奇跡のコース

心の大掃除とは? 生活のすべてを、愛を奏でるための楽器にする! 

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どこを掃除するの?

不必要なものをカットして、本当に大切なものだけを残す。人生、一区切りつけたいなと思った時に、いつもやること。部屋の掃除、仕事の整理、人間関係の整理、スケジュールの整理、ダイエット・・・ でもここでいう掃除は、そのどれとも違う。世界の中にあるもの、自分や人の行動には一切関わりなし。

きれいにするのはあくまで、そうした一切合切を体験する私たちの心の状態なのですね。

家の中は散らかり放題、洗濯物や洗い物は山のようにたまって、家族は怒ったり、泣きわめいている。それにもかかわらず、私たちがそれを見る心の状態はピカピカに澄み渡り、静かで落ち着いていて、波風ひとつ立たない・・・・なんてこともある。

私たちが目指すこの心の状態の清澄さは、実際、起こってることには、まったく影響されない。

暴動や混乱のただ中でさえ、平安を保ち、静かに微笑んでる人になるってことです。

洗剤には何を使うの?

一言で、ずばり言えば、「愛」。
「愛」を、私たちがやるすべての行動の唯一の目的にするとき、心はどんどん静かに、平和に、そしてきれいになっていきます。

もちろん、
掃除はきれいにするため
料理は空腹を満たすため
電話は用件を果たすため
というふうに、
私たちがやることの表面上の目的は、さまざま、バラバラです。

だから、こうした表面上の目的しか眼中にないとき、心も、バラバラ。
「あ〜いそがしい。なんてやること、多いんだろう!」とストレスに負けそうになったり、
「あ〜疲れた」って座りこんでしまったり、
私たちはたいてい、この表面的な目的しか、見ていません。
そんなとき、心は散らかってる。

でも、そのすべての背後に、
「愛のため」という大目的を置くこともできます。

掃除はきれいにするため。でも究極的には、それを通して、関わるすべてのものへの愛を表現するため
料理は空腹を満たすため。でも究極的には、それを通して、関わるすべてのものへの愛を表現するため
電話は用件を果たすため。でも究極的には、それを通して、関わるすべてのものへの愛を表現するため

そうやって、いつも、愛、愛、愛を思い、感じながらあらゆることをやってると、
表面的な目的のバラバラで、ざわざわして、ストレスフルな感じが、
この大目標の中で、だんだん溶けて、一つにまとまり、落ち着いて、
いろんなことをやってはいるけれど、たった一つのことをやっているような
シンプルさが、心に感じられるようになってきます。

このシンプルなまとまりをしっかり心に感じながら、あらゆることを行うと、
その日全体が、同じ音楽、同じかぐわしい香り、しっとりとした気分に浸されて、
歌を歌うように、ダンスでもするように、流れるように過ぎていくでしょう。

愛を洗剤にして、バラバラな思いを溶かしていく、心のお掃除の始まりです。

愛は時間を超えて

愛、愛、愛ばかりを心に感じながら、やると、どんなに大変な作業をしていても、
心からガサガサした疲弊感が遠のいて、
しっとりとした喜びが感じられるようになります。

愛というこの大目的の、他の表面的な目的との一番大きな違いは、
今、ここで、成就されてる
未来にあるんじゃなくて、今ここに、すでにあること、
あらゆる瞬間、あらゆる場所で、すでに感じられることにあります。

表面的な目的は、成就するまで、時間がかかります。
たとえば、掃除を開始してから、部屋がきれいになるまでは時間がかかるし、
料理を始めてから空腹が消えるまでも時間がかかります。

でも、愛という大目的の方は、その気になれば、作業中のあらゆる瞬間に感じることができる。
たとえば、心をこめて、一拭き一拭き、床磨きをしたり、みんなの喜ぶ顔を想像して微笑みながら、お料理を皿にならべたりすることができます。

愛というこの大目的は、全ての瞬間に、すでに感じられ、
表面的な目的が成就するための、すべてのプロセスを喜びで満たすことができます。

なぜこんなことができるかというと、
愛は直線の時間の中にないからです!

だから、愛をたっぷり感じながら、よろこびのなかでやることは、
全ての瞬間が、愛の中、よろこびの中で一つにまとまり、
気づいてみたらもう終わってる! 時間を全然感じさせないものになります。
ということは、ストレスを感じる間もないこと。
心の掃除、ずいぶん進みますね!

