体験的ACIM学習会

ただぽかんとして、「事実確認」して、自分が誰かを選び直すだけ、「体験的ACIM&非二元の会」流ヒーリング

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前回のブログ記事(←参照するには、ここをクリック)で書いた「基本の瞑想」を、何度も繰り返すにつれて、

ぽかんとしたときに感じられる、実相の質にだんだん親しめるようになります。

たとえば、自分の中に、懐かしい、懐かしい我が家がある

一番愛おしい友達がいる

そんな感じが高まってくるかもしれません。

でもそれはあくまで「たとえば」の話です。どうぞこれを真に受けすぎて、

そんな気持ちを自分の生の実相体験に「押し付け」たり、

そんな気持ちがしてくるまで「頑張ろう」としないでください。

というのも、実相の質と親しむ1番のコツは、

実相自体に語ってもらう

ことだからです。

ようするに、ただ、じっと静まって、ぽかんとしながら、耳を澄まし続ける。

それが一番いいのです。

えっ? それだけ? って思われるかもしれませんが、

余計なことをするより、ずっといいのです。

もし、そうしながら、少しずつ、心がけて欲しいことがあるとすれば、

ぽかんとしながら、つまり自分はあくまで空っぽに退きながら、

また耳を澄ませながら

そこで流れ込んでくる質に、自分を表現してもらう、

その邪魔を一切、しないってことです。

私がこのブログの中でお話ししたことであれ、

別の本やコーステキスト、ワークブックレッスンに書かれたことであれ、

「でも正解はこんな体験をすることなんだ」って期待したり、「それと比べれば、私はまだまだ」って思ったりすると、すべてそれがまた「覆い」になってしまいます。エゴの欠乏感の覆いです。

他ならぬあなた自身の中で、他ならぬ、今、この瞬間、「実際に」湧き上がっている実相の質が自分を表現するのを妨害してしまいます。これに気づくのが、どんなに「正しい」と思える知識を身につけるより、ずっと大切なのです。

だって、そのために、すべての学びをやってきてるわけですから!

だから、ただただぽかんとしたまま、ただただ耳を済ませ、

自分の方では空っぽの受容性に徹しながら、

そこで流れ込んでくるものが自分で自分を自然に表現していくこと、

妨げられずに、十全に表現していくのをゆるしてください。

つながりの感覚が、本当に実相体験をしているかを見極めるテストになる

そんなことを言うと、「でも、この時に流れ込んでくるものが、本当に実相なのか、どうやって見極めるの?何か悪い霊に取り憑かれていたらどうするの?」って思われるかもしれません。

手っ取り早いテストがあります。つながりの感覚が増していくかです。

実相を私たちは全ての人、全てのものと分かち合ってます。

実相体験そのものは、その人が一番親しんでいる心の働きを通して、さまざまな形で始まると言いましたが、それでも、この体験そのものの中にすでに、周りの全ての人や物との一体感が増していく感じが含まれてます。

例えば前にアップしたブログに出てくる「事実確認の瞑想」をしながら、

そこで感じられたことが何であれ、

目を開けた時に、周りの全てのものが、同じ質感にかすかに満たされていて、

この質感の中で、かすかであれ、全てのものと無差別につながってる感じ、一体感が感じられたら、それは実相です。

たとえば、この事実確認の瞑想をしているときに、静けさが感じられたとします。そして、その後、目を開くと、まわりのすべてのものが微かなりとも、全く同じ静けさの質感に浸されていて、この静けさの中で、自分と一体だって感じられたら、それは真正の実相体験です。

私たちの会では毎朝、毎晩、瞑想したい人がズーム上で集まって瞑想してますが、集団で瞑想するのも、このテストをしながら実相体験を深めていくいい機会になります。実相体験が深まれば深まるほど、みんなとの一体感も深まることが、はっきりわかります!

