奇跡のコース

ボランティアと献身の違い? カースティンさんのイベントオーガナイザーをしながら思うこと

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ボランティアと献身の違い カースティンさんのイベントオーガナイザーをしながら思うこと

今までいろんなボランティア、やってきたけれど、
いつも無意識のうちに、どこまでだったら楽しくやれるか、
どこから自分を犠牲にしてるって感じるか、
その線をきちんと引いて、心身のバランスをとるよう心がけてきたように思います。

そうやって「線」を引くことで、こんなことだったら、自分にふさわしいし、特技も生かせるし、好きだからやるけど、あんなことはダメ、苦痛だもの・・・・・・といった「自己概念」を守ってたんですね。

けれど、今回のカースティンさんのイベントオーガナイザーのボランティアは、
それとは全然違った感じです。

なんだかわけのわからない流れが目の前にどっと流れていて、その中に飛びこんでいく感じです。その流れの中で、予期しないこと、ありえないこと、腹立たしいこと、屈辱を感じさせられるようなことを含め、いろんなことがどんどん起こっていくのですが、

自己概念の鎧兜(プライド、期待、「これが正しい」「常識でしょ?」といった思いこみ、前提・・・)をどんどん脱いで、身軽になって
じたばたあがいたり、逆らうことをやめて

頭は空っぽ、両手を空にして心を開き、
降参して飛びこむにつれて、

だんだんこの流れが、愛そのもの、慈悲そのもの、祝福や恵みそのものでできてるのがわかってくるのです。

何かストレスを感じると、
これまでのように「線引き」ボランティアをしていたときだと、
これ以上、犠牲を払うと、バーンアウトしてしまうわ。ちょっと、休もう、楽しもう・・・といった具合に、「線」を「人のため」の極から「自分のため」の極寄りに、引き直したものです。

でも、今は逆に
「ストレスを感じるってことは、どんな<自分>をまだ後生大事に抱えこんでるかな?」と心を見つめ、
見つけた自己概念の殻をまた一つ脱ぎ捨てます。
するとまたこの流れが、やさしく、あたたかく、自分を包みこんでくれてるのが感じられて、元気倍増するわけですね。

失敗したら、ヘマをしたらどうしようという恐れが時々、かすめることはあります。でも、この流れのあたかさを感じていると、だんだんそれも、和らいできて、次に何をすればいいか、すでに自分が知っているように感じられることがあります。
まだ誰も到着していない空っぽの家(二週間後にイベント会場になります)に、笑顔に満ちた人の気配が感じられることがすることさえあるくらい。

この流れにひたっていると、その中で、いろんな人とつながっているのが感じられてきます。このつながりがどこまでひろがっているのか、見当もつかないほど、たくさんの人とここですでにつながっていて、線の時間の中で会うときには、互いにそれと認めて、「初対面の気が全然しないわねえ〜」などと言いながら大笑いしそうな気もしています。

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