ヘレンのノート版ACIM読書会

ヘレンのノート版ACIM読書会 37回目 犠牲のない復活〜苦しみで取引することから、苦しみを看過することへ

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2023年9月に始まって今も続いているヘレンのノート版ACIM読書会の内容のあらましで、会の前後にみなさんにメールした予告編や、学習内容を定着するワークを、ご紹介しています。

会そのもののビデオは、今も、1本1000円、5本以上そろっての購入だと1本500円でシェアしています。

もしビデオを観られることにもご興味ある方がいらしたら、堀田真紀子(mhorita*gmail.com *に@を入れてください)まで、ご連絡ください。

ヘレンのノート版ACIM読書会 これまでのタイトルの全て一覧できる目次のページはこちらにお入りください

今回使用したテキスト**** 

カメオ33「復活は本当に起こったのか?」 私の試訳は、ここをクリックすると出てきます。


これと関連する、テキスト参考箇所。テーマが根本的なだけに、あげるるとキリがないのですが、三つだけあげさせていただくとすれば、

*青の本、紫の本ともに、テキスト6章1節に入っている、 「十字架刑のメッセージ」

*青の本、紫の本とも、テキスト20章2節 入っている 「百合の花の贈り物」

あと、身体との同一化が外れることが、そのまま即、いのちの甦りであることを、鮮やかに語ってくれているという意味で、復活の本質が書かれているところとして、

*これも青の本、紫の本ともに、テキスト18章8節に入っている 「小さき園」

いずれも素晴らしい箇所です。時間があったら、読んでいただけたらと思います!

予告編****

5月に入り、春も本格化して、日本各地、花が咲き乱れてきたかと思いますが、


北海道は、まだ春が始まったばかり。ようやく桜に蕾がついて、
まだまだ残ろう早朝と夜の寒さに、びくびくしながらも、ためらいがちに開いてきたところです。
冬がとても長く厳しい土地柄なので、春が来るたびに生命の甦りのショーが、結構ドラマチックに演じられます。

イエスの復活を祝うイースターも、4月20日に終わったばかり。
ということで、今回の読書会は、復活をテーマにできればって思い立ちました。



「十字架」ではなく「復活」こそ、重要なんだって、テキストで何度も語られているように、
とっても重要なテーマ。

一般のキリスト教のトレードマークが「十字架」だとすれば、
コースのシンボルは復活の「百合の花」といえるくらい、
ティーチングの根幹をなすものです。

ただ、かなり特異なところがあります。そこをはっきりさせるためには、エゴが考える復活と比較するといいかも。

エゴは、復活は十字架の後、十字架があってこそ、手に入るものだって普通、考えがちですよね。
「苦しんだからこそ、苦しみの代償として、何かいいことが与えられる」「苦しんでなんぼ」の発想、根強いです。

これに対して、コースの復活は、十字架なんて何でもない。苦しみは本当の意味では、どこにもない・・・そのことを、はっきり腑に落とすことで、手にいれるものですよね。
なぜ十字架なんて何でもない、苦しみがないって言い切れるかというと、
苦しみの担い手であるもの~肉体~との同一化が、消えるから。
肉体との同一化が消えていくことで、
肉体で起こっていることが、まずは、愛情深くはあるものの、外から眺める、傍観の対象になり、
さらには、夢の中の出来事にすぎなかったね・・・と、その実在性も、失われ、消えていきます。

エゴ視点から見ると、恐ろしい、ありえないような話に見えるかもしれません。

でも、ほんのちょっとでもこのプロセスを、体験すればわかることですが、
このプロセスを進めるのは、あくまで、あふれるほどの愛と、平安の高まりなのですよね。

それはまるで、私の肉体(肉体と同一化してるセルフイメージ、自己概念、人と違う個人としての私)が体験しているあらゆることと、
それを眺める私との間に、
愛と安らぎがぎゅうぎゅうにつまった、ふかふかのクッションがはさまって、
それが、交通事故の時の のように、ふくらんで、あらゆる衝撃を受け止めてくれるので、
苦しみたくても、苦しみようがないような、感覚です。

私の肉体が経験しているように見える、「苦しみのドラマ」の典型的な一情景」が目に入って、「苦しまなきゃ」という思いが湧いても、
このクッションは膨らみ続ける一方で、そこからますます愛と安らぎが流れてくるので、全然、痛くない。

この感覚、みんなで分かち合えたらなって思います。

前回の回で、何であれ、今この瞬間の自分の体験のありのままを、無条件の愛で包むワーク、やりましたよね。
あのときに、思考が出るスピードが、だんだんゆるやかになり、思考と思考の間が広がって、心がしずまっていく・・・
そんな体験された方には、わかると思います。
私がここで「ふかふかのクッション」と呼んでいるものが、思考と思考の間にはさまり始めたから、
そんな体験されたわけですから!

このプロセスをどんどん進めて、私たちが見る世界の全体をすっぽり包むとき、
身体との同一化が外れていきます。
と同時にこの世界で私たちが見ること、聞くこと、考えること、体験すること全体との同一化も外れて、
ただ絶対的な安らぎと愛の中にいれるようになります。

読書会では、前回の会からの、このプロセスをさらに進めるようなワークをしながら、

みんなでこの感じの中に入っていくってこと、やりたいです。

そして、今後、苦しいことがあるたびに、
「これを我慢すれば、その先、何かいいことがご褒美としてもらえるかも」と、
まるで神や運命と取引するような思いでではなくて、

