ヘレンのノート版ACIM読書会

ヘレンのノート版ACIM読書会 23回目 「本当の知識」の安らかさに、知識や思考を憩わせる

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2023年9月に始まって今も続いているヘレンのノート版ACIM読書会の内容のあらましで、会の前後にみなさんにメールした予告編や、学習内容を定着するワークを、ご紹介しています。

会そのもののビデオは、今も、1本1000円、5本以上そろっての購入だと1本500円でシェアしています。

もしビデオを観られることにもご興味ある方がいらしたら、堀田真紀子(mhorita*gmail.com *に@を入れてください)まで、ご連絡ください。

ヘレンのノート版ACIM読書会 これまでのタイトルの全て一覧できる目次のページはこちらからお入りください。

*今回使用したテキスト****

今回の第23回目は、紫の本にしかない、テキスト本文2章1節の13~14段落目(試訳はここにあります)、参考箇所として、青の本にもあるテキスト3章3節 知覚 vs.知識(紫の本も同じ) に中心に触れながら、お話しさせていただいています。ここをクリックすると私のこの節の試訳がでてきます。この該当する箇所を参照してください。

*予告編****

今回の読書会のテーマは、知識の所有です。

これまで「所有」について、

タイプ1 人の所有

タイプ2 ものの所有

タイプ3 スピリットの所有 

とみていきました。

そこで結論的にわかったこと、私なりに一言でまとめさせていただくと、

A, 人の所有、スピリットの所有に関しては、そもそも所有なんてできないし、ことさら所有しようと頑張る必要もない(実のところは、一体で、失うことなんてあり得ないから)。

B, ものの所有は、この世界で生きていく上で、所有しなければならないものは、確かにある。ただ、所有をリアルにしない(ジョン・スミスが、リア王を「演じる」ために必要な「小道具」と見る)。

とでもなりましょうか? 

知識の所有についても、同じことが言えると思ってます。

ただ、ペリーさんも言われるように、この箇所で扱われる「知識」は、同じknowledge と言う言葉で語られてはいますが、コースのテキストで後に「知識」とは全然意味が違う。

後にコースで「知識」と言われるのは、神の体験から直接くる知識。実相の中にある不変なものについての知識。ワンネスの知識のことです。

対立もしない。変化することもない。いつも一つ。一致することしかない知識。

普通私たちが知識という時に意味してることとかなり違う。そう言う意味もこめて、日本語訳も、「智識」という漢字が当てられてたりしますよね。

ただ、紫の本の、今回扱う箇所で出てくるknowledge 「知識」と言う言葉は、

ペリーさんもいうように、私たちが普通、「知識」と言う言葉で指すものと、ほぼ同じものを指して、この言葉が使われます。

なぜでしょう? 書き取りが始まったばかりの頃のコースには、これに関わっていたヘレンやビル自身の癒しを意識したメッセージが多く含まれているんですね。

まずは、この2人が癒されないと、書き取りもうまくいかないからなんでしょうね。

所有についての箇所もその色が濃厚です。

たとえば、人間関係の所有といえば、ビルを悩ませていたもので、彼は特にセックスをめぐる問題を抱えていたとも語られてました。これは、タイプ1ですね、

ヘレンはちょっとショッピング中毒風のところがあって、ものの所有をめぐる問題を抱えていた様子。タイプ2ですね、

ヘレンにはまた、タイプ3の前生から来てると思われるスピリチュアルな力の所有に傾きやすいところもあった(最初、コースを記述した時に、これを私のものとして取っておきたいという誘惑に駆られたという話も出てきました)。

タイプ4についても、2人とも、博士号タイトルを持つ学者で、知識の所有の問題、もちろんたっぷり抱えてたこと、想像つきます。

私も20年以上(学生時代も含めると30年以上!)、大学にいましたし、雰囲気よく知ってます(笑)。「それについては、私は一番知ってる」、「私は、その分野の権威です」って人が集まってるわけですが、知識を防衛と、そこからくる権力欲のために使ってる人が集まっていて、その奥には、病的なほどの不安や卑小性隠してる人、多かったです。もちろん私自身そうだったので、それが目についたわけですが。

