や前提こそ、私を苦しめてるわけですから!
その一つ一つを、結局、そんなこと、「わからないじゃない」って、手放して、
わからない私の代わりにわかってくれているスピリットに、あとは全てをゆだねていきます。

悪さをしている期待や前提が、すっかりなくなるまで。
それがすべてなくなった瞬間、楽になれます。

そしてこの楽な感じを楽しみながら、そこから何かインスピレーションが感じられたら、
あとはそれに従うだけ。その楽なことといったら!

たとえば、こんな具合です。

Aさんの私に対する態度が変。彼女とのこれからの関係、どうなるのだろう?
と不安になったりくよくよ考えそうになったら、

→そうは見えてるけれど、気のせいかも。私には実のところは、まったく「わからない」。

→するとだんだん、安らぎが感じられてきて、この安らぎの中に感じられるスピリットに、私は自分とAさんとの関係のすべてを、ゆだねます。その後、このことについてすっかり忘れてしまい、Aさんとも、トラブルはなし。やっぱり疑心暗鬼にすぎなかったことがわかってくるというわけです。

あるいは、週末の私主宰のイベント、うまくいかなかったらどうしよう? あれもしてないし、これもまだだし・・・たくさんの人が、忙しい、寒い時期に来てくれるというのに、失望させてしまうかも。心配し始めるときりがない。

→ 参加者一人一人に本当の所、何が必要なのか、私にはさっぱり「わからない」。このイベントを自分がなぜやろうとしているのか、これが私にとって、みんなにとって何を意味するのかも、私にはさっぱり「わからない」。つまりエゴとしての私には、これは全くお手上げだってことを、認めようって思う。

→すると、なんだか、気が楽になってきて、この気楽さの中から、いろいろ、突飛で面白いアイデアが湧いてきます。きっとスピリットからのインスピレーションに違いない。だんだんわくわくして、当日、みんなに会えるのが、なんとなく、待ちきれなくなってきた・・・。

そんなふうに、「私にはわからない」→「スピリットは知っている」→「だからスピリットにすべてをゆだねる」というさざ波の中に、あらゆるおそれを溶かしていくのです。

これが自己概念のダイエットです。これを繰り返すたびに、「私は〜をする人で、〜という能力、身分、地位があり、〜を目指してる」といった自己概念が、一つ一つ解きほぐされて、ゆるんでいきます。

そのゆるんだところに、愛が流れこむ余地ができて、しあわせに満たされます。

できる自分、完璧な自分といった自己概念を守るため、プレッシャーに打ちひしがれて、キリキリしながら生きていくのはもうおしまい。

逆に、そんな凝り固まった自己概念をゆっくり解きほぐしながら、自然に湧いてくるインスピレーションの中で自由に動く、リラックスした生活のはじまりです。

自己概念のダイエットをはじめると、心のお掃除にも、加速度がつきます。

先ほど安売り電器屋のセールスマンに憤った人話をしましたが、自分の周りのものがどう感じられるかは、その人のセルフイメージに根ざしてるからです。

たとえば、自分は「知的階級に属する創造的なことに携わる人間」。だから、こんなくだらないことに時間を費やすなんて無駄だ。こんな人と付き合ってられない。もっと大切に扱われてしかるべきだ・・・自分は「「知的階級に属する創造的なことに携わる人間」だというところから、周りのものを決めつけ、いろんな前提や期待を押し付けていることがわかります。でもこの自己概念がゆるむと、そのすべてゆるんで、溶けていき、全く違った世界が見えてくるというわけです。

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