ただ、この一体感に、たとえば、「この人だけはダメ!」というような例外が設けられるようだと、それは実相体験とはいえません。

実相の質感が自分を表現する手足となって、働

話を戻しましょう。「事実確認の瞑想」を繰り返し、

ただただ、ぽかんとしながら、自分の方は退きながら、

そこに流れ込んでくる実相が自分を表現するのを、ゆるす。

それを重ねながら、だんだん、心掛けて欲しいのは、

「ここで感じられた実相の質が自分を表現する、そのお手伝いするために、今の自分にできることがあれば、何でもするので、教えてください」

そんな気持ちで待機しながらぽかんとするってことです。

ここで今、現に流れ込んでいる実相の質の「手足」となって動く。

実相が自分を表現するための媒体、管になる。

そんな感じです。

分離が入り込む余地を与えない

そんなふうに実相と親しんでいくと、分離がそこに入り込む余地がありませんよね。

ありのままの「私」とは違う「実相」というものがどこかにあって、

今は離れているけれど、一生懸命努力して、未来においてそれに近づこうとしたり、

何か特別な時にそれと触れ合って、対話したり、願い事を言って祈ったりするって思うと、

そこには、両者がそもそも分離しているという前提が含まれてしまいます。

この前提の上で、努力を重ねれば重ねるほど、分離が裏書きされ、強化されてしまいます。

これに対して、ただただ「ぽかん」としたところに、初めは微かに、でも、だんだんはっきりと流れ込んでくる実相の質が、

自分で自分を表現するのをゆるしながら、

私の方は、次第にその手足となり、その媒体となって働きはじめる・・・

このやり方で進むと、気づいて見ると、いつのまにか、私のアイデンティは、「実相」になりますよね。

つまり、エゴから「実相」へのアイデンティティのお引越しが、

分離の前提を挟んで、余計な障害をそこに持ち込むことなく、

自然に、スムーズに進んでいきます。

1番のタブー この世界に見える問題解決のために実相を使おうとすること

中でも一番やってはならない、最大のタブーは、レベルの混同ですね。つまり、アイデンティティのお引越し前と、お引越し先をごちゃごちゃに混ぜてしまうことです。

ここで自問自答していただきたいのは、

この手のスピリチュアルな学びをあなたがしているそもそもの動機は何かということです。

この世界に見えるこの問題(人間関係、健康状態、財政状態などなど)を何とかしたい! 

ではないでしょうか? 

ただ、「真理を探究したい」と思っていても、

建前ならぬ本音を探っていくと、この手の動機が出てくるかもしれません。

そしてこうした動機の前提を探ると、

この世界の中で、私という人とは違う個人、その個人が持ってる所有物、セルフイメージ、この身体や人間関係は、重要なんだ。

ってことではないでしょうか? 

つまりこのままいくら学びを進めても、

絶えず、引越し前の住処に引っ張られ、そちらに戻り続ける力が働くので、

アクセルと同時にブレーキを踏み続けるようなもので、先に進めなくなります。

ちょっと抽象的でわかりづらいかもしれませんが、このあたりをわかりやすく説明してくれるのが、ルパート・スパイラさんのジョン・スミスとリア王のたとえですね。

幸福な俳優、ジョン・スミスは、何の悩みも知らずに暮らしていたのですが、ある日、悲劇の主人公、リア王役に没頭しすぎて、リア王の世界から抜けれなくなって、芝居が終わっても、自分はこの不幸な王様だと思い込んでるという話です。

ジョン・スミスは本来の私たち、私たちの実相です。自分をリア王だと思い込んでいる私たちが、エゴです。でもそのエゴを後にして、本来の自分は、幸福なジョン・スミスだったねって思い出すのが、私たちの学びの旅の見取り図です。

「事実確認のための瞑想」をする時の私たちが何をしてるか。このたとえで言うと、本来の私は、「ジョン・スミス」だったという記憶を蘇らせているわけですね。

実際、リア王でいるのは苦しいので、私たちは何とか、楽になろう、幸福になろうと、この苦しみからの出口を探します。

ただ、その際大きな誘惑としてあるのが、リア王の世界の中で、リア王の流儀で幸せになろうとすることですよね。例えば、コーディーリアと仲直りしさえすればいいとか、ストーリーの中で動いてしまう。

でも、彼の本当の幸せはそうした夢の一切合切を置いて、後にして、自分はジョン・スミスだったって事実に目覚めること。

レベルの混同は、リア王がリア王の世界の中で見つかる問題を解決するために、ジョン・スミスの力を借りようとするエラーです。そんなことをやっても、夢から目覚めることはできませんよね。

というわけで、この世界に見える問題の方から目が話せないまま、いくら本当の私、私の実相を思い出す、「事実確認の瞑想」を繰り返しても、一時的にいい気分になるだけ。

「それが私」で、「それ以外の私は全て幻想」として後にする、本当の意味での目覚めは、いつまでも体験できなくなってしまいます。

つまり、コースでいう「エゴかスピリットか?」という選択は、あらゆる発想の前提として、私を「誰」だと、決めてかかってるのか? そうした、前提となる視点の選択でもあるって思うのです。

もちろん、「この世界に見える、私のこの苦しい現実、どうにかしたい!」ということから、この道に来ること自体は大丈夫です!みんな、ほとんどの方、そうですし、私自身もそうです!

ただそれを、少しずつでもいいので、「本来の私は、この現実をはるかに超えてる。その事実を確認したい! それを心底、腑に落としたい! それを生きたい!」という方向に、なるだけ早いうちに、態度転換する必要、あります!