そんな時に言う「知識」、つまり、2人が抱えていた知識所有の問題とも関わってくる知識は、もちろん普通、私たちが「知識」という時に指しているものです。

コースのテキストで、後に知識という同じ言葉で語られる神からくる知識。実相の中の不変性についての知識は、そもそも所有できないので、所有の問題もありません。

この二つどう区別したらいいか迷ったのですが、神からくる知識は、「本当の知識」、私たちが普通知識という時に指している知識は「エゴの知識」と呼ばせてもらおうかと思います。

今回、目指したいなと思ってるのは、

1、「本当の知識」と「エゴの知識」をはっきり区別すること。

そして、本当の知識しか、究極的には必要ないって、気づくことで、私たちずいぶん、楽になります! この楽な感じ、一言で言えば、「本当の知識は所有できないし、所有する必要もない。私たちと一体なので!」ってことになりますが、この感じ、共有できれば、うれしいです。

2、エゴの知識は、本当の知識を分離によって歪曲した結果生じたものだって腑に落とすこと。

つまり、もともと「本当の知識」だけがあった。そこで私たちが分離を選んだことで、「エゴの知識」が生じたってことですね。

3、「エゴの知識」を癒す。

ということは、分離で、本当の知識が歪曲されたこの道筋を逆さに辿ることさえできれば、「エゴの知識」も「本当の知識」に戻せる。つまり、癒せるってことですね。

もちろんそれは、すべての「エゴの知識」(神からくる知識全てを指してます!)を捨ててくださいってことではありません。それについては、モノの所有の癒し(上のB)と同じことが当てはまります。所有をリアルにするのをやめるだけです。

ほんのちょっとした視点の変換のように見えるかもしれませんが、

そんなふうに、「エゴの知識」を癒しておくって、

とくに、すべての教える立場にある人(職業的に教える立場にいらっしゃる方、あるいは、親として子供を教育されてる方など)が、

教えられる相手と、自分が全く平等だってことを忘れないために、

つまり、上から目線にならないためにも、大切なことだって思います。

「本当の知識」を、私たちはすべての人と分かち合い、共有してます。

たとえ相手がどんなに小さな子供でも、全くの新米でも、どうみても問題ある「できない」人でも、

同じ神の子として、「本当の知識」を共有してるって点で、私たち完全に平等なんですね。

この平等な感じを、心のどこかで、リアルに保ちながら教えるようにすると、

教える時に、言っていることが伝わりやすいし、

何より、相手にも、自分が尊重されていることが伝わって、

自信をつけ、ぐんぐん伸びていける素地になります。

これも私自身、あれこれ失敗を重ねながら、身をもって確かめてきたことです。

というわけで、「エゴの知識」の癒し、自信を持ってお勧めできます。

予習していただける方に****

「エゴの知識」を癒すための下準備を少しされておくといいかもしれません。

ステップ1:

自分の知識との関わり、知識に対する態度を、ざっとチェックしてみます(丁寧にされたい方は、ノートに箇条書きにしてみてください)。

そしてその中で、心の動揺の種になってる関わり、劣等感や、逆にほんの微かにであれ、優越感を伴った関わりだけを、取り出します(というのも、私たちは、すべての知識に対する関わりを、リアルにして、エゴの防衛や投影に使っているわけではないので)。

ステップ2:

