奇跡のコース

丸裸になって、愛の温泉に浸る! 

  • LINEで送る

カースティンさんの後には、フランシスが、また近いうちにディヴィッドもくると言う噂。すると、エゴは、それにいちいち関わっていたら、それこそ、そればかりで一年、二年、終わってしまうじゃないか〜 などと悲鳴をあげる。そんな「特別」(エゴは最近、コースの概念さえ使いこなす)な力や魅力発する「スター」を追っかけたり、彼らに奴隷のように仕えながら、これからあなた、生きて行くつもり? そんな役回りを、あなた、自分に課していいの? そもそもこれまではあなたの方が人に呼んでもらう役回りだったんじゃないの?

でも正気を取り直して、聖霊とともにちょっと身を引いて、今回のカースティンさんとの体験をながめ直すと、そう言うストーリーとは、全然関係なかったりしますね。

実感から言って、どんどんシンプルで名もない、区別のない世界、愛の海へ溶けこんで、自分が誰であるかも、人が誰であるかも忘れて、深く深くひたっていく。そんな旅があるばかり。

つまり、スターの追っかけをするような特別性への耽溺とは、真逆なのですね。

もちろん、そもそもの発端には、彼女や彼女の本が発する「特別」な魅力があり、そこにあやかりたいと言う気持ちも、いく分、混じってたかもしれない。

その反動として、彼女が実際に家に現れた時には、ささいな「期待はずれ」や「幻滅」に動揺することもあったかも。

スターの「特別」な魅力はいつも、自分の無力感に蓋をするためのもの。無力感が強ければ強いほど、人は誰かの熱烈なファンになる。ただ、そうやってごまかしていても、無力感は減るどころか増すばかり。ほんの少し揺さぶるだけでそれは、蓋を揺るがせ溢れ出て、それは「スター」の側に投影されてしまう。ジョン・レノンをはじめ、スターがファンに危害を加えられたり殺されたりすることがあるのは、そのせい。

私の場合、もちろんそこまでひどくはなかったし、ゆるしの中、彼女の言動で「あれっ?」と感じたことすべて、「考えてみれば私自身、思い当たる節があるな・・・」と言う風に、投影元も、簡単につきつめていけました。

何より、立て続けに起こるシンクロニシティやミラクルが、そんな狭苦しい愛憎の世界をはるかに超えた広大さへと誘ってくれます! 

そこにはいつも、美しい、たった一つのまぶしい光が輝くばかりで、そこにいるのは誰か、誰がそこに関わってるのかも、
そこにいるのが優秀な人だとか、できない人だとか、
魅力があるとかそうでないとか、
「スピリチュアル」な人かどうかさえ、
リアリティも、意味も、全く失ってしまうのですね。

私は私でいるのをやめ続けることでこの光の中にいれる。
子供のように素直に、無垢に、丸裸になって、
本当に幸福になって、ただこの光の中に湯浴みしてる。

そして同じように、レッテルや比較、特別さをすべて脱ぎ捨てて
同じように丸裸になった人たちと温泉にでもひたるように、
この光の中で一つになって休らいでる。

それでもときどき、視点がこの「たった一つの光」からわずかにそれて
そ目の前にいる人(私の愛しい兄弟💗)の体が見えて、「これは、〜さんだった!」と思い出したその瞬間、
どっと愛情が溢れ出し、もう涙にかきくれその人をひしと抱きしめるしかない。
そんな感じです。

こんな状態への旅へと誘ってくれたカースティンに対して、
あるいはこれからくるかもしれない彼女の仲間たちに対して、
何らかの「特別性」を感じるとか、上下関係の圧迫を感じるなんて、
あり得ない! てんで可笑しい話です!

  • LINEで送る