人間関係も溶かしていく!

私はシェアハウスのオーナーをやっていますが、生まれも育ちも価値観も全く違う人たちが、同じ屋根の下で暮らすと、どうしても衝突が生まれます。

共有空間の中でも使用頻度が高いのが台所ですが、放っておくと、戦場になってしまいますね。
清潔観念の基準が違う人が一緒にいると、きれい好きの人はだんだん犠牲者意識を抱くようになるし、
どちらもきれい好きでも、何をもって「きれい」と思うかは、さまざま。
知らず知らずのうちに、自分の基準を人に押しつけるので、対立やストレスが生まれがちです。

でも、そういう衝突があるときって、決まって、「表面上の目的」の方しか、みんな眼中にないのですよね! (表面上の目的しか見えず、しかも完璧主義者だったり、がんばり屋さんで、融通がきかずない人、猪突猛進に目的にまっしぐらな人がそろうと、本当に、恐ろしい戦場になりますね!)

ただ一人でもそこに、愛という「大目的」を心にしっかり抱いている人がいると、それは、必ず、居合わせる人みなに伝染していきます。

そして、結局、自分たちがここで同じ屋根の下で暮らしているのは、ともに愛を表現し、いごこちのいい場をつくるためだった・・・
という原点に舞い戻るのです。

なぜこんなことが起こるかというと、愛は、皮膚で囲まれた身体の境界を超えて、どこまでも広がっていくものだからです。

気づかいをこめた言葉やしぐさ、ほほえみが居合わせてる人たちの間に、自然に生まれ、暖かい雰囲気、しずかな調和が、辺り一面にさざ波のように広がっていく。

どうしてこんなことが起こるかというと、愛は、身体を、個を、エゴを超えたものだからです。

これに対して、表面上の目的の方は、いつも何らかの形で身体のケアやエゴの満足に関わっていることに気づかされます。

掃除はきれいにするため、料理は空腹を満たすため、電話は用件を果たすため・・・

だからここにだけ焦点が当たっていると、目的は完璧に果たせても、周りの人にストレスを感じさせていたり、人間関係はだんだん殺伐としてきたなんてことになりかねません。

でも、究極的には、それを通して、関わるすべてのものへの愛を表現するため
というこの大目標の方に焦点をぐっと当てると、

そこから、暖かく、静かな光があふれ出て、
すべての人を、
場全体を暖かく包みこみ、
バラバラな目的は、
それをやるときに生じるかもしれないトラブルや疲弊感ともども
だんだん透けて、透明になり、存在感を失っていきます。

それと同時に、
私はどうやれば、掃除したり、料理をしたり、この用件を満たせるか、ちゃんと分かってるの。
私には私の流儀、やり方があるので、当然、それを貫くことにする・・・
といった傲慢さも溶けていって、

どうやってこれをすれば、いちばん、「愛」を表現できるのか、
つまり、みんなのため、宇宙全体のためになるのか、
この一見小さなことが、どんな意味を持ってるのか、
私には、さっぱりわからない。どうぞ、教えて!

といった謙虚さも生まれてきます。
この謙虚さ、「わからなさ」が、インスピレーションの受け皿になり、
臨機応変で柔軟、独創的ですらあるアイデアが次々と湧いてきて、

ほんのちょっとしたことから、共同作業が生まれたり、
気づいてみたら、とっても楽しいパーティが始まってた・・・なんてことになるかも。

それこそ、「愛」の中に息づくスピリットのガイダンスのたまものです。

とはいえ、表面的な目的の方も、無視したり、否定する必要はないと思う。
けれど、たとえば、誰かが弾かないと、楽器は単なるブツでしかないのと同じように、
それだけでは、死んだも同然。
それを通して、愛を奏でる道具のように扱うくらいがちょうどいい。

掃除や料理や電話といったいろんな楽器を通して
みんなと一緒に、すべてのたましいと一緒に、愛の音楽を高らかと奏でるうちに、
表面的な目的の方も、
気づいてみたら、もうやってた・・・みたいに、軽々となされるようになる。
それだけしか焦点がなかったときよりも、ずっと、うまく、想像もつかなかったほど、すばらしいかたちで!

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