その関わりや態度に、どんなエゴからくる動機がからんでいるでしょう? 知識を利用する時のエゴの動機は、ざっと、二つに大別されると思います。

タイプ1、自己賛美、自己称揚、「私は知ってる、あなた、知らないの?」と優越感、自分は他の人と違う、特別である、その特別性を感じるための道具。

その奥に分離からくる卑小さ、みじめさ、自信のなさを隠していることの裏返し。防衛のために知識を使ってるケースですね。

タイプ2、自分の正しさを、主張したり、弁護するための道具。「私(のやり方)が正しい。なぜなら・・・」と言ったニュアンスで知識を振りかざす時の態度ですね。これは明らかに防衛ですね。

1と2のタイプは、防衛の奥に隠してる分離感を感じられるかどうかが、癒す上で大切になってきます。

ステップ3: 

というわけで、当日、みんなでもやる予定ですが、1、2のタイプの知識との関わりが見つかったら、そのもし、奥にある分離感を感じるってところまでやっていただけると、ありがたいです。

タイプ3、自分と知識との関わりを、分離からくる卑小性、みじめさを直接投影するために使う。

タイプ1、2は、ヘレンタイプですが、このタイプはビルタイプによくみられると思います。

どうせ私には、難しいことはわからない。私は頭悪い。あの人のように優秀ではない。~は苦手。

馬鹿にされてる。どうして私の言うこと、誰も本気で聞いてくれないの? ・・・

そんな思いが頭をよぎったら、知識を分離感の投影対象にしてます。

これについては、そこにある感情を、感じるだけで、上のステップ3と同じところにいけます。

悪感情を感じたところで終わるのって、スッキリしませんよね。

というわけで、余裕がある方は、そのあと次のステップに進んで、癒しを進められください。

ステップ4:そこで直接体験されたことを、気づきの2→3で、感じる。

*おすすめワーク

1、知識・思考をエゴが利用してる兆候に気づく・ゆるす

この機会を利用して、このあたりのゆるしを、徹底させてみませんか?

自分が知ってること、信じていること、考えていることを、エゴが利用してる兆候、そこにしばらくフォーカスしてみると、結構、見つかるかもしれません。

「私が正しい、あなたは間違ってる」と、正しさを握りしめて、言い張って防衛してる感じだとか、

どうして私が言ってることを聞いてくれないの?って思ったり。

無視されたり、軽んじられたり、馬鹿にされてる・・・って感じたりと、投影むき出しになってる感じだとか、

あがり症。人前で話したり、成果を公表しなきゃいけないことがあって、自分の能力が試される場を前にして、無価値観からくる恐れが炙り出されてくる感じだとか、

仕事の現場などで、接する情報の多さや高度さに圧倒されて出てくる惨めな感覚、シャットアウトしたくなる感じ、などなど。

具体的には、この会のリマインダーメール中の「予告編」の中で、予習してくださる方におすすめした

ワークのステップ3(そこにある分離感を、ストーリー、レッテル貼りを外した、今この瞬間の直接体験として、とりだす。防衛が入っている時には、なるだけその奥にある感情にも、探りをいれて、感じてあげてください)、

ステップ4 その感情を、気づき3→4で扱う。あるいは、心の助け手、聖霊、イエスにゆだねる。

その後、読書会中や、このビデオの中でお話しさせていただいた「本当の知識」の確かさに着地するところまでいけると、すばらしいです。

たとえば、「本当の知識」の確かさを、土台におきながら、知識と関わると、「教える」立場につきまとうおそれ(言葉にすると、自分自身、まだマスターできていないように思われることを教えなければならない自信のなさ などなど)を、「本当の知識」につながる一体感、つながりを育んでいくことで、気楽で、リラックスしたものに変容させることができます。リアルタイムの会中にも、その手の体験談を、いくつかシェアしてもらいました!

2、知識をスピリットに使ってもらう 

知識の所有をゆるす・・・といっても、「知識を持ってはいけない」と言っているのでは全然ないですよね。エゴではなくて、スピリットに使ってもらえればいいわけです。あるいはエゴの取り消しのために役立てればいいわけです。

リアルタイムの会でも、どんなふうに、これをやっているかについて、体験を踏まえたシェア、いろいろいただきました。

たとえば、一流の哲学者の本を読むと、目から鱗、信念の取り消し、発送法の転換を迫られることが多いってシェアしてくださる方もいらっしゃいました。知識によっては、あるいは、知識と取り組むこちらの態度によっては、エゴの肥やしにする代わりに、エゴの取り消しに使うってこと、確かにできると思います!

所有的態度で知識に対する代わりに、そんな自分の態度を壊して、未知のもの(スピリットの癒しなど)に開かれるために知識を使うってことですね。この会でも、「楽譜は演奏しなきゃ始まらない」と、体験や実践をおすすめしてますが、そういう態度で知識に接すると、所有的態度が入る隙もなくなるって思ってます。

また、同じくリアルタイムの会でシェアしていただいたことで、英語を教えながら、自分の「英語力」に対して、みんなが抱いている投影(苦手意識、劣等感などなど)もろとも、ともに晴らす手伝いをしてる方の話もありました。

どうすれば、知識をスピリットに使ってもらえるか、内側から湧いてくるインスピレーションを集めるために、前々回、21回目でご紹介した祈りを使うのもいいかもしれません。

再録させていただくと、

「これ(知識)を、あなたにゆだね、明け渡します。

すべての人の癒しのために、良きように使ってください。

所有権はあくまであなたにあり、私はそれを借りて、管理してる、管理人にすぎません。

どのように管理したらいいか、どうぞ、教えてください。

これも、いつかは、お返ししなきゃいけない時が来ます。そのときに、これが、今よりあなたの意思にかなったものになっていますように。あなたの意思に沿いながら、持てる力の全て注いで、これをあなたの栄光に輝くものになるように、磨いておきます」

ヘレンのノート版ACIM読書会 24回目 安心する「ために」ではなく、安心「から」動く

ビデオリンク*************************

テキスト****

紫の本 第二章 正しい防衛と恐れからの解放、第1節 所有の本当の意味 (青の本にはありません)、1節の15段落目から17段落目まで。試訳ここにあります。

https://docs.google.com/document/d/17Ur7yAlrh3PJ4ACScdhsykXjunfqBLfjIJFV-2sOEc8/edit?usp=sharing

この箇所は、邦訳もされてる青の本(FIP版)、ないのですが、

青の本にもある、参考になる箇所として、

テキスト18章7節「私は何もする必要がない」。分離を癒すためには、「何をする必要もなかった!」と悟ることが、自己流救済計画の癒しの基本になりますが、

とくにこの最後の8段落目。忙しい活動の最中にも、とどまり続ける「休息の場所」この中心から「肉体を罪なく使う」と言われるあたり、癒された後にどんな生活が待ってるか、その指針になります。

次の8節「小さき園」。分離を癒すことで、自己流救済計画を手放して、神の救済計画に戻るというと、なんだか大袈裟に聞こえます。

でも、ここにあるように、大海の中のたった一つの波が、1人で頑張って、海になろうとして、大海に対抗しようとしてたことに気づいて、自分は大海の一部だったことを認める。その全体の中で、然るべき役割を果たすってことに、すぎないわけですね。

紫の本(CO版)では、「私は何もする必要がない」は、22章7節目に、「小さな園」は、18章7節目にあります。

*予告編****

人生を振り返った時、本当にやりたいことがあったけど、できなかったって思えること、ありますか? 

その理由について考えてみましょう? こんなこと、あんなことがあったせいで・・・つまり、諸々の状況・事情のせいで、あるいは、自分の能力、才能が足りなくて・・・といった理由が、思い浮かぶかもしれませんが、しばらく、立ち止まって「本当にそうだろうか?」って自問自答してみてください。

すると、多くの場合、実のところを言うと、
挫折する前に、あきらめてしまってた!
真っ向から取り組む前に、敵前逃亡してた!
「どうせできない」と思って妥協して、もっと楽な道を選んでたにすぎなかった!
ってことに気づくかもしれません。

私たち、分離からくる苦しみ、そこからくる欠乏感をまぎらわすために、いろんなことをします。

その中には、これが本命。これで自分は救われる。こんな自分の人生にも、価値があった、意味があったって言える・・・って、思いつめながら取り組むプロジェクトもあると思います。

この会で私が、「自己流救済計画」と呼ばせてもらってるものです。

自己流救済計画に取り組んでる時って、出てくる恐れの量も半端ないですよね。

私たちが、何がなんでも、絶対直面したくない恐れの出どころ、分離そのものの前に立ちはだかる最後の要塞みたいなところがあるからです。

正面衝突して、失敗すると、分離の苦しみがどっと噴き出してきます。
そうなると、もう、逃げ場がないぞ・・・と思うので、
それを避けて、敵前逃亡したり、妥協して、その周りをぐるぐる回るだけの迂回ルートをとりたくなるんですね!

でも、本当に私たちが恐れているのは、もっと深いところにあるって言えるかもしれません。
仮に、自己流救済計画が大成功をおさめて、欲しかったもの全て手に入れたとしても、
夢見ていた救いは、そこにはなかったってことに気づくこと。
これを本当は、一番怖がってるのかもしれません。

富や名声の頂点まで上りつめた人が、あんまり幸せそうに見えなかったり、
酒やドラッグに溺れたり、自殺したりすることがあるのは、そのせいなんですね。

ようするに、自己流救済計画って、どう転んでも恐ろしいところ、あるんですね。



今回の読書会では、その中でも、挫折する前に諦めて、敵前逃亡してしまうケースに焦点をあてて、それを一切合切、癒してしまうってところに、ゴールを設定したいと思います。

イエスは、コースの筆記において、ヘレンやビルが親しんでいたフロイト心理学の術語を使うことが多いのですが、テキストではこれを「否認」denial と言う言葉を使って、説明してます(フロイトがこの言葉で指していたことと、イエスがこの言葉を使って言わんとしていたことが、どれだけ一致してるかといった問題を扱うと、脇道にそれるので、とりあえず、置いておいて、イエスの言わんとしてることに沿って、この言葉使わせてください)。

先日、定例会で、参加者とこの問題について話し合ったのですが、
最初はピンと来なかった感があったものの、
話し合えば合うほど、みんな、「心当たり、あるある・・・」って、ことになりました。

つまり、抽象的に見えるのは、見かけだけ、ちょっと考えると、結構、どこにでも転がってる問題だって思います。その「ちょっとした間」をつくるためにも、皆さんにも予習していただけるといいかもしれません!


*予習していただける方に

ステップ1:これさえうまくいけば、幸せになれる!

分離からくる欠乏感(愛されたい、承認されたい、価値を認められたい・・・という思い)が満たされるって思って、

これまでやってこられた自己流の「救済計画」を、思いつくままにあげて、

間にスペースを開けながら、箇条書きに列挙してみてください。


ステップ2:そこであげられた自己流救済計画プロジェクトと自分との関わり方の中に、「否認」的な要素が見られなかったかどうか、自問自答してみてください。

それについて、気づかれたことがあったら、メモしてみてください。

「否認」の例としていくつかあげますね。

テキストに書かれているのは、ヘレンとビルの例ですが、2人とも学者として、「素晴らしい、独創的な知識を手に入れ」発信する、という自己流救済計画、持ってました。と同時に、そこからくるおそれもあって、それがヘレンは、「読書恐怖症」として現れ、ビルは「人前で話すことが苦手」という否認の癖がありました。

そうやって、計画遂行にストップをかけることで、
「うまくいかなくても、うまくいっても恐ろしい」自己流救済計画の限界、矛盾につきあたって、
その奥に隠れている分離に直面することを、避けようとしてたわけですね。

よくある例として、たとえば「勉強しない」受験生の多くは、
本当に勉強が嫌いだったり、勉強ができないのでそうしてるというより、
学力で人の価値が決まってしまうという社会通念に耐えられないからなんですね。
だったらもう、最初っから投げ出してやる!というわけです。

でもこの行動って、この社会通念を、分離からくる自分の欠乏感を癒す救済計画として一旦、受け入れていないと出てこないですよね!そんなのものともしなければ、もっと自由に「勉強」に関われるわけです。

あるいは、本当は自分は絵を描きたい、ミュージシャンになりたかったのだけど、周りに、「そんなので食えるか!」と言われてあきらめて、就職してしまった。あるいは、それとちょっと関係あるけれど、もっと安定した仕事についた。でも今振り返ってみると、本当のところは、本気でやって、自分の才能の限界に直面するのが怖くて、敵前逃亡してただけだったんだ。その口実として、周りの言葉に従っただけなんだ・・・などなど。

あるいは、本当に好きな人と結ばれて、うまくいかないと、つらすぎるので、その人はあえて避けて、「そこそこ」好きな人、ちょっと妥協した相手、これくらいが分相応かな?って思える人とつきあいたい、結婚したいと思う心の動きもそうですね。

女性の場合、実力を出しすぎると、女らしくない、お嫁の貰い手がいなくなるという社会通念がありますよね。それを、否認のための口実として使って、そこそこの学歴やキャリアでやめておく・・・って形で出るかもしれません。

否認が隠してる恐れが、すでに投影としてたくさん出ていて、周りに自分を非難する人、攻撃する人が見えるので、それとの格闘にもっぱら注意が向っていて、奥に「否認」があったって、気づかないようなケースも多いかもしれません。

マンデラ大統領は、アパルトヘイトで苦しんでいる黒人同胞に向かって、「あなたが恐れているのは、本当は圧政者ではない。自分自身が本当は持っている、秘めた力なんだ」と語りかけました。

つまり、神の子としての私たちがすでに嫌というほどパワフルで、愛されていて、満ち足りているか、それを受け入れて、分離が癒されるのを、本当は恐れているというわけです。

それを恐れて、「そんなのないぞ」と「否認」して、「弱い存在」というコンフォートゾーンにい続けるために、圧政者を利用してはいないか。

つまり、圧政者の姿は、自分の恐れを、外側に向かって、投影した結果、見えているに過ぎないのではないかって言ってるんですね。

ここまで根本的に見ると、あらゆる投影の奥に、「否認」があるってことになってしまいますね。



あなたはどんな「制限」を自分にかけて、

それを人や状況のせいにしながら、

とはいえ密かにそこをコンフォートゾーンにしながら、
「そこそこ」の状態で満足しようとする傾向、あるでしょうか? 



というわけで、次は、こうして、あがってきた否認のドラマの一切合切を、癒していくだけです。

これまで、こうした自己流救済計画からくる恐れとの格闘で、私たちがどれほど苦しんできたかを考えると、
何だか途方もないことを企ててるような気がしますが、

ほんのたった一つのことに気づいて、それをこつこつ実践すればいいだけです。

ここまで、一緒に歩いてきてくださったみなさんには、釈迦に説法、もうお分かりだと思いますが、

分離からくる欠乏感は、救済計画の遂行によって癒されるのではなく、
自分の内側に向かうことで癒される

ってことです。
そして正しく、内側に向かうことができれば、
それを癒したくて癒したくてたまらない、心強い力と合流できることですね。

というわけで、


ステップ3:先ほど列挙してもらった、この「否認」の中に隠れた分離感を、気づきの2→3で感じながら、あるいは聖霊にゆだねながら、癒していってください。



自己流救済計画へと私たちを駆り立ててきた分離の欠乏感が癒されてしまったら、
このプロジェクトにこれまで傾けてきた膨大な努力、お金、時間、みんな無駄になってしまうの?

そういうの全部手放して、達観した世捨て人のようになって、その後生きることになるの?

そんな心配を抱く人もいらっしゃるかもしれませんが、大丈夫です。

コースのプログラムに沿って、うまく癒しが進むと、
自己流救済計画の無意味さに気付かされた分、
今度は、神の救済計画の中で、生きる人生がはじまります。

ゆるしを重ねるたびに、それは少しずつ、自然に進みますが、
今は、神の救済計画に、ほぼほぼ従って、ミラクルワーカーとして生きてる・・・って状態になっても、
外側から見ると、やってることは、癒される前とあまり変わらないというのがほとんどじゃないでしょうか?

とはいえ、そこから、
「分離のおそれを直視しなくて済むために築いた最後の砦」という性格が、消えた今、
思いつめたところが消えて、ずいぶん、気楽に、やれるようになってるし、
かえって、のびのびと、持てる力を存分に発揮できるように、なると思います。

それまで、分離から来る欠乏感、飢餓感に駆られて、味わうこともなく、ガツガツと機械的に詰め込むようにやってたことが、
一つ一つ、味わいながら、楽しみながら、丁寧にやれるようになってるのに気づかれるかもしれません。

欠乏を満たすというより、
杯になみなみと注がれたものが、自然に周りに溢れ出ていくように、動けるようになります。

そこに自分の価値がかかってる・・・と言う切羽詰まった気持ちがなくなって、
遊びに興じてるような感覚で。

少なくとも私の経験振り返ってみる限り、これまでやってきたこと、つちかってきた知識やスキル、ほとんど生かせてるし、
逆に、自己流救済計画に始終していたときより、
自分の持ってる力を惜しげなく全て投入して、
のびのびとやれてる気がしてます。
これもみなさんのおかげだと思って、感謝しています



「否認」がらみの自己流救済計画の中で、私たちがどれほど、自分のやりたいこと、できることに、自分から制限を課してきたか、
自分を、自作の監獄の中に自分を閉じ込めることで、
人生を「そこそこ」の「妥協の産物」に貶めてきたか、
考えてみてください!

先に分離感を癒すことで、
怖いもの知らずの無邪気さ、
「当たって砕けろ」の精神で、
のびのびと持てる力を発揮して、
チャンスを全て利用していければ、
人生、どんなに、楽しくなったことでしょう。

今からでも遅くはない!

ということで、今回は、このあたり、徹底的に癒すことができればって思ってます!

*おすすめワーク

ACIMは楽譜のようなもの。 それぞれの学習者がそれを生きることで、 そこからそれぞれの音楽のパーツを演奏することで、意味を持ってくるって思ってます。 

 そのためにも、皆さん一人ひとりが、ここで学ばれたことを、自分の生活の中で、どう活かし、生きていくかを自問自答しながら、学習を進めていかれると、これほどうれしいことはありません。  

ビデオを見ながら、 そこで語られていることの中に、 今の自分の学びのプロセスで、活かせそうなことがあったら、 ぜひ、実践してください。私の方で、おすすめしたいワークは以下の2つです。 すべてをその通りにやらなければいけないというわけでは全然ないです。 ただ、「今の自分に必要かも?」ってピンと来られるものがあれば、ぜひ!  

 聖霊の導きの下、自己流にアレンジしながらされるのもいいと思います。

おすすめワーク一つ目は、「自己流救済計画」という切り口で、癒し、ゆるしをすすめることです。

心の動揺の背後には、いつも、「こうすれば」、自分は幸せになる、分離感が癒される。

そのためには、「ものごとはこうあるべき」「自分はこうあるべき」「人はこうあるべき」といった自分流のプランがあり、そのプラン、その期待が裏切られたことに対する幻滅があります。

