奇跡のコース

嫌なことを「嫌」だと思うことだけが、嫌なことを存続させる

  • LINEで送る

最近、私が気づいた、なんてことはない、バカバカしいほど単純
だけど、とても楽になったこと、シェアさせてください。

それは、

嫌なことを「嫌」だと思うことだけが、嫌なことを存続させる

ことです。

「嫌なことが嫌」だなんて、何の根拠があって、そう思ってるんだろう?
それは出来事に自分が勝手に貼ったレッテルにすぎず、
なぜそんなレッテルを貼ったかというと、
過去から引きずるいろんな思いこみ、前提、期待があって、それが裏切られたからに過ぎないのですよね。

本当に「嫌」なことなんだろうか、本当だろうか? 
などと疑いながら、
とりあえず、自分が、今、ここで感じていることだけに集中してみます。
もしこうしていたら、ああしていたら、こんなことにならなかったのに・・・
こんなことをしてる場合じゃないわ・・・などなど、
今ここから、心をそらす仮説的な思いも全て忘れ、
一体何でこんなに嫌な気分になったのかも忘れるほど、
ただ、今、この瞬間の感覚に集中するわけです。

嫌なことがあるときに、自分の感じていることに集中するなんて、
場合によっては、とても不快な瞬間になりますが、

しばらくすると、ふっと体が軽くなったり、
心に何か暖かいものが流れこんでくる瞬間が訪れて、
必ず、楽になるのですね。

視界がパッと明るくなって、よろこびが感じられたり、
それまで見えなかった見方ができるようになったり、
まわりのものが全然違って見えてくることもあります。
「あっこれも、なかなかいいじゃない。いい味出してるじゃないか」と思いはじめたりね。

自分で「わかった気になってた」ことはすべて撤回、
ジャッジせず、
抵抗せず、
ただただ淡々と
今、ここで感じられることだけを、
ありのまま受け取る。

それだけのことが、これほどの変容力を持ってるなんて、いつも驚かされます。
奇跡のコースの言葉を使えば、今、この瞬間に、ジャッジメント抜きでいることで、
聖霊の視点になる。
聖霊の助けを得る、
つまり赦す、ということにでもなるのでしょうか?

私にとって、それは、
何があろうと、
人生を信頼して、
与えられたものと一つになることなのですね。

知覚の訂正が起こったあとには必ず、
信頼は報われて、
今起こってることが、やっぱり最善だって思えてきます。

  • LINEで送る