「こんなの何でもないよ」って、微笑みながら、見過ごす
その力を高めるいい機会! って思えるようになれたらいいですね。



最終的に目指したいのは、あらゆる苦しみ、つまり十字架に対するおそれを癒して、愛と安らぎだけがあるというところに持っていくことです。

というのも、それこそ、イエスが一番、伝えたかったことであるように見えるからです。

テキスト6章、「十字架刑のメッセージ」をこの視点で読むと、
ヘレンやビルをこれ以上怖がらせないように、
イエスがどれほど、愛と思いやりを尽くしているかが伝わってきます。

十字架は怖くない。
私が十字架にかかった理由はただ一つ。
こんな極端な苦しみも「何でもない」ことが示せたら、
あなたたちが普段、人生で日々味わってる、もっと穏やかな苦しみは、ますます「何でもない」ってことが、はっきりするから。
その学習教材になるためだったんだ。

夢から覚めると、どんなに凄まじい苦しみも、もっと穏やかな苦しみも、あるいは、もっと小さなことも、
すべて、「夢にすぎなかったね」と笑って見過ごせるように、
天国の、実相の愛と安らぎにすっぽり包まれて目覚めたところからなら、あらゆることが、見過ごせる。
そうやって見過ごす力、奇跡には、難易度の違いはない
それを示すためだったんだ。

このやさしさ。まさにコースの真髄ですね!

おすすめワーク****

1、「苦しい犠牲を払って幸せになる」の思考回路を、「苦しさが幻想であることを見抜くことで、今ここで幸せになる」体験で、置き換えていく

これができれば、コースの復活のティーチングの真骨頂を身につけたことになると思います。

とはいえ、苦しみの犠牲を経てこそ、いいものを手に入れる。まるで神様や周りの人と、苦しみを使ってギブアンドテイクの取引しているような態度って、

私たちの中に、文化的に深く染み付いてますよね。

この発想がある限り、私たちは、横の時間の中で、ひとりよがりの自己流救済計画を演じることから抜け出せません。

とりあえず、これから2~3週間の間、「今、私、この発想で動いてるな」って、気づくところから始めましょうか? 

苦しみながらいつの間にか、ほんの微かであれ、報いを期待していて、人や状況がその期待に応えてくれないと、不公平感、自己犠牲感、いらだちを募らせていたりしていないか、チェックしてみましょう。「これだけやってあげたのに、何にも認めてくれない、お礼すらしないなんて」「こんなに頑張ってるのに、成果がまだあがらないなんて」(笑)などなど・・・

それに気づいたら、そこにあるいらだち、いらだちの奥にある悲しみ・・・を温泉に浸し、聖霊にゆだねていくってこと、やってみましょう。

苦しみが和らぎ、状況全体に対する知覚や解釈が変容していかないか、ためしてみましょう。

苦しさが幻想であることを見抜く力の基礎にあるのは、形を看過してその奥にある神の子の本性を見る心眼、ヴィジョンを見る力ですね。

ヴィジョンを見る力を鍛えるってことも、意識してやってみましょう。

前回今回の読書会のテーマである無条件の愛とつなげると、ヴィジョン、見やすくなるかもしれません。

無条件の愛は、ヴィジョンを見させてくれる力なので。

2、ヴィジョンを見る、肉体の目で見る。この二つの見方を交互にやって、比べてみる

ビデオでは私相手にやってもらっていますが、

周りの人を、無条件の愛で包みながら見る~つまり、そこに見える形やその形が喚起する思考(投影)をそのままやさしく受容しながらも、それを見通し、看過しながら、

その奥にある、私とあなたが共通に浸されてるやすらぎ、静けさ、やさしさ(温泉ワークしたとき感じられるもの、聖霊、イエスと共にいる感じ)

にフォーカス。

その質感に、自分とその人がともにすっぽり包まれるように見る。つまり、ヴィジョンを見る見方と、

そこに見える形やその形が喚起する思考(投影)のところで止まって、相手をジャッジしながら見る、肉体の目で見る見方。

この二つの見方を、両方やって、その感じを比べてみましょう。

無条件の愛で見る→ジャッジしながら見る→無条件の愛で見るというふうに、最後にはヴィジョンを見る見方に戻って終わるのお勧めします。でないと、きついので。

ヴィジョンを見る方が、肉体の愛るより、ずっと力が抜けていて、楽で、努力せずにできる。ジャッジする方がとても力がいって、身体を緊張させて、硬くしなきゃいけないことを実感することができたら、

このワークの意図は果たしたことになるので、終了してください。

あとは、誰でも何でも、ヴィジョンで見るというのを、やってみましょう。

その場にいる人とやるのがおすすめですが、お互い了解を得て、見つめ合いができなくても、

しばらくの間、他の人とたまたま居合わせて、特にすることもない機会(公共交通機関に乗っている時とか)をとらえられるといいかもしれません。

ペットとやったり、あるいは、ちょっと自信がついてきたら、場の全体、状況全体に対して、やってみるというのもいいかもしれません。

3、自分自身をヴィジョンで見る

無条件の愛から入っていく温泉ワークを、ことあるごとにやってみましょう。

つまり、その時々の自分のあらゆる体験を無条件の愛で包みながら、

そこに見える形、その形が喚起する思考、投影、・・・をそのままやさしく受容しつつも看過しながら、

その奥にあるやさしさ、愛そのものと合流して、そこに安らぐ。神の子としての自分の中で安らぐ。

そこで感じられる質感の中に、聖霊、イエス・・・のプレゼンスを感じて、愛の循環に入ってみましょう。

自信がついてきたら、苦しい時、不快感を感じている時に、これをやって、

安らぎが、衝撃を和らげるクッションとなって、

体験と、体験を見る私の間に、自然に距離感を作って、安心して眺めれるようになったり、

苦しみの元になっている状況に対する知覚や解釈を変容させてくれる働きをしてくれないか、確かめてみましょう。

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