心の動揺があるたびに、

1、そこに隠れていた自己流救済計画を暴くということをやってみましょう。

合言葉は、「どうなれば、自分は、ハッピーだったのか?」ですね。

2、次に、その救済計画をすすめることで、埋めようとしていた欠如感、分離感を暴きます。

それをあらわにするための合言葉は、先ほどの問いに対する答えに、

「さもなければ?」を、つけることです。

たとえば、人に冷たくされたと思って、ショックだった場合。

「どうなれば、自分はハッピーだったか?」 「女王様のように大切に扱って欲しかった」

「さもなければ?」「誰も自分を構ってくれない。愛してくれない。寂しい・・・」

3、そこで出てきた分離感を気づきの2→3で包んで癒していきます。

4、癒されたあとに広がる安心感、やさしさ、ゆたかさ・・・の中にたっぷりひたります。

すでに自分はそれをいやというほど持ってることを確かめた後、

5、そもそも、こんな救済計画必要だっただろうか? と自問自答します。

何にもしなくても、もう十分、安心していて、愛されていて、ゆたかだ・・・って確かめられたら、大成功(うまくいかない場合は、3に戻ってください)。

この満たされた安心感の中で、1の動揺が生まれた場面に戻っていき直したら、体験の質がどう変わるか、想像してみてください。

6、この救済計画に否認が含まれているときには、

否認によって、直視することを、避けようとしていたこと、

想定される最悪の事態が起きている様子を想像しながら、

それを、この癒され、安らいだ感じ、聖霊と一緒にいる感じの中で今こそ直視し、見届けるってことやってみましょう(それができない時も、3に戻ってください)。

もう一つのおすすめワークは、癒しのプロセスの中で闇が出てきた時に、試してほしいことです。

否認も含むほどの救済計画の奥には、相当の分離感が隠れてることが予想されます。

そこに眠っていた分離感が、浮上して表に出てくるのは、癒しのプロセスという点から見ると、とてもいいこと、おめでたいことではあるものの、

一時的に辛い体験をされるかもしれません。

そんな時におすすめなのが、あえて、今この瞬間に、直接体験されることだけにフォーカスすることで、闇を光のエネルギーに転換できることができないか、試してみる、以下のワークです。やり方は以下の通り。

たとえば鬱が出てきた場合、

1、まず抵抗をやめます。これを癒す、改善するということをやめて、

今この瞬間感じられるものをまずは、そのまま受け入れて、

2、直接体験にフォーカスすることで、思考をシャットアウトする。

この鬱、放っておくと、そこから「~のせいだ」とか、「~な私はやっぱりだめだ」などなど、どんどんネガティブな思考が出てくるかもしれません。またそこからいろんな行動(事態を改善しようとする行動など)が出てくるかもしれません。

でもそうすると、タイムラインのストーリーに入ってしまい、癒しの力の源泉である聖なる瞬間に入れません。

そこで、そこから思考が紡ぎ出されるのを食い止めるためにも、

今この瞬間、これがどう感じられるか、それを観察することに100パーセント、集中してみてください。

3、すると、鬱が全然感じられないスペースが、心にちょっと開くのに気づかれるかもしれません。

そこに集中してみてください。眉間に注意を向けながら、息をちょっと凝らして、丹田に力を入れるようにするとうまくいくかもしれません。

そうしているうちに、今この瞬間の、醒めた気づきの、光輝く中心点みたいなものができていきます。この中心点は、鬱の影響を全然、受けません。

そのままじっとしていてもいいと思うのですが、もし余裕があれば、

4、あえてこの「中心点」を、鬱の一番闇の濃いところ、心の一番痛むところに当てるってことやってみてください。すると、ホースで、「鬱」を吸入しながら、それを、覚めた気づきに変容させていく、変換装置みたいなものができて、鬱の闇がどんどん気づきの光に変わっていくのを、感じられるかもしれません。

闇って、今この瞬間に集中した、自覚に触れると、エネルギーとして再利用できるのですよ!

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