他のものは自ずと後からついてくる

ここのところで「では世捨て人になれっていうの?」って質問、いつも受けます。

でもここで、ちょっと先取りしていうと、アイデンティティの引越し、本当に済ませてしまうと、

その前にこの世界で自分が見ていた問題は、ほぼ全て、見事に解消されていて、当時、期待していたことをはるかにしのぐ、それ以上のものが手に入ってるのに気づくこと、多いです。

ただその全ては、副産物、添え物としてついてくる・・・というのが肝要なのです。

まず神の国と神の義を求めよ。そうすれば他の全てはそこに加えられるであろう。

という聖書の言葉は、本当です(ここでいう「神の国と神の義」は私の言う実相にあたります)。

だから心配しなくていいので、

一心不乱に、ただただ、事実確認を重ねながら、そこで見つかる本来の私を取り戻すこと。そこへ完全にアイデンティティを取り戻す。

その作業に集中することにしましょう。

実際のところ、実相体験が深まるほどに、

同じく福音書でイエスが語る「空の鳥」、「野の花」のように、

衣食住やこの世界の細々としたことは、お任せして、心煩わせないでも大丈夫といった

信頼や安心も自然に深まっていきます。

自分で頑張ることから、奇跡と恩寵に運ばれながら生きる人生がはじまります。

でもこれは、ちょっと話を先取りしすぎたかもしれませんね。

まずは実相体験を深めること、「事実確認」によるアイデンティティのお引越しをコツコツ進めることに、集中してください。

レベルの混同がどれほど本当の意味での進歩の妨げになるか。

それは、日々のヒーリングの実践の中で、簡単に確かめることができます。

たとえばよく聞くシェアとして、「会の最中、みんなで一緒に実相に入ることはできて、深~く癒されるのに、一人でやろうとするとうまくいかない」というものがあります。

それにいくつか理由がありますが、今の話の流れで言うと、

会でみんなと実相に入る時は、「実相のために実相に入ってる」のに対して、

一人でやる時には、「この今の私の苦境、何とかしたい」「

そうしながら、だんだん心がけて欲しいのは、

その頃から、このぽかんとしたときに感じられる実相の質を、ヒーリングに使うことができるようになります。

やり方はシンプルで、少しでも心が揺れ、動揺ことがあったら、ぽかんとする。

何か迷うことがあったら、ぽかんとする。

とりあえずぽかんとする癖をつけるだけです。

ただ、一つ、絶対条件があります。

この世界に見える事態を改善しようとしないこと

です。矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、これが一番重要なことなんです。

えっ? 私たち、ヒーリングしているんじゃなかったの? 癒さないヒーリングなんてあるの?

って抗議する声が聞こえてきそうですね。

もちろん、ヒーリングです! ただ、私がここでいうヒーリングは、

本来の自分、実相がどんなものなのか、事実を確認して、

ああ、そうだった。

私の実相、本来の私は安らか、静かだったよね。

私の実相、本来の私は満ち足りていて、全てを受け入れていて、不平不満など別にどこにもなかったよな。

そんなふうに、事実を確認する、そしてなるだけ、それでできる限りそれでいる。以上。

といっても、その後、すぐにこの世界に見える不快な事態、問題に見える事態の方に注意が向って、

一瞬、感じられた実相の安らかさや、満ち足りた感じも、すぐに、乱されるかもしれません。

そうしたら、また、ぽかんとするだけ。そしてそのときそのとき、精一杯の形でいいので、事実確認するだけです。

そこに「選択」があるのです。

つまり、本来の私でいるのを選ぶのか

それとも、分離が見せるこの世界の中に見える問題~本来の私を見えなくする「覆い」がいつも演出する不足感などなど~を、なんとか改善・解決しようとして、問題をますます、リアルなものとして見るのを選ぶのか。つまり、この世界のエゴとしての私でいることを選ぶのか。

この間の選択です。この世界で私が見る問題は重要だ、何とか解決しないと! と思うこと自体が、エゴでい続ける選択をしてるってことになるわけですよ!

何もかも忘れて、ぽかんとすること。これに尽きます。

レッスン189の7段落目にあるように

静かになり、自分とは何か、神とは何か、といったすべての想念、これまで学んできたこの世界についての一切の概念、自分について抱いているあらゆるイメージを脇に置く。あなたの心が、真実だとか偽りだとか、良いとか悪いとか思っているすべてのもの、価値があると判断している想念、あるいは恥じているすべての概念を取り去って、あなたの心を空にしなさい。どんなものにもしがみつかないようにする。過去が教えた想念も、以前あなたが何かから学んだ信念もいっさい持ち込まないようにする。この世界を忘れ、このコースを忘れ、両手を全くからにして、あなたの神の元に来なさい。

これが本当にできると、問題解決ができたかどうかなんて、全然、どうでもよくなります。実相の質をたっぷり感じることで、幸せが溢れて、何が問題だったかも、忘れてしまうかもしれません。「そもそも私、なぜ祈り始めたんだっけ?」って思うかもしれません。

というわけで、全てを忘れて、ただぽかんとして、本来の私が誰であるのか、事実確認して、自分が誰かを選び直すだけ、「体験的ACIM&非二元の会」流ヒーリングです。

この会、2月20、21日より始まります。詳細はこの記事(←ここをクリック)を参